「これ、私小説?」の噂に答える! 「文庫あとがき」を公開

文字数 3,108文字

映画監督、劇団主宰、ラジオのナビゲーターなど、多岐にわたって活躍する

松居大悟の小説デビュー作『またね家族』。
故郷の福岡と東京を往復しながら小劇団を主宰する葛藤を描き、

刊行時に「これって私小説?」と大きな話題を呼んだ。

文庫化に際して本人が当時の真意を記した、「文庫あとがき」を公開!

 真っ白なキャンバスに向かって無の感情。

 頭より先に体を動かして、本能の赴くままに絵を描いていく。


 そんなのは天才ができることだ。僕らには共通の『言葉』という手段があって、これまで自分が感じている過去や感じたかった未来を想像しながら、物語の中の今を言語化していく。まっさらな架空の物語を、デビュー作から旋律のように生み出してしまう天才ではないから、まずは自分の思い当たる景色や、感覚の輪郭を頭の隅っこから少しずつなぞっていく。


 ミュージシャンがラブソングを歌うと、誰かに向けた私信だとか言い出す根拠は、一体どこにあるのだろう。こと小説だったら、私小説なんてジャンルもあるため、異業種が小説を書いた瞬間にそう当てはめられることが多い。


 本作の主人公・竹田武志は僕自身で、実際の出来事を書いたのだと解釈して、目の奥に微笑みを隠して感想を伝えられることが多かった。野暮なことはわかっているし、書いて何か解決するとは思っていないが、野暮を今一度。


 竹田武志と松居大悟は別人である。


 もちろん福岡出身で劇団を作って父に先立たれている、という背景は一緒だ。自分の知る景色から始めたかった。それによって誤解された部分が多かったかもしれない。というか、誤解するような補助線しか引かれていない。


 ただ僕は、こんなにも、父と向き合うことはできなかった。

 向き合おうともしていないし、最後までほとんど喋っていない。初めは免罪符のつもりで書き始めたが、物語の中の武志はそれを赦さなかった。「お前本当にこれでいいのか?」「そうじゃねえだろ」と武志に鼓舞され、本作は、どんどん物語になっていった。何もできなかった自分が、武志の起こす行動を憧憬していくように。


 それによって生まれた、父と、家族と、改めて向き合いたい、という祈りのような小説が本作なのかもしれない。本が出版されて3年後の今、そう思える。

 出版された当初はそんな誤解もあってか、感想を見るたびにやけに気恥ずかしい気持ちになり、「逆にもう私小説ってことにしたほうが楽なのではないか」と自分自身をフィクションにすり替えようとしてしまっていた。それは甘えだ。自分はここまで立派な人間ではない。


 まあ、どう読むのも自由なので、気にしないでください。せっかく、持ちやすいサイズで『またね家族』が形になるので、何気ない言葉です。

 でも、出してよかったと思う。


 これ本当に自分で書いたのか?

 全部スマホのメモ帳で。手首の奥で思い出した痛みがジンとする。指の先で熱くなっていくスマホの熱を感じる。頭の中で溢れる言葉たちを、指でフリックしていくスピードが追いつかなくて、それが気持ちよかった。


 当時は客観的に読めなかった文章が、今は他人事のように読めて、視覚的にイメージしやすかった。まるで映画監督が書いた小説みたいじゃないか。とくに海で溺れるシークエンス、父との風呂場、最後の墓掃除、痛みと共に残酷で鮮やかな匂いがして、今の自分にはこの熱量は書けない。過去の先輩に天晴れだ。


 天晴れってなんだよ。自分のあとがきで、自分の本褒めるやつやばすぎるだろ。調子に乗るなよ。デビュー作にしては長すぎるよ。17万字って。異業種の人が書くデビュー作なら、もっと級数大きくして行の間隔あけてページ数稼いで、5万字ぐらいの文字数で書いてる感出せばよかったのに。読むの大変だろこれ。


 ともあれ。

 読んでいただき、ありがとうございます。

 小説を書いていて思ったのは、書けば書くほどにいわゆる定型めいた表現から離れて、自分の中にだけあるザラザラしたものが言語化されていくのがわかる。これがクリシェから離れていく、ということか。カッコつけるんじゃないよ。


 もともと映画の脚本や舞台の台本だと、視覚表現の過程という意味で、断定せずに書いてしまうことが多くて、感情表現から遠のいていくのだが、小説だと文字を重ねることによって感情が立体的になっていくという発見があった。映像だと省略すべきところを、どのような距離感で書くべきかどうか、に関心が湧いた。逆に言うと、文字でしか物語を重ねられないから、逃げ道がないのと、余白を作るのが難しい。感情を言語化していく作業は、感情を理解しようとする過程によく似ている。まだまだだけど、ちょっとだけ人の心を慮る優しい人間になれた。


 ただ、優しい人間になれたって書くやつが優しい人間のはずがないのだ。むしろその表現に、悪いやつのあざとさすら孕んでいる。と、そういうややこしさのようなものも言語化できるようになった。できているのかわからない。


 ごちゃごちゃ書きましたがもう直ぐ終わります。君の目的地もあと一駅だ。


 この本を出した後にすぐ次の小説の話をいただいて、4万字ぐらい書いたところで止まっています。ラブストーリーなんですが。女性がAIと恋愛をする物語。始まりの居酒屋のシークエンスは秀逸で、いけるぞいけるぞ、と書いていたが、代々木公園でAIが自意識を持つぐらいのところで筆が止まった。


 なんでだ。代々木公園が広すぎるのか。AIってのがちょっと理系すぎるのか。いや、文芸賞を意識しだしたのと、褒められなくなったからだ。自分でいいぞいいぞと言い聞かせても、誰かにいいぞいいぞと言われないと不安になる。何かのためには書けなくて、誰かのためにしか書けない。映画や演劇といった総合芸術で起きる、誰かと物を作っている実感。いいから言い訳なんてしてないで書けよ。すみません。言い訳だけは永遠に書けるから、言い訳みたいな小説なら書けるのだろうか。


 ああ、書きたいのに書けない。もうちょっとケツを叩かれないと書けない。気を使われないとムッとする。でも気を使われても書けない。そこまでして書くほどの需要がないのもわかっている。


 そういう意味では、今回、講談社の小泉さんは、心が折れそうな時にはケツを叩きながら、書いている途中は全肯定してくれて、本当にありがとうございます。何年も書くのを待っていただきました。そして装丁デザインや宣伝、書店の方など、関わった皆様ありがとうございます。出版されて、母親と兄と兄の友だちが喜んでくれたのが嬉しかったです。なんで兄の友だちが喜んでいるのかわからないけど。ようやくあとがきっぽくなってきたが、あとがきっぽくなった頃にあとがきは終わる。


 書けば書くほどわからなくなって、ようやくこれが小説なのかなってわかってきた頃に書き終えたのが本作だ。

 なんなんだろう、小説って。小さい説。小さくないだろ。


                        2023年9月 松居大悟


松居大悟

1985年、福岡県生まれ。劇団ゴジゲン主宰。2012年『アフロ田中』で映画監督デビュー。監督作に『ワンダフルワールドエンド』(ベルリン国際映画祭出品)、ドラマ・映画『バイプレイヤーズ』シリーズ、『私たちのハァハァ』『アイスと雨音』『君が君で君だ』『くれなずめ』『手』など。17年、第50回北九州市民文化奨励賞受賞。22年『ちょっと思い出しただけ』で第34回東京国際映画祭観客賞・スペシャルメンション、第26回ファンタジア国際映画祭批評家協会賞を受賞。コラム執筆やラジオ番組のナビゲーターも務めている。本作が初の小説となる。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色