『だいたい本当の奇妙な話』試し読み!②
文字数 9,458文字
誰しも一度は『隠れ家』を持ちたいと思ったことはあるはずだ。『秘密基地』と言い換えてもいい。
自分だけの場所。世のしがらみから解き放たれて、ゆったり寛げる安息の場所。または仕事に集中できる場所。そんな場所が欲しいと思ったことは幾度となくある。話を生み出せる場所なら、それこそどこでもいいのだが。
集中できる空間を求めて、賃貸の部屋を探したことがある。そのときの話だ。
進木独行
おーい
守田良平。中学から大学まで、十年間共に過ごした仲だ。多趣味で人好きがする性格だったため、いろんな嗜好の友人を持っていた。大学時代は出席せずに遊んでしまった科目もあるのだが、そんな科目のノートコピーを守田は苦も無く入手していた。世渡り上手なことは間違いない。私自身、彼の世話になった科目は幾つもある。
しかし守田は高所恐怖症を患っていた。二階以上に住めないので平屋住まいだ。レジャーとして訪れる観光地を選ぶどころか、社会人生活もままならない。心配して訊いたことがある。
「卒業後はどうするんだ」
「実はさ、ミステリー作家になりたいと思ってる」
ミステリー好きの読書家だとは知っていたが、そこまでとは思わなかった。子ども時代はよく「怪獣博士になる」とか、中高生でも「霊感があるから霊能者になる」とか、他愛ないことを語るものだが、その延長線上にある夢の印象を受けた。
守田は「毎週欠かさずテレビの推理ドラマを観ている」と胸を張った。まるで「グルメ漫画を読んでいるから美食家になれる」と語るようなものだ。しかし本人のやる気を折るわけにはいかない。先は長そうだが、頑張れと励ますしかなかった。
「それまで生活費はどうするんだ」
「俺、親から受け継ぐマンションを二つ持ってるからさ。家賃収入でなんとかなるよ。管理人を雇えば執筆作業に集中できるし」
こちらは就職活動に汗を流す身である。なんとも羨ましい限りだ。
そもそも取材先が制限される病気だというのに、作品を執筆できるのかと訝しんだが、やはり舞台となる場所の取材すらままならず、数年後に諦めたと守田は零した。
「才能がなかったんだよ」
飲み屋で零す彼を慰めたものだ。
〝才能〟とは、夢を諦めるときに使う言葉だと知った。がむしゃらに取り組んでいるときには決して口にしない。結果論で語られる言葉だ。
ともあれ、守田は東京都江東区の生家で、マンションを経営して生活している。学生時代と変わらず、趣味に没頭できる生活環境が実に羨ましい。
そんな彼に、手頃な部屋はないかと電話で打診したのは五月下旬のことだった。
「あるよ」
守田は即答した。
「ただし、アレだ。心理的瑕疵がある部屋だけどな」
「住人が亡くなった部屋か」
「そんな部屋でもお前なら気にしないだろ。地方から出てきて、東京で就職した人だ。一年間住むという約束だったのに、ひどい五月病に罹ったらしくてな。気落ちしたその人本人と話したこともあったが、ゴールデンウイーク明けに、ベランダから飛び降りた」
「そりゃあ……難儀な話だな。ご愁傷さまと言うべきか」
住人の男性がマンションから飛び降りたのは、五月二週目のことだった。
夜十時頃、同じマンションに住む帰宅途中の会社員女性が飛び降りを目撃した。すぐに通報されて近くの病院に運ばれたが、心肺停止の状態だった。
故人の部屋は念入りに調べられた、特に争った形跡もなく、財布やカード類などの盗難被害に遭った形跡もない。
遺書は見つからなかったが、故人が最近不安定な精神状態にあり、言動にも不審な点が関係者の証言から確認されたため、一時的な錯乱による事故または自殺とみられている。
守田の溜め息がスマホから聞こえてきた。
「人の心の動きなんて分からんよ。おかげで以後の家賃を取りっぱぐれた」
「それこそ、難儀な話だな」
「まだ次の借り手も決まってない。よかったらどうだ。安くしておくぞ」
「心理的瑕疵なんて気にしないよ。そんなことを思い煩うくらいなら、こんな仕事は続けられん」
こちとらホラーやミステリーを描いてなんぼの身だ。
「とりあえず部屋を見せてくれないか」
「もちろんだ。いやあ、助かるよ」
スケジュールを確かめつつ、日を合わせた。
平日の昼下がり。
蔵前橋通りに面したファミレスの一階で、久しぶりに会った守田は少し太っていた。
「この店も久しぶりだが、まだ残っていたことにも驚いたぞ。一度も引っ越ししたことがないお前と同じくらい貴重な店だ」
「ヒトさんも人のことは言えないだろ。お前だって葛飾区亀有から一歩も動いていないだろ」
「まあな」自嘲気味に笑う。「お互い、ケツに根っこが生えてるな」
「ヒトさんは普段はどうしてるんだ」
「部屋の隅で蹲ってるよ。どてら着て、膝を抱えて泣きながらぶつぶつ言ってる」
「なんだ、普通の物書きじゃないか。安心したよ」
守田は表情を和らげた。冗談を言える相手は貴重だ。
「お前こそ、どうなんだ」
「近くの川縁を徘徊してる」
「……お互い健康的な生活を送っているようでなによりだ」
二人で笑い合った。
心なしか周囲の客の顔が引き攣っている。
二人で遅めの昼食を摂りながら、しばし雑談に花を咲かせる。
「最近出た話題のあの本、もう読んだか」
「いや。執筆中は本を読まないよ。作品世界に引っ張られるからな」
「ふうん。そんなものか」
「そんなものだ」
作家になる夢を諦めたという守田は饒舌だった。「もう自分は書かない」と宣言したうえで、手厳しい評価を下していく。まるで学生と話しているような気分になったことは否めない。
「ところで持病は続いているのか」
「高所恐怖症か。治らんよ、これは。一生付き合っていく病気だ」
守田は一度口を『へ』の字に曲げてから、再びスパゲッティカルボナーラを巻いたフォークの先を口へ運んだ。学生時代からの好みも変わらないようだ。
「高い場所を怖がるのは当たり前だ。危険なんだから」
この持病を語るとき、守田はいつも憤る。それだけ不便を感じているのだろう。彼曰く、『低い場所でも、高いところと同じように怖がるのが高所恐怖症』なのだそうだ。
「駅のホームの縁に立てるようなら高所恐怖症じゃないな。高所恐怖症なのに、二階に住んでるなんて考えられねえぞ」
「今回の部屋は一階なのか」
「いや、八階だ」
彼は最後の一口をつるりと食べ終えた。
「だから部屋までは案内する。俺はベランダ側の部屋に入らないから、そのつもりでいてくれ」
「守田が八階まで上がれることに驚いたよ」
「エレベーターなら大丈夫だ。外が見えないからな。新幹線の二階席なんて、絶対アウトだけどな」
これでよく作家を目指していたものだと思う。作品を執筆するための取材は必要不可欠だと思っているので呆れてしまう。
二人で食後のコーヒーを終えてから、現地へと歩いた。
表通りから川沿いの通りに入ってすぐの場所に、マンションはあった。
一昔前なら湿地帯だった場所だ。子どもが足を取られたら、出られなくなってしまうほどの深いところもあったらしい。まるで底なし沼だ。それが今では都会の住宅街として近代建築の建物が並んでいる。
部屋は3LDK。仕事部屋としては広すぎる。なんなら生活拠点にもなる。
「広さは充分だ」
家具が置かれていないので、さらに寂しく広く感じられる。私はドアを開けて次々に部屋を回った。奥のリビング二部屋が外に面している。カーテンを開けたら、ガラス戸の向こうに腰高の鉄柵がついたベランダがあった。八階なので、なかなか眺めがいい。
「俺はそっちに行けないから、ここで控えてるよ」
玄関の辺りから守田の声がした。こんな都会の景観を楽しむことができないとは、実に難儀な持病だ。
私は二部屋ともカーテンを開けた。一方から、ガラス戸を開けてベランダに出る。
川を渡って吹き上げるビル風が心地良い。幸い空は晴れている。こんな日ばかりなら、休憩の際に心が洗われて気分を一新できる。さぞかし仕事も捗るだろう。
私は大きく深呼吸をしながら目を細めた。
「おーい」
下から声がした。男の子の声だ。
私は手摺りに摑まりながら下を覗いた。
小さな公園がある。滑り台と鉄棒、砂場があった。周囲は花壇になっていて、遊歩道が延びている。その先は川とビル街だ。
しかし人の姿はない。離れた通りを行き交う人が数人見えるだけだ。
はて誰の声だったろうと周囲をもう一度見回す。
「おーい」
隠れているのだろうか。
私は少し身を乗り出した。途端、視界が揺らいだ。
平衡感覚がおかしくなり、身体が軽くなる。まるで宙に浮いたようだ。
「う……おっ!」
本能が、危険な状況だと警報を鳴らす。私は鉄柵を摑んだまま腰を落として重心を低くした。
「どうした。なにかあったのか」
背中から守田の声がする。
「いや……ちょっと目まいがしてるだけだ」
「ベランダだな。なにがあろうと鉄柵から手を放すなよ」
「分かってる……」
私は鉄柵を握りしめたまま蹲った。
(手を放しちゃいけない……手を放すな)
呪文のように呟きながら、さらに身を屈めていく。床にへばりつくように身体を伏せて、頭を部屋へ回した。
部屋の板敷きの床が目の前だ。そこまで行けば安全だと本能が語りかけてくる。
私は身を回し、這いずるように部屋へと入った。
ガラス戸に手をかけて、部屋に入ってくる風を追い出すように戸を閉めた。
風が止まった。脇へ引いていたカーテンの揺らぎが止まる。
目まいが収まり、私はふらつきながら立ち上がった。
なんだ、いまのは。
急激な目まいだった。身体も思うように動かない。上も下も分からないというのは、一時的に三半規管が麻痺したのだろうか。子どもの頃にプールで溺れた体験を久しぶりに思い出した。
水泳の上手い下手に関係なく、平衡感覚が麻痺したときに溺れるという話を聞いたことがあるが、まさにそんな状態になった。
私はカーテンを閉めて守田を呼んだ。
「すまん、心配させた。カーテンを閉めたから、こっちに来ても大丈夫だぞ」
「……そうか。心配したぞ」
洗面台で顔を洗っていると、守田が顔を出した。
「俺こそすまなかった。足が竦んで動けなかった」
「いいよ。お前の持病じゃ仕方ない」
「そんな意味じゃ……」守田は言葉を濁らせた。「なにか飲みものを持ってこようか。一階に自販機がある」
「そうか。ペットボトルのミルクコーヒーがあればありがたい」
私はコーヒー党だ。
「分かった。待ってろ」
肩で息をしながら、守田の背中を見送った。
ほどなく戻ってきた守田からペットボトルを受け取り、壁を背にして板敷きの床に腰を下ろす。ミルクコーヒーに口をつけながら、守田に今しがた起きたことを話した。
「少し教えてくれ。ここに住んでいた人は、なにか言っていなかったか」
「いやあ、そんな話は初耳だぞ」
「そうか……」
自分のペットボトルを開けながら、守田も私の横に座った。
「実はな。亡くなった人から妙なことを相談されていた。部屋の外、ベランダに妙なものが見えるってな」
「どんなものだ」私は興味を持った。
「誰もいないはずなのに動く影があるってな。夜なんか、誰かが部屋の中を覗き込んでるとぼやいていたな」
「光の加減かなにかだろ。よくある怪談話だ」
自分にも覚えがある。単なる錯覚だ。
「それがな、あるときその影がはっきり視えたそうだ。黄色いシャツに半ズボン。小学生くらいの男の子だ」
ベランダからなのか。下からではないということは、私が耳にした声の主とは違うのだろうか。
「ベランダを渡り歩いてきたのか。その子の家族へ連絡して帰してやったんだろ」
「時間は二十三時過ぎだぞ。それに、この八階フロアにそんな子どもがいる家族はいない」
「……七階や六階はどうだ」
「やはり該当する家族はいなかった。逆に相談されたよ。ベランダから子どもが覗いてるってな」
「そっちはどうだったんだ」
「頻繁に妙なことが起きると言い残して、その家族は引っ越しちまったよ。自称霊能者の家族で、『ここにはなにかいる』と騒いでいた。いい迷惑だ」
「あれま」
「亡くなった男性なんかは、とうとうベランダに監視カメラまで据え付けたよ。録画機能付のな。で、ある日ベランダに影が動いているのを視て、遠隔操作で録画した。俺はベランダに行けないから管理人に対応を任せていたんだが、あとでその動画を見せて貰ったよ」
「なにも映ってなかっただろ」
「正解だ」
守田は瞑目した。
「なにも映っていなかった。ただ誰もいないベランダだけだ。……どうして分かった」
「カメラに映るようなら誰にでも見えるってことだからな。私は信じちゃいないが、幽霊だったとしても映らんよ。幽霊は視るものではなく、感じる存在だと思ってる」
「けだし名言だな。真実だ」
うんうんと守田は頷いた。
「そのあとで彼は部屋から飛び降りて死んだから、もうなにも訊けなくなっちまった。このマンションで奇妙な体験をしたのは、亡くなった男性と引っ越していった家族だけだが、共通するのは霊感があるらしいことだ」
「〝らしい〟ってなんだ」
「だって確かめることができないだろ。霊感なんてオカルト話のキーワードだぞ」
「それもそうだ」
私はペットボトルに口をつけて舌を湿らせた。
「実は亡くなった男性も、霊能があると零していたんだ。とんだクレーマーだと言って、管理人が悲鳴を上げてたよ」
「霊能力か。専門外だし、あまり関わりたくないな」
「まあそう言うな。お前も、もう関わってる」
「どういう意味だ」
守田はなにも答えず、ペットボトルの水をぐいぐいと飲んだ。
一気に半分空けたペットボトルを口元から放して、小さく息を吐く。
「霊能の場合はな、霊感が顕現しても、まず一種類だ。『視える』とか『聞こえる』とかな。感覚が研ぎ澄まされて霊感にまで伸びるのは五感の一つだけらしい。それだけ感覚を突出させることは難しいってことだな。視覚とか聴覚とか嗅覚とか、複数の霊感を持っているというなら、ただの霊能者を騙る噓吐きだろうな」
「なんとなく分かる。あれもできます、これもできますなんて言う奴は信用できない」
「ちなみに味覚というのは聞いたことないがな」
「詳しいな」
「俺は高所恐怖症だからな。そんな持病で生活に制約がかかっていると、霊感に目覚めてしまうことがある。重い病気か、長患いをしたときに霊能力は発現しやすいそうだ。身体や感覚のつくりが変わるんじゃないかな、普通の人なら、うつ病とかな」
守田はこちらに視線を向けた。
「お前だって幻聴とは限らない」
「じゃあ、なんだ」
「本物の霊能力」
「よせやい、そんなものはないよ。私だけでなく、世の中にもな」
私はオカルトを信じない。正直なところ、何度かそれらしき体験はしている。しかし時が経つと記憶は薄れてしまう。気のせいだと思うなり、記憶の底へ沈めるなりしている。
「……ふうん」
「なんだ、その目は。信じてないな」
「ヒトさんさ。あんたには、きっと聴覚の霊感がある。でなければ説明つかないんだ」
「否定する」即答した。「ヤだよ、そんな能力。なにより胡散臭い。空耳はよくあるけどな」
「お前らしい」
くすりと守田は笑った。
「霊能力者は視覚がほとんど。だけどこれは視覚に長けてる霊能者が多いわけではなくて、視覚なら自覚しやすいってことだと思ってる。聴覚なんて、空耳だと思っちゃうもんな。ヒトさん、幽霊を信じてないだろ」
「もちろん」答えるまでもない。
たしかに自分は空耳が多い。しかも、うつを患って以降に集中している。
けれど、それを霊能力だと思ったことはない。
最近ではいつだったろう──。
取材旅行のホテルだ。岩手県の宮古市にあるホテルに泊まったときだ。
*
エレベーターでフロアに降り立ったときから、ずいぶん空気が澱んでいるなと感じたことを覚えている。
シングルだったが部屋は広かった。バストイレ付でセミダブルのベッドに机と椅子、冷蔵庫。これだけあれば充分だ。
部屋の窓から望むのは路地裏の風景。時折、三陸鉄道の線路の音。昼間は外出するので、帰宿してから資料をとりまとめる作業に集中できればそれでよし。贅沢は言わない。リーズナブルなので言えない。
周辺を散策して、地理を頭に入れてから夜食用に値引きされた総菜を買い、バッグを膨らませて帰るとくたくたになっている。二十三時過ぎにはベッドに潜り込んでいることが多い。
うつらうつらしていると、部屋の中から機械音が響いた。足下からだった。
携帯電話の、充電完了を報せる音だった。
はて枕元に置いたはずの携帯電話の音が、どうして足下から聞こえるのだろうと不審に思ったが、すぐ思い直した。
寝付いているときには、よくあることだからだ。
横になっていると、頭にある感覚器官も通常の位置とは違う。枕に耳をあてているときも多い。上下左右の位置の把握に齟齬を起こしやすいのだ。
気にせず意識を沈めていくと、今度は部屋の中から水音が聞こえた。
じゃぼじゃぼと、湯を張っている音がする。
風呂場はベッドの足下の左側、ちょうどベッドと並んだ場所にある。さては蛇口が緩んだか。だが栓をした覚えはない。自分の部屋の中となれば聞き過ごすわけにはいかない。
「むう……」
起こされた不平代わりに、小さく唸りながらベッドから身を起こす。スリッパを突っかけて風呂場へと向かう。
閉じられたドアの向こうから水音が続いている。
電灯を点けて、把手を回した。
誰もいない風呂。チェーンが付いている栓は蛇口に掛かったままだった。
しかし水音は狭い風呂場に続いている。
じゃぼじゃぼ……。
「んー……?」
洗面台の水で顔を洗う。タオルで拭いながら、耳を澄ます。
じゃぼじゃぼじゃぼ。
音は止まらない。
目の前には乾きかけている浴槽。蛇口から水は出ていないのに、音だけが目の前の浴槽から聞こえてくる。
音の大きさや距離からして、浴槽に十センチほど溜まった湯船に蛇口から湯が注がれている。頭を浴槽に入れてみると、まさに音が大きくなる。本当に注がれているならこの辺りかと目算して頭を近づけてみるが、頭に水や湯がかかる感触はない。それでも、頭のすぐ下から音が響いている。
ふう、と溜め息を吐きつつ身体を起こした。
よくある怪談話ではないか。馬鹿馬鹿しい。ありきたりすぎて他人に話すことも出来ない。いわんや原稿にすることをや。
まただ。ただの幻聴ではないか。断言する。
他人に話したが最後、うつが再発したとか危ない奴だと思われるに決まっている。
私は肩を落としながら、電灯を消してドアを閉めた。ドアの向こうから名残惜しそうに音が響いていたが無視することにした。
ベッドに戻り、寝入ったことは言うまでもない。
*
あのとき視覚の霊能力があったとしたら、どうだったろう。
もしかして目の前に腐乱死体が視えたのではないか。映画『シャイニング』のように抱きついてきたら恐怖だが、幽霊は死んでいるから自律活動できるわけがない。
幽霊がいたとしても、なにも出来ないと私は思っている。いちいち相手をしていたら限りがない。騒ぐだけ馬鹿馬鹿しいし、「視た」という人も含めて鬱陶しいだけだ。時間と労力の無駄だ。
だから私も気に掛けず、できるだけ忘れるよう努めている。
存外忘れられないものだけれど。
「幽霊なんて創作物だ。いると思っちゃいない。でも、いたら刺激的で楽しめる。そんな話を書くのが私の仕事だ。だから書く」
「霊を信じていないお前が、霊能者の話を書くとはね」
私の作品の一つだ。霊能力がある人たちの話を連作にしたことがある。
「新刊エッセイに書いた覚えがあるが、あれはインスピレーションから生まれた創作だ。霊感とは関係ない」
「そうかなあ。ちなみにどんなインスピレーションだった」
私は当時を思い起こした。
*
新人賞を受賞したものの、受賞後の第一作で苦しんでいた。このままでは物書きとして消えてしまうという、強烈な危機感と焦燥感があった。
ふと短編を打診されていたことを思い出して、居間でノートを広げた。コミックを原作としたミステリードラマのDVDをBGM代わりに流しながら、いったん頭を空にする。
そこへドラマの主人公の決め台詞が聞こえてきた。
『ジッちゃんに、醬油をかけて!』
食うんかい。
思わず突っ込みを入れたが、すぐに思い直す。
──聞き違いではなかったか。醬油ではなく、ソースではなかったか。
刹那、閃いた。一気に話が組み上がり、ノートにペンを走らせた。
*
懐かしい思い出だが、仕事の内輪話をそうそう他人に話せるものではない。
我に返り、私は守田に向き直った。
「ところで、なんでこんな話になった」
薄々気づいていた。守田は、先ほど私が体験したことに心当たりがあるのだ。
「守田、お前には霊感があるんだろ」
学生時代に本人から直接聞いたことがある。そのときはただの与太話だと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「さっきから霊能力とは一歩離れた言い方を繰り返してるが、ブレてるぞ。大方、私の反応を窺っていたんだろ」
「なんだ、バレてたか」守田は頭を搔いた。
「なにを視た。正直に言え」
「実はな、さっきお前の呻き声を耳にして、この部屋を覗いたんだ、そしたらベランダにお前がいた。その姿を視て、思わず足が竦んでしまったんだ。動けなかった。すまん」
「さっき聞いた。いいよ、お前の持病じゃ仕方ないんだから」
「いや、違うんだ」
守田はかぶりを振った。
「お前の頭を、無数の手が摑んでいた。薄茶色の腕がベランダの下から伸びていて、お前の頭を下へ落とそうとしていたんだ。肘すら見えない、細長い腕だった。……申し訳ない。助けようと思ったが、身体が固まってしまった」
私は言葉を失った。
「すまん」
辛そうな守田の瞳が、話は真実だと語っている。
「……そういうことは早く言ってくれないかな」
私は唇を尖らせた。
「なんなら俺の身体に触った状態で部屋を見回してみるか。霊能力は共鳴するそうだから、ヒトさんにも視えるかもしれんぞ」
「やめておく。……その手の持ち主は、まるでチョウチンアンコウだな。男の子の姿を感じ取れる者だけを襲ってるわけだ。幽霊というより物の怪の類いだろ」
「あ、そうか」合点がいったとばかりに守田は膝を叩いた。
「本気にするなよ」
私は彼の肩に手を置いて、おもむろに立ち上がった。もうここにいる理由はない。二人で、もう一方のリビングを過ぎりながら玄関へ向かう。
「おーい」
外から声が聞こえた。
後ろにいた守田が私の肩に手をかける。振り向いたら、守田はベランダへ向けた目を剝いていた。
しまった。この部屋はカーテンを開けたままだ。
私はベランダへ視線を向けた。
ガラス戸の向こうに、それが視えた。
青い空と都会の街並みを背景にして、ベランダの向こうから『おいでおいで』している、下から伸びあがった細長い薄茶色の手があった。
私と守田は、固まったまましばし動けなかった。
「……ここはキャンセルだ」
それだけ口にするのが精一杯だった。
嶺里俊介(みねさと・しゅんすけ)
1964年、東京都生まれ。学習院大学法学部法学科卒業。NTT(現NTT東日本)入社。退社後、執筆活動に入る。2015年、『星宿る虫』で第19回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し、翌16年にデビュー。その他の著書に『走馬灯症候群』『地棲魚』『地霊都市 東京第24特別区』『霊能者たち』などがある。