①『源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義』高田崇史・著 試し読み

文字数 17,844文字

高田崇史さんの新刊『源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義』の試し読みです! 

2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」必読書!


 偖も義臣すぐつて此の城にこもり、

 功名一時の叢となる。

「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、

 笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。


  夏草や兵どもが夢の跡


(『おくのほそ道』松尾芭蕉)

《 プロローグ 》

〝まったくもって、面倒なことになったわい〟

 伊勢平氏嫡男、実質上の平氏の棟梁となった四十三歳の平清盛は、手にした蝙蝠扇を音高くパチリと鳴らすと、大きく嘆息した。

〝義母上は、一体何を考えておられるのか……〟

 清盛の父・忠盛の継室、藤原宗子のことだ。

 宗子は、仁平三年(一一五三)正月に忠盛が世を去ると、出家して尼となった。その後、六波羅の池殿で暮らしているため「池禅尼」と呼ばれている。絶大なる権力を手にした清盛が苦手にしている、数少ない人間の一人だった。

 清盛とは直接の血の繫がりはない上に、今は尼になって隠棲しているとはいうものの、父の継室だった女性であり、未だに朝廷との結びつきも非常に深く広い。

 故に、とても無下にはできないのだが、

〝しかし、こればかりは〟

 清盛は思い切り顔をしかめると、先日の池禅尼との会話を思い出した──。


 平治元年(一一五九)十二月九日から始まった平治の乱は、一ヵ月足らずで終息した。その三年前、保元元年(一一五六)に勃発した保元の乱で共に戦った、源氏の棟梁・源義朝は、今回の戦いでは清盛たちと敵対し敗れ去った。

 義朝と共に源氏の柱だった長男の悪源太義平は、不埒にも清盛の命を狙っていたところを捕縛し、今年の初めに六条河原で斬首した。

 更に、深手を負っていた次男の朝長も、美濃国で自ら願って義朝に首を落としてもらったと聞く。三男の頼朝は、一行にはぐれていたところを捕縛し、六波羅に軟禁してある。

 当の義朝も、東国へ逃げ帰る途中の尾張国で郎党の裏切りに遭い、乳兄弟の鎌田政清と共に命を落とした。

 大勝利である。

 これは、同じ源氏の源頼政が彼らを見捨て、手を貸さなかったおかげが大きかった。もしもあの時、頼政が義朝たちに与していたら、情勢がどう動いたかは分からなかったろう。

 そのおかげで今、平氏の全盛を迎えている。この世の春爛漫である。

 ところがここで清盛は、突然、池禅尼から呼び出された。何事かと思って急ぎ伺えば、六波羅の頼朝の話をしたいという。

 清盛は、胸騒ぎを覚えながら禅尼と対面したが、その予感は的中した。

「例の源氏の子ですが」禅尼は清盛を、じろりと見た。「あなたは、どうなさるおつもりか」

 もちろん、と清盛は笑う。

「いずれ、首を落とさざるを得ないでしょう。何といっても、我ら平氏一門に弓を引いた下野守・義朝の嫡男ですから」

「今や、平氏の世は盤石。ここで幼子の一人殺して、何とする」

「いかな幼子といえ、将来、どんな禍をもたらすか知れませぬ。禍根は全て断っておかねば」

「しかし、まだ元服前の子供とか」

「万が一の話とはいえ、いずれ我らが家に立ち向かってくるやも知れません。何しろ我らは、あ奴の父親始め一族兄弟を、数えきれぬほど殺し去っていますから」

「それならば尚更、生かしおくことが供養ではありませぬか」

「いえいえ、そうは参りませぬ」

 しかし、と池禅尼は、清盛を睨む。

「あなたは近頃、その頼朝の亡き父の側室、常盤御前とやらにうつつを抜かしているという話」

 事実、常盤御前は清盛のもとへ、幼い子ら三人を引き連れて命乞いに来ていた。天下に名だたる美女といわれたその常盤を、清盛は自分の愛妾にしていたのである。

「いや、それは──」

「巷間、そういう噂で溢れております」

「だが、それとこれとは」清盛は苦い顔をする。「全く別の話です」

「あわれ恋しき昔かな」

 池禅尼は、自分に言い聞かせるように呟き、さめざめと泣いた。

「刑部卿忠盛さまが生きておわさば、私のたった一つの願いが、こうもすげなくあしらわれることはなかったであろうに……」

「いや、義母上──」

 しかも、と池禅尼は目を細めて清盛を見た。

「我が子、頼盛が申すには、頼朝とやらは若くして亡くなった頼盛の兄・家盛と瓜二つとか」

「何と申される、義母上」

「私は、そう聞きましたが、そうなのですか」

 春浅い庭では鹿威しが、コン……と乾いた音を立てた──。

 袂で涙を拭いながらの長い池禅尼の言葉が終わると、清盛は心の中で大きなため息をついた。

 そうは言われても──。

 やはり、その助命嘆願を受け入れるわけにはいかない。

 清盛は、青ざめた顔でよろりと席を立った。


 実に迷惑な嘆願だ。

 敵の子孫は根絶やしにするというのが常ではないか。現に六波羅の頼朝も、幼いながらに覚悟を決めているように聞いた。

 どうして、突然こんな面倒なことを言い出されたのか。このような話を聞かされるくらいなら、敵も味方も目を見張った唐皮鎧を身にまとい、鏑矢の飛び交う戦場を駆け巡っている方が余程楽だ。

 清盛が苦虫を嚙みつぶしたような顔で座っていると、嫡男の重盛がやって来た。平氏一族の中でも、とても人望が篤く、清盛の跡を継ぐのはこの男しかいないと平氏の誰もが思っている、実に頼もしい男だ。

 しかし今、重盛は「父上」と硬い顔で告げた。

「少々忌々しき事態に」

「なんだ」

 先日の池禅尼の頼朝助命嘆願の話は、重盛にも伝えてある。もちろん彼も、聞かぬことにしておいた方がよろしいでしょうと答えた。清盛と同じ考えだ。

 ところが今、重盛の口から出てきたのは、思いもよらない話だった。

 何と、池禅尼が断食に入っているという。

「どういうことだ」

「自らのたっての願いを聞き入れてもらえなかったため、もうこの世に未練はないとおっしゃったそうで。ところが、ご高齢のため、あっという間に体調を崩され、このままでは命に関わるのではないかと──」

「馬鹿な」重盛の言葉に、清盛は忿怒の形相で立ち上がった。「何故に禅尼は、そこまでするのか」

「ご本心までは分かりかねますが、しかし──」


 重盛の話を聞き終えて、清盛は叫んだ。

「わしに一体、どうしろというのだ」

 すると重盛は、清盛に近づいて囁くように告げた。

「先年の、鎮西八郎為朝のように、遠島という手段がよろしいかと」

「遠流か……」

「そして時期を見て、謀反の疑いありといって攻め、奴の細首を討ち取ってしまえばよろしいのでは……」

「なるほど」

 これで、全て丸く収まる。

 さすが重盛、智恵が働く。

 清盛は、重盛を見ながら呵々大笑した。

「頼朝の斬罪は取り止めて、遠流とする」

「私から禅尼にお伝えしましょう」

 いや、と清盛は手を振った。

「見舞いがてら、わしが行く」

「承知致しました」重盛は、深々と頭を下げた。「では、すぐに手配を」

「頼む」

 そう言うと清盛は、扇で自分の肩を叩いた。

〝だがそうなると……。あの頼朝の命を救う以上、やはり常盤御前の子供たちの命も救わなくてはならぬな〟

 清盛は遠い目で庭を見やりながら思った。


 永暦元年(一一六〇)早春。

 後に権大納言・時忠が、

「此一門にあらざらむ人は、皆人非人なるべし」

 とまで言い放ち、知行国三十余国、荘園五百ヵ所、田園その数を知らずと言われるまでに栄華を誇った平家一門の命運は、この瞬間に窮まったのである。

《 三月十三日(土)赤口・神吉 》


「人間というものを本当に理解している人は歴史を書こうというあこがれなんか持ちませんよ。歴史なんて、おもちゃの兵隊です」



 三月半ばの柔らかい日差しが、東京・麴町、日枝山王大学のキャンパスを若草色に包みこんでいた。

 入学試験も卒業式も終わって入学式までの数週間、校内は開花を待つ桜の木のように静かになり、時折キャンパスをよぎる研究室生や、学校関係者の姿が認められるばかりだった。C棟三階の民俗学研究室も、普段なら教授たちや学生の出入りで騒がしいが、今日は助教授の小余綾俊輔が一人、自分の机の前に渋い顔で腰を下ろしているだけ。

 開け放たれた窓から、花の香りを乗せた冷たい風が流れてきた時、俊輔は手にしていた月刊誌を閉じると、芸術的ともいえるバランスを保って机の上に積み上げられている書物の山に向かって、ポンと放り投げた。

 それは日本史関係の専門誌で、今月号の特集は「源平合戦」。

 この辺りは歴史学的にも謎が多いようだが、俊輔たち民俗学的立場から見ても大きな疑問点が一つある。

 それは「源義経は何故、怨霊になっていないのか」という点だ。

 一の谷・屋島・壇ノ浦と立て続けに平氏を破り、ついに一族滅亡にまで追い込んだ、日本史上に燦然と輝く天才武将・義経。こうした数々の戦果を挙げたにもかかわらず、兄・頼朝から不興を買って、落ち延びて行った奥州で頼った藤原氏の寝返りに遭い、家族主従共々討ち取られてしまった。そんな大きな恨みを吞んでいる(実際にそう口にしている)のだから、死後は当然「怨霊」になるはず。

 ところが、義経が怨霊となったという話は、全く残っていない。そのため、実は密かに北国へ逃げて生き延びたのではないか、という説が流布した。

 しかし俊輔は、その説に違和感を持っている。間違いなく義経は、奥州・高館で命を落としているはず。しかも非常な怨念を抱いて。

 そうであれば、怨霊として祀られていてもおかしくはない。いや、祀られていると考えるのが常識だ。なのに、そんな痕跡は全くと言って良いほど見当たらない。

 更に──。

〝ここも理解に苦しむ……〟

 俊輔は眉根を強く寄せると、首を何度も横に振った。

 何年か前にも、大きく引っかかった部分。だが、日本中世史は俊輔の専門分野ではなく、同時に個人的な研究も忙しくなったため、そのまま放っておくしかなかった問題だ。それが再び頭をもたげる。

 永暦元年(一一六〇)の、池禅尼による頼朝助命嘆願と清盛の容認だ。

『義経記』巻第六「関東より勧修坊を召さるる事」の条に「池殿の憐み深くして、死罪を流罪に申し行ひて」とある。

「すんでに処刑されるはずでおありのところを、池殿のご憐愍が深く、死刑を流罪におなだめになり、弥平兵衛宗清にその身柄を預け、永暦の春のころであったか、伊豆の北条にある奈古谷の蛭ケ小島という所に流されて」──云々。

 この時の清盛の決断が、二十五年後の平家滅亡を決定づけてしまったのだ。

 治承五年(一一八一)、原因不明の高熱病に襲われた清盛が「あつち死に」してから、たった四年後の元暦二年(一一八五)三月二十四日に、平家は壇ノ浦の戦いで全滅する。しかもその際、わずか六歳、数えでも八歳の幼帝・安徳天皇が入水。三種の神器のうち草薙剣が海の底に沈んでしまうという、日本史上かつてない大悲劇を巻き起こした。

 壇ノ浦の戦いから十三年後の建久九年(一一九八)には、清盛の血を引く最後の平氏・六代御前が由比ヶ浜で斬首され、直系の血筋は完全に絶える。まさに『平家物語』の冒頭の「諸行無常」であり、その言葉通り「たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」だ。

 考えれば考えるほど不可思議な助命嘆願ではないか。どうして自分も、もっと早くから疑問を抱かなかったのか。これは間違いなく、源平合戦の中で最大級の謎だ。

 いや、ひょっとすると、日本史上、特筆されるような大きな謎なのではないか。

 何故あれほどの大政治家である清盛が、継母・池禅尼の助命嘆願を最終的に受け入れたのか。当の頼朝でさえ、すでに死罪を覚悟していた状況だったというのに。

 池禅尼の嘆願が命懸けだったから。断食まで決行したその必死さが、清盛や嫡子の重盛の心を動かしたのだという。

 では、どうして彼女は、それほど必死に助命を願い出たのか?

 彼女ももちろん、敵方の男子は殺し尽くさなくては危険だということを、充分に承知していたはずだ。にもかかわらず、こともあろうに最大のライバルである源氏の子、頼朝の命を救おうとしたのは、二十代という若さで病死してしまった池禅尼の息子・家盛と、頼朝の顔がそっくりだったから。

 本当か?

 当時、頼朝は十三歳。子供の顔は似ているように見えるというものの、全く血筋の違う頼朝だ。偶然としてもその確率は低いはずだから、禅尼の単なる思い込みだったのかも知れない。いや、百歩譲って本当に似ていたとしても、たかがそれだけの理由で、自らの命まで懸けて助命嘆願するだろうか?

 実は頼朝助命のために、母方の実家である尾張国の熱田神宮や、鳥羽天皇中宮の待賢門院の娘・上西門院が動いたのだが、物語としては池禅尼の話の方が感動的だからという説もある。あるいはこの時、命を救われたわずか二人の子供によって、日本国に君臨していた平家が倒されてしまうという、ドラマティックな展開が面白いから、というものも。

 よくもまあ、好き勝手な理由を考えつくものだと感心してしまうが、どちらにしても、この時の池禅尼の嘆願と、清盛の下した決断が、結果的に自分たちの子孫を全滅させてしまったのだから、史上稀に見るほど愚かな行為だったとする点に関しては、殆ど異論がない。

 しかし──これが、この事件に関しての最大の謎だ。

 どうして、こんな通常では考えられない状況説明が、歴史の専門家を含め、現在まで長年にわたって素直に受け入れられてきたのか? 誰もが本当に、その理由で納得しているのか。

 そして、池禅尼や清盛の「愚かな行為」とする評価は、本当に正しいのか。彼らにしてみれば、そうせざるをえない理由があったのではないか。

 もしもあったとすれば──?

 俊輔は、集中する時の癖で自分の顎を強く捻ったが、

〝分からない……〟

 見当すらつかなかった。

 俊輔は脱力してイスの背に体を預けると、研究室の薄汚れた天井を仰いだ。

 これらの解答には、強い違和感がある。

 これが「義経の非怨霊化」の謎と並ぶ、大きな謎。

 一見何の関連もない話に思えるこの二つの謎は、絶対にどこかで関連しているはず。これも俊輔の「直感」だが、きっと水面下で繫がっていると確信している。

 まだそれが見えないだけで、この謎の答えこそが「源平合戦」の真の姿に直結している。そう確信できる。

 俊輔は民俗学科助教授で、歴史が専門ではない。

 しかし以前に、俊輔の研究室教授からこんなことを言われた。

「『遠野物語』だけを読んでいては、決して『遠野物語』を理解することはできないよ。『平家物語』を、どれだけ精密に研究したところで、それだけでは永遠に『平家物語』を理解できないようにね」

 確かにその通りだと思った。

 俊輔は、民俗学の枠組みを飛び越えて、文学・古代史・戦国史・伝統芸能などの分野に手を出した。そしてそれが、他の学部の教授たちから嫌悪される原因となった。あいつは自分の専門分野も一人前ではないくせに、勝手に他人の庭に入って来ては、綺麗に手入れされた緑の芝生を散々荒らして帰って行く。身の程知らずの、とんでもない男だ──。

 俊輔は、苦笑するしかなかった。

 大きなお世話だ。『日本書紀』を読んでいない人間に、『源氏物語』や『蜻蛉日記』が読めるか。『古事記』の内容を知らないで、能や歌舞伎や文楽が理解できるか。

 できるわけがない。

 全部繫がっているのだ。ただ便宜上、日本史、国文学、民俗学などと分けているだけだ。それに留まらず、化学、数学、物理学も、全部繫がっているはずだ。

 しかし……。

 そんなアウトローな生活も、もう終わる。

 俊輔は今月、正確に言えば五日後に、この日枝山王大学を退職する。それからは、悠々自適の気ままな生活を送るつもりだ。

 研究に関しては、優秀な後輩たちが引き継いでくれることになっているから、何の心配もないし、大学にも未練はない。強がりではなく、安閑恬静・明鏡止水。清々としている。

 これからは時間や規則に囚われることもなく、分野も関係なく、毎日自分の好きなことだけを考えながら、ゆったりと日々を過ごすことができるのだから。そしてすぐに、遠方の寺社に出かけることになっている。

 俊輔は机の上に広がっている──今までならば間違いなく破り捨ててしまっただろう──煩雑な書類に視線を落とした。

〝といって……〟

 今の疑問をここに積み残したまま、研究室を去って良いものだろうか。

 後悔しないか?

 後から改めてゆっくり考えるとしても、この研究室を離れてどこまでできる?

 俊輔は、再び深い皺を眉根に刻ませた。

*****


 心地好い風が頰を撫で渡る、弥生三月の土曜日。

 神戸市兵庫区・鵯越に足を運んだ堀越誠也は、眼下に広がる市街を眺めながら逸る心を落ち着かせるように、大きく深呼吸した。

 一の谷の古戦場だ。

 近くには大きな森林公園があり、辺りは緑一面。そこに一本、緩く曲がりくねった道が通っている。ここから一連の「源平合戦」が始まったとは、とても想像できない爽やかなシチュエーションだった。

 誠也は、東京・日枝山王大学歴史学研究室の助教。

 教授の熊谷源二郎にはとても気に入られていて、そう遠くない時期に助教授になることは確実だろうといわれている。

 ちなみに座右の銘は「果報は寝て待て」だけれど、今回ばかりはそう言っているわけにもいかず、神戸まで一人でやってきた。

 研究テーマ「源平合戦」のフィールドワークだがそれは、あくまでも表向きの理由で、昔から源義経が好きでたまらない。何しろ誠也の誕生日は、四月三十日。もちろんこれは、文治五年(一一八九)義経の命日だ。

 その上、幼い頃に自分たちは源氏の家系であることが自慢の祖父母が、毎晩のように話してくれた「義経と弁慶」の物語を聞いて育ち、小さかった誠也の心の中に、血湧き肉躍る「義経伝説」が刷り込まれた。

 だから、いつかきちんと「源平合戦」を研究したくて、歴史学科を卒業後は大学院へと進み、こうして歴史学研究室に入ったのだ。修士論文も「源義経」だった。

 研究室の熊谷教授は、まさに歴史学の王道を行くような謹厳実直な教授で、専門は日本中世史。鎌倉時代から江戸時代の辺りだ。しかし当然ながら、平安時代も非常に詳しかったし、数々の持論も持っているようだった。そこで誠也は学んでいる。

 そもそも歴史を研究しようと思い始めたきっかけは、高校時代に入っていた「旅行好き」のサークルだった。

 ただ単に旅行をして遊んでいただけでは余りに身も蓋もないということで「史跡巡り研究会」という名称をつけて、実際に日本各地をまわっているうち、いつしか誠也は本心から史跡や歴史に心を惹かれるようになっていた。

 そのサークル活動で、一の谷には以前に一度やって来ていたが、その時は半ば観光だけで終わってしまったのを、ずっと後悔していた。だが、今回は違う。関連史跡を、全てきちんとまわる。そして確認することは、この一点。


〝本当に、義経の坂落としは行われたのか?〟


 寿永三年(一一八四)二月七日。

 摂津国・一の谷において、源範頼・義経の率いる源氏と、平氏が激突した。現在の、神戸市須磨区一ノ谷町の辺りだ。平氏は数万の軍勢で福原を抱きかかえるようにして、東は生田口、西は一の谷口から塩屋まで陣を敷き、南面している海域は軍船で守り固めた上に、北面は険しく「屛風のように」立ち並ぶ山々が守っている。東西南北、平氏の陣容は鉄壁で盤石と思われた。

 ところがその時、範頼軍と分かれて山中を進軍してきた義経率いる三千の精鋭たちが、突如、峻険な鵯越からそれぞれの愛馬共々、坂落としを仕掛け、平氏軍の背後を奇襲した。

 一の谷の合戦のハイライトシーンだ。

 この時の様子が『平家物語』や『源平盛衰記』には、こう描かれている──。

 本隊の範頼軍とは別の搦め手として、義経一行は平氏の背後の鵯越に立った。しかし下方を見れば七、八十メートルの小石混じりの断崖で、とても馬では駆け下れそうもない。

 誰もが諦めかけたその時、地元の猟師から、この崖を鹿が通うという話を聞いた義経は、

「鹿が通る道は、馬場と同じ。ここを駆け降りる!」

 命じると同時に、自ら馬に鞭を入れた。

 大きく嘶く名馬・大夫黒にまたがり、赤絲縅、七段の大袖付の鎧を身にまとった義経が、かけ声と共に風のように崖を下って行く。

 胸躍る場面だ。

 まさか大将だけ駆け降りさせるわけにもいかず、覚悟を決めた精鋭数十騎が真っ逆さまに落ちるようにして続いた。この時、怪力で知られた畠山次郎重忠は「三日月」と名づけた逞しい栗毛の馬に乗っていたが、

「ここは大変な悪所、馬を転ばせては一大事。今は馬を労ってやらねば」

 と言うや否や、身に纏っている重厚な鎧の上から馬を背負って、崖を降りて行った。それを眺めた誰もが「まさに鬼神の仕業」と舌を巻いたと伝えられている。

 頭から転げ落ちるように山を下った義経たちは、完全に油断していた平氏軍の背後から襲いかかる。片端から草を薙ぐように斬りまくり、浜辺に建てられている屋形や仮屋に火を放っては、あわてふためく兵士たちをまた斬り殺した。

 この突然の攻撃に、平氏の軍は為す術もなく散り散りになって波打ち際まで逃げ惑い、停泊している船に飛び乗ろうとした。しかし、武装した何百人という兵士が乗り込んできたために、船が何艘も沈んでしまった。

 そこで、すでに乗り込んでいた兵たちは「雑兵は乗せるな!」と言いながら、船縁に取りついた味方の兵士たちの手や腕を次々に斬り落とす。そのため、彼らの血で一の谷の水際は真っ赤に染まった。

 結果、平氏軍は全く収拾のつかない混乱の中、大惨敗。

 主将軍の宗盛以下は、続々と四国へと逃げ渡ったが、越前三位・通盛、弟の蔵人大夫・業盛、薩摩守・忠度、武蔵守・知章、備中守・師盛、尾張守・清貞、淡路守・清房、皇后宮亮・経正、弟の若狭守・経俊、その弟の大夫・敦盛ら、名だたる武将たちが戦死した。更に、副将軍の三位中将・重衡は、乳母子の後藤兵衛盛長に裏切られ、生け捕られる。

 その後、権中納言・維盛は熊野・那智の、青岸渡寺から極楽浄土を目指して船出(入水)する補陀落渡海へと旅立ち、左近衛権中将・清経は、大分・宇佐の柳ヶ浦で入水。また通盛の妻・小宰相は、屋島への帰路で夫の後を追うように入水して自ら命を絶った。

 平氏は非常な劣勢に追い込まれ、源氏は圧倒的優勢に立ったのである。

 その一の谷の戦いを決定づけたのが、今の「義経による鵯越の坂落とし」。源平合戦となれば、さまざまな小説や舞台・映画などで必ずクローズアップされる場面だ。

 ──と、誰もが長い間そう思って信じ込んでいる。

 こうして現地にやって来れば、坂の上に建てられた石碑には、


「この道は摂播交通の古道で、源平合戦のとき源義経が、この山道のあたりから一の谷へ攻め下ったと伝えられる」


 そう刻まれている。

 しかし。

〝確かに変だ……〟

 地図を眺めてみると、大きな疑問点が一つ浮かび上がってくる。

 鵯越と一の谷との距離が遠すぎるのだ。

 確かに『平家物語』や『吾妻鏡』には、義経が鵯越から一の谷を攻撃したと書かれている。ところが、こうやって確認してみると鵯越から一の谷までは、かなり遠い。最短距離の山沿いの道を取っても、南西に向かって七、八キロ行かなくては到着しない。

 地理的、物理的に無理があるのではないか。

 その上、平安から鎌倉にかけて執筆された、公家・九条兼実の日記の『玉葉』によれば、戦いの時間は「辰の刻から巳の刻まで」とある。辰の刻は、現在の午前八時。巳の刻は、午前十時。つまり、たった二時間の間に決着がついたことになる。

 東の砦の生田口は、ここから北東に三、四キロだから、そこから福原を経由して一の谷までは、およそ十キロ。そして最西端の塩屋までを考えると、約十五キロにわたる長い戦線を、義経たちはわずか二時間で制圧したことになる。

 いくらなんでも不可能なのではないか。

 平氏が大慌てで退散したとしても、数万の軍勢だ。二時間で撃破することは無理では──。

 実はこの辺りのことに関して、日枝山王大学の「ブラック・ボックス」と陰口を叩かれている民俗学研究室の、小余綾俊輔助教授に言われたことがある。

「きみは、実際に一の谷に行ったことがあるのかな?」

 と。そこで「もちろん行きました!」と訴える誠也に、

「じゃあ、もう一度ゆっくり考え直してみると良いよ。きっと疑問がたくさん湧いてくるから」

 小余綾はそう言い残して去って行ってしまった……。



 誠也は鵯越駅に戻り、神戸電鉄に乗り込むと、新開地へと向かった。

 新開地からは、タクシーを使うことにした。このまま一の谷から、敦盛たちゆかりの須磨寺もまわる予定だからだ。タクシーを捕まえると、取りあえず一の谷へと向かってもらいながら、地元の人たちの間では「鵯越と一の谷」に関してどう言い伝えられているのか、運転手に尋ねてみた。

 すると、

「そこらへんの詳しいことは、私らにはよう分かりませんわ」運転手は言った。「せやけど、昔から鵯越も一の谷も同じように言われてますし。いつの間にか鵯越と一の谷が、ごっちゃになってしもたんと違いますかね。何や知らんけど」

「八キロも離れているのにですか?」

「まあねえ」と運転手は、曖昧に答える。「そこらへんのこと、歴史関係の本には何て書いとったかなあ」

 そこで誠也は『平家物語』と『吾妻鏡』、そして『玉葉』の話をした。

「おたく、えらい詳しいですなあ。どこの大学行きよってん?」

「いえ──」

 誠也は苦笑いしながら、東京の日枝山王大学歴史学研究室の助教だと自己紹介した。誠也は若く見えるようで、しばしばこうして学生と間違えられてしまう。三十歳を過ぎると、それも微妙なところ……。

「そうなん」と運転手はバックミラーで覗き込みながら頷いた。

「ほしたら、やっぱりいつの間にか、鵯越と一の谷が一緒くたになってしもたんやろね。ああ、そうゆうたら、義経が駆け降りたんは、ほんまは鉄拐山や、ちゅう話を聞いたことがあるわ。須磨に住んではるお客さんが言うてはったなあ」

「鉄拐山?」

「一の谷の裏手の山やで。標高は確か……鵯越と同じ位で二百メートルくらいやて聞いとるわ。そこの東南の斜面を、義経やら弁慶やらが頭から転げ落ちたゆうて」

「その山、見られますか?」

「見られるも何も」運転手は笑った。「一の谷の裏手に、そびえとるわ。けど、登るのは大変やね。知らんけど、六甲山縦走コースに入っとるや入っとらんや……。けど、隣の鉢伏山なら、ロープウェイで頂上まで行かれるよ。展望閣もあるし、今日は天気がええから、須磨浦が一望できるんやないかな」

「そうですか……」

 その辺りのことは行った時の様子で決めようと思い、誠也はシートに体を預けると軽く目を閉じた。

 実は、誠也を悩ませ続けている問題が、もう一つある。義経たちが鵯越を駆け降りて、一気に一の谷まで制圧したと考えにくい理由。

 それは、義経たち源氏の軍勢の数だった。

 平氏の軍勢は、どの本を見ても「数万騎」と書かれているし、一方の源氏軍に関しては『平家物語』や『吾妻鏡』では、範頼軍五万余騎、義経軍二万余騎などとなっている。そして更に義経軍は一の谷直前で分かれ『平家物語』によれば、直接義経が率いたのは三千騎だということになっている。ところが『玉葉』によると、平氏は九州からの加勢が未だ到着していなかったにもかかわらず数万騎。それに対して源氏は、わずか一、二千騎にすぎなかったと書かれている。

 そう考えると、鵯越で義経と共に坂落としを掛けたのは、わずか数十騎だったという『源平盛衰記』の話が納得できる。

 というのも『平家物語』の言うように、坂落とし直前の義経軍が三千騎だったとすると「精鋭数十騎」が鵯越を駆け降りて行った後、その場には二千九百騎以上もの軍勢が残されたことになる。彼らはただ茫然と、崖の上から義経たちを見送ったことになってしまうのだ。かといって、そんな急峻な崖を三千もの人馬が一斉に、雪崩のように駆け降りたなどという話も信じ難い。だから、おそらく『玉葉』の説が正しく、源氏の軍勢は範頼たちを合わせても、たかだか数千騎だったのだろう。

 それは良い。

 しかしそうなると、また新たな疑問が湧く。

 義経たちは、自分たちの数十倍もの人数の敵を本当に打ち破れたのか? 果たして、そんなことが可能だったのか?

 いくら「一騎当千」の武者だといっても、それは単なる喩えだし、現代の格闘技のプロでさえ、相手が素人でも必死にかかってこられたら、せいぜい四人を相手にするのが限界だと聞いたことがある。事実、『義経記』などでは、義経たちが奥州・高館で攻め込まれた時に、彼の郎党たちは、それぞれ敵を三、四人倒した後で誰もが「良く戦った。今はこれまで」と言い残して自害している。

 なのに一の谷では、数十倍の敵を相手に勝利した。これは、おそらく不可能だ。

 ただ──。

 可能性が一つある。

 それは、後白河法皇と頼朝が仕組んだ「陰謀」に、平氏がはまってしまったという説だ。

 実はこの戦いの直前、後白河法皇から源氏と平氏に向けて、休戦命令が出ていた。というのも、前年の寿永二年(一一八三)に後鳥羽天皇の践祚を強行したのだが、三種の神器は安徳天皇、つまり平氏の手元にあった。それがどうしても欲しい後白河法皇は、神器を取り戻すべく平氏と交渉していたのだ。

 また、清盛亡き平氏としても、可能であれば以前のように源氏・平氏と並び立って朝廷に仕えることを望んでいた。そこで二位尼・時子たち平氏は、自分たちは戦いを好んでいるわけではないという和平案を、後白河法皇の使者に渡していた。ゆえに平氏は、陣は敷いたものの鎧兜を脱ぎ武装を解いていた。そこにいきなり、休戦命令や和平案など知ったことではないと、義経たちは攻め込んだ。

 しかも、背後から。

 この作戦ならば、たとえ数では何十倍の敵がいようとも、一気に蹴散らすことは可能だ。

 誠也としては、義経がそんな卑怯な作戦を執ったとは考えたくなかったけれど、冷静に俯瞰すればその可能性が一番高いかも知れない。

 複雑な気持ちで嘆息しながら、左手に広がる須磨浦を眺めていると、

「着きましたで」

 運転手が言った。

 国道二号線とJR神戸線、そして山陽電鉄本線の線路に挟まれた緑の木立から広がる空間が、須磨浦公園だった。国道脇の神戸線の向こうには、青い波をたたえて須磨浦が広がっている。海の中に建っている白い大きな建物は「須磨海づり公園」だそうだ。海と山をパノラマのように眺めながらの釣りは、心が洗われるようでとても楽しそうだったが……今日は目的が違う。

 誠也は早速「源平史蹟 戦の濱」と刻まれた、須磨浦に向かって立つ石碑を見学すると、その近くに設置されている、一の谷の戦いの説明板に目を落とした。そこには「一の谷から西一帯の海岸(昭和三十八年頃)」というタイトルがつけられた白黒の写真が掲げられていた。それこそ、一の谷の戦場を彷彿させるような、何もない長い海岸線が続いており、写真の下には、


「一の谷と戦の濱

『一の谷』は、鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流にそう地域で、この公園の東の境界にあたる。

一一八四年(寿永三年)二月七日の源平の戦いでは、平氏の陣があったといわれ、この谷を二百メートルあまりさかのぼると二つに分かれ、東の一の谷本流に対して、西の谷を赤旗の谷と呼び、平家の赤旗で満ちていた谷だと伝えられている。

一の谷から西一帯の海岸は、『戦の濱』といわれ、毎年二月七日の夜明けには松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられ、ここが源平の戦のなかでも特筆される激戦の地であったことが偲ばれる」


 とあった。

 しかし、こうやって実際に足を運んでみると、やはりこの戦いは、あくまでも「福原合戦」であり「一の谷の戦い」と呼ぶのは無理があると感じた。実際に、鵯越からここまで、タクシーでも二十分ほどかかった。当時であれば、辿り着くだけでも一時間は必要だったろう。

 誠也は、公園の背後にそびえ立つ鉄拐山を眺めて、大きく溜息をついた。

〝やっぱり無理だな、これは……〟

 標高は、鵯越とさほど変わらないというし、当時の地形がどうなっていたのかも分からない。

 だが、少なくとも現状では不可能だ。鵯越よりも、遥かに峻険すぎる──。


 誠也は次に、須磨浦公園の南西に建てられている敦盛塚にまわってもらうことにした。須磨浦ロープウェイに乗って鉢伏山上駅まで行くことのできる「須磨浦公園駅」の近くだ。

 この辺りは『源氏物語』第十二帖の「須磨」の舞台でもある。光源氏の言葉に神が感応し、須磨浦が大荒れになってしまう場面が描かれている。波が荒々しく浜に襲いかかり、人々は足が地に着かぬほど慌てふためき、誰もがこの世は滅びてしまうのか、と不安におののいた──。

 今は、海も穏やかに凪いで、午後の日差しをキラキラと反射させているだけだ。

 国道を少し走ると、右手に案内板と細い路地が見えた。

「一の谷敦盛卿之墓」

「史蹟 敦盛塚」

 と刻まれた石碑が、路地の入り口左右に門柱のように建っている。誠也はその前でタクシーから降りると、そのまま待っていてもらう。路地を覗けば、白く延びる石畳の突き当たりに鬱蒼と繁る木々に包まれて、立派な五輪塔が建てられていた。

 敦盛塚だ。

 石畳を進むと塔の手前に説明板があり、そこには、


   「敦盛塚石造五輪塔

   ○総高 三百九十七センチメートル

   ○製作年代 室町時代末期~桃山時代」


 ──云々と塔の説明があり、最後の方に、


「この付近は源平一の谷合戦場として知られ、寿永三年(一一八四)二月七日に、当時十六歳の平敦盛が、熊谷次郎直実によって首を討たれ、それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から〝敦盛塚〟と呼ばれるようになった」


 ──と書かれていた。

 自分の研究室の熊谷教授も、この「熊谷」に繫がっているのかも……。

 だが、今はそんなことは関係ない。

 現実に戻って塚の前に立つと、おそらくは地元の人だろう、綺麗な花が活けられ、線香の灰も山のようだった。

 石畳の道を戻る途中の句碑に大きく刻まれた「青葉の笛」という文字を目にしながらタクシーに乗り込むと、運転手に須磨寺にまわってもらうように告げた。

 車が走り出すと、今度は須磨浦を右手に眺めながら『平家物語』の「敦盛最期」を思い出す──。


 一の谷での平氏の敗北が明らかになり、誰もが続々と海に浮かぶ船へと逃げ出した時、源氏側の熊谷次郎直実は、誰か良い敵がいないものかと思いながら、海辺を目指して馬を走らせていた。すると前方に、萌黄色の鎧を着て黄金造りの太刀を佩き、葦毛の馬に黄覆輪の鞍を置いた堂々たる武者が、ただ一騎、沖に浮かぶ船目指して馬を海に乗り入れさせようとしていた。

 それを目にした直実は叫ぶ。

「そこを落ち行かれるのは、大将軍とお見受けした。卑怯にも、敵に後ろを見せられるのか。返させ給え!」

 その声を聞いた武者は、もうすでに海に入っていたにもかかわらず、取って返すと直実に向かってきた。直実は、望むところと、馬上から組みついて浜辺に引きずり落とし、取って押さえて首を搔き斬ろうとして、立派な兜を押し上げた時、驚きの余り目を見張る。

 自分が砂浜に組み敷いているのは、薄化粧をして鉄漿で歯を黒く染めた美少年だったのだ。年の頃は、十六、七。おそらく直実の子供の小次郎と同じ年頃ではないか。

 激しく動揺した直実が、命を助けようとして名を尋ねると、

「汝は誰そ」

 と問うので直実は名乗ったが、若武者は答えない。位が違うというのだ。身分の低い直実に自分の名を名乗るくらいなら、命などいらぬというわけだ。命よりも名を取った、その凜とした威厳に、

「あっぱれ、大将軍や」

 直実は感激する。

 すでに戦の大勢は、源氏の勝利で決している。ここで、この若武者一人の命を取ったところで、何も変わらないだろう。

 そう思った直実は、若武者を見逃そうとしたが、その時、運悪く後方から、五十騎ばかりの源氏の兵たちが蹄を蹴立てて駆けつけて来た。しかも彼らを率いているのは、大手と搦め手のそれぞれの侍大将、梶原景時と土肥次郎だった。

 ここで見逃しても、多勢に無勢。沖の船に辿り着く前に、間違いなく彼らの手で討たれてしまうに違いない。しかも彼らは軍監──軍の監督も務めているから、間違っても敵将を見逃すようなことはしない。

 焦った直実が、それならばいっそ自分の手で……と思い、再度名を尋ねてもその若武者は、

「すみやかに首を取れ」

 と言うばかり。

 その潔さと哀れさに、直実の目から突如涙が溢れ出した。

 つい昨日、息子の小次郎と共に平氏の軍を攻めた時、息子が左腕を射られて負傷した。それだけでも心が痛かったのに、討たれたと聞いたら、この若武者の父親の嘆きはいかばかりか。

 流れ落ちる涙で景色も曇って、前後不覚。しかし、ぐずぐずしている時間はない。直実は無我夢中で若武者の首を搔き斬った。

 返り血を浴びたまま涙にくれていたが、いつまでもそうしているわけにはいかない。若武者の鎧・直垂をほどいて、首を包もうとした時、彼が腰に挿していた錦の袋に、一本の笛を見つけた。それを見て、「あっ」と直実は息を吞む。

 そういえば今朝、須磨の浜辺に笛の音が響き渡ったのだ。時に優しく、時に哀しく、その澄んだ音色が直実たちの陣にまで届いていた。命懸けの戦の場に笛を持ち込むなど、どんな優雅な武将だろうと想像していた。それがまさに。

「あの笛は、この若武者のものだったのか……」

 直実の胸は一層、締めつけられるように痛んだ。

 この若武者こそが、清盛の甥・敦盛。享年十七(満十六歳)。

 彼が所持していた笛は、祖父の忠盛が鳥羽院から賜った物で、いわゆる「青葉の笛」。弘法大師空海が、天竺の竹を使って作ったという伝説の笛だ。直実は、敦盛の首と青葉の笛とを、源氏が陣地としていた須磨寺に持ち帰ったが、それらを見て涙を流さなかった者は、誰一人としていなかったと伝えられている。

 約十年後。直実は、自ら髻を切り、名を「蓮生」と改めて出家した──。


 須磨寺に到着すると、誠也は「おおきに」と微笑む運転手の声を背にしてタクシーを降りる。帰りは須磨寺駅まで歩き、そこから山陽電鉄に乗れば良い。誠也は、寺の前の「真言宗須磨寺派 大本山」などの須磨寺略史が書かれている説明板を横目で見ながら正面にそびえ立つ仁王門をくぐる。

 左手には、海岸線で直実が敦盛を呼び止めたシーンを表す等身大の勇壮なオブジェが建てられていて、その庭前には、


   笛の音に波もよりくる須磨の秋


 という、与謝蕪村の句碑があった。

 誠也は正面の石段を登って唐門をくぐる。手水所で口と手を清めた後、豊臣秀頼が再建したという本堂にお参りした。

 立派な本堂に並んで大師堂があり、その斜め前には「義経腰掛けの松」と「敦盛首洗池」がある。屋根で覆われて太く古い松の幹が飾られており、義経はこの幹に腰を下ろして、敦盛の首実検をしたと説明板にあった。池の周囲には、一時期この寺で過ごしたという放浪の自由律俳人、尾崎放哉の句碑や、


   公達の血のりを秘めて七百年

    水静かなり須磨寺の池

   白崎弘皓


 という歌碑が建っていた。

 八角堂や弁天社、出世稲荷などを過ぎ、朱色にそびえ立つ立派な三重塔を眺めながら少し行くと、右手に「敦盛公首塚」が見えた。

 つい先ほど誠也が参ってきた「敦盛塚」は「胴塚」だ。そちらと比べると遥かに小さな五輪の塔が、狭い祠の中に祀られていた。近くには、謡曲『敦盛』の簡単な紹介と、直実が首実検の後、敦盛の遺品や戦死の様子をしたためた文を、義経の許しを得て敦盛の父・経盛に送った──という説明書きが立てられている。直実は、心底敦盛に同情したようだ。

 その帰り道、「敦盛首洗池」の向かいに「青葉の笛歌碑」が建っていたことに気がついた。歌碑の隣には、ボタンを押すと曲が流れる装置(?)が用意されている。

 その曲は、もちろん文部省唱歌の、


 『青葉の笛』

  大和田建樹:作詞

  田村虎蔵:作曲


 一の谷の軍破れ

 討たれし平家の公達あわれ

 暁寒き須磨の嵐に

 聞こえしはこれか青葉の笛


 更くる夜半に門を敲き

 わが師に託せし言の葉あわれ

 今わの際まで持ちし箙に

 残れるは「花や今宵」の歌


 という有名な曲だ。

 誠也はそのまま宝物館へと向かい「敦盛卿木像」や、黄金の厨子に納められている「敦盛卿所持」の「青葉の笛」を見学した。ちなみに今の「青葉の笛」の歌の、一番はもちろん敦盛。そして、二番に登場する武士は敦盛の叔父、薩摩守・忠度である。忠度に関しては『平家物語』「忠度最期」に、こう載っている──。


 剛勇で知られた薩摩守忠度は、一の谷の西の手の大将軍だった。しかし、義経たちの奇襲を受けて総崩れとなったため、部下の兵たちに守られて落ちようとした。その姿を、武蔵国猪俣党の岡部六弥太忠純が見つけ、馬上から大声で呼び止める。

 大音声に、部下の兵たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ、忠度も誤魔化そうとしたが、口を開いた時に歯の鉄漿黒を見られてしまい、平氏の武将だと見破られてしまう。忠度たちは組み討ちになったものの、やはり圧倒的に忠度が強く、六弥太を馬から浜辺に引きずり落として、首を搔き斬ろうとした。しかしその時、後方から駆けつけて来た六弥太の郎党が、刀を握っている忠度の右の腕を、二の腕の辺りからスッパリと斬り落としてしまった。

 吹き出る血潮を眺めて、忠度は「今はこれまで」と観念し、

「最期の念仏を唱える」

 と言うと、残った左手で六弥太を投げ飛ばし、西方に向かって覚悟の念仏を唱え始めたが、それが終わらぬうちに首を落とされてしまった。六弥太たちは、これは相当名のある武将に違いないと思ったものの、誰なのか分からない。

 やがて、矢入れである箙に結びつけられていた文に「旅宿花」という題で、


  ゆきくれて木の下陰を宿とせば

   花や今宵の主ならまし


 という歌が一首、したためられているのを発見する。

 旅路に日が暮れて、桜の木の下陰を一夜の宿とする私を、花が今宵の主人となってもてなしてくれるだろう、という歌意だ。この頃の宿屋の主人は、大抵が女性だったというから、それも踏まえた風情ある歌である。

 そこで初めて、自分が討ち取った大将首は、薩摩守・忠度であったと分かり、六弥太始め源平双方の兵たちは、涙で袖を濡らしたという。

 この一首でも分かるように、忠度は歌人としても非常に優れた才能を持ち、藤原定家の父・俊成に師事していた。しかし平氏の都落ちの後、覚悟を決めていた忠度は、密かに都へ戻って俊成の邸を訪ね、自分の歌を納めた巻物を託した。

 その後、忠度は一の谷で命を落とし、『千載和歌集』の選者となった俊成は巻物の中から、


  さざなみや志賀の都は荒れにしを

   昔ながらの山桜かな


 という一首を、あえて「よみ人知らず」として掲載した。この逸話が、先ほどの歌の二番の歌詞だ──。

〝わが師に託せし言の葉あわれ……か〟

『平家物語』における鵯越や一の谷の記述の矛盾は、単なる書き間違いではない気がするし、何かもっと大きな問題を孕んでいる……と、改めて感じる。

 となれば、やはりあの人──小余綾俊輔だ。

 問題を投げかけておいて、何の解答も示さず去って行ってしまった助教授。

 そういえば、もうすぐ大学を辞めると聞いた。

 だが、ちょっと待って欲しい。

 彼が問題提起したのだから、その解答だけは残していってもらいたい。

 誠也は、須磨寺駅に着くと時刻表を確認した。今から新神戸駅に向かって、すぐ新幹線に飛び乗れば、夕方遅くには東京駅に着ける。すぐ俊輔に連絡を入れて、アポイントを取りつけてしまおう。

 誠也は勝手にそう決めると、携帯を取り出した。


高田 崇史(たかだ・たかふみ)

東京都生まれ。明治薬科大学卒業。『QED 百人一首の呪』で第9回メフィスト賞を受賞し、デビュー。歴史ミステリを精力的に書きつづけている。近著は『古事記異聞 鬼統べる国、大和出雲』『QED 源氏の神霊』『采女の怨霊 小余綾俊輔の不在講義』など

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