電子的対話と宇宙飛行/戸谷洋志

文字数 2,683文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2020年12月号に掲載された戸谷洋志さんのエッセイをお届けします!

電子的対話と宇宙飛行


 哲学対話なるものをご存知だろうか。日常的なテーマについて市民が自由に語り合う、対話型ワークショップだ。なぜ「哲学」かといえば、そうした日常的なテーマについて、「なぜ?」と問いを重ねていき、概念のレベルにまで遡って対話するからである。哲学の専門知識は使わず、生活に根差した言葉で語り合うことが、哲学対話のマナーである。僕は数年前から哲学対話を主催している。


 いうまでもないことだけど、見ず知らずの人と対話することは怖いことだ。自分の言葉を相手がどう解釈するかは分からない。相手が次の瞬間に何を言い出すかも分からない。相手は突然泣き出すかも知れないし、突然怒り出すかも知れない(どちらも実際に経験したことがある)。そういう不安を抱えながら、相手の様子をつぶさに観察しつつ、慎重に言葉を選ばないといけない。


 コロナ禍は哲学対話のやり方を大きく変えた。そもそも対話は感染症に対して脆弱である。対話ほど感染リスクの高い行為はないからだ。そのため、僕は今年の春から、哲学対話を基本的にオンラインで行ってきた。オンラインで対話することの大きなメリットは、感染リスクを事実上ゼロにできることに加えて、参加者の地理的な制約を解消できるということだ。現に、僕が開いた哲学対話に参加してくれた人は、日本各地からアクセスしてくれた。なかには散歩しながら参加してくれた人もいる。


 オンラインで対話することは、現実に対話することと、随分違う。僕は前者を「電子的対話」、後者を「原始的対話」と呼んでいる。原始的対話とは、たとえば、カフェで交わされるような対話である。そこでは参加者はテーブルや照明やコーヒーの香りを共有する。けれど、電子的対話にそうした共有物はない。


 電子的対話の最大の特徴は、デバイス上で視聴環境を操作できることだ。オンラインで対話しているときには、たとえ自分が話を聞いているときでも、デバイスで表示されている画面を変えてしまったり、音量を自由に調節したりすることができる。そして、そのように画面や音量が調整されていることは、外部からは一切分からない。これは画期的なことだと思う。自分が話している様子が、相手からどんな風に見え、どんな風に聞こえているかが、外からはまったく分からなくなってしまうからだ。原始的対話において、つまりカフェで対話しているときは、僕たちは自分の表情や身振りも込みで話している。あるいは、相手に聞こえる声で、そして同時に、対話の相手以外には聞こえない程度の声で、音量を調整している。けれど電子的対話においてそうした努力は一切必要がなくなるのである。


 政治思想家のハンナ・アーレントは、主著『人間の条件』のなかで、現代社会における人々の孤独を宇宙開発と重ね合わせた。人間はロケットに乗って宇宙に飛び出そうとする。地球という煩わしい枷から自由になり、その外側へと脱出しようとしている。けれど、地球は人間の共有物であり、その共有物によって人間は他者と繫がりあってきた。宇宙へ脱出したいという欲望は、そうした共有物を捨て去りたいという欲望でもある。そしてそれは、それによって結ばれていた人との繫がりも放棄したい、という欲望なのかも知れない。


 僕たちが他者と共有するものは、僕たちを条件づけるものでもある。けれどそれは僕たちの繫がりを支えていたものでもある。だから、僕たちが自由を追い求めるなら、僕たちは共有物をも捨て去るし、それによって他者との繫がりも失ってしまう。電子的対話はそうした共有物を極限まで捨象した繫がりであり、もはやアカウント情報だけによって支えられた繫がりである。自由になりたい、他者と何も共有したくない、そうした都合のよい欲望が作り出した繫がりである、ということもできるかも知れない。


 そこで失われているものがあるとしたら、一体何だろうか。


 たとえばそれは「ここでしか言えないこと」だろう。電子的対話において、もはや「ここ」は存在しないからである。僕たちは「どこでも言えること」しか言えなくなる。「どこでも言えること」以外のことを言うのは危険だし、反倫理的でさえある。それでは「どこでも言えること」とは何だろうか。それは誰も傷つけない言葉である。でも、そんなことを思いつくままに語れるほど、人間は完全ではない。そうである以上、電子的対話における最善の振る舞いは、沈黙することだろう。そのようにして電子的対話は、僕たちの繫がりを作り出す一方で、かえって僕たちが孤独であることを実感させもするのではないだろうか。


 それが理由なのかは分からないけれど、僕は電子的対話をしているとき、ときどき自分が宇宙飛行士であるかのような気持ちになる。とてつもなく窮屈で、目の前にたくさんのメーターやモニターがあって、キャノピーの向こうには無限に宇宙が広がっている。巨大な惑星の横を通り過ぎたり、はるか彼方で何かが光って消えるのが見えたりする。けれど、景色は変わらない。すれ違う宇宙船もない。そんな孤独のなかで、目の前の小さな画面で、たまたま受信した電波を頼りに、何光年も向こうにいる誰かとぼそぼそ話す。通信が途切れたら対話も終わる。その寂寥との付き合い方を、僕たちはしばらく模索しないといけないのかも知れない。


戸谷洋志(とや・ひろし)

哲学、1988年生まれ。近刊に、「群像」での連載を書籍化した『スマートな悪 技術と暴力について』。

スマートさとは、余計なものや苦痛を排除し、すべてを「合理的に最適化」する「賢さ」である。そうした思考/志向に駆り立てられ、突き詰めた果てに立ち現れる「悪」は現代人にとって必然なのか? システムの支配からの自由を求め「別の答え」を模索する真摯な試み。


……本書は一つの「技術の哲学」として議論されることになる。技術の哲学は二〇世紀の半ばから論じられるようになった現代思想の一つの潮流である。本書は、マルティン・ハイデガー、ハンナ・アーレント、ギュンター・アンダース、イヴァン・イリイチなどの思想を手がかりにしながらも、これまで主題的に論じられてこなかった「スマートさ」という概念にこれらを応用することで、日本における技術の哲学の議論に新しい論点を導入したいと考えている。(「はじめに」より)


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