『イクサガミ 天』試し読み!

文字数 14,234文字

王道ネタで覇道を突き進む、圧倒的な牽引力。もう止まらない。

お願いですから早く続きを読ませてください。

京極夏彦(小説家)


風太郎忍法帖+現代のデスゲーム。『天』で巻を措けるのは、ただ死人のみか。

悪のゲームに身を投じ、一瞬の光芒に命を散らす兵法者たちは、切なくも美しい。  

貴志祐介(作家)


時代劇とアクション、サスペンスの超絶ハイブリッド

デスゲームに挑む武人たちと共に、この快楽を味わい尽くせ。

大友啓史(映画監督)


魅力的なキャラクター、迫力あるバトルシーン、息もつかせぬ怒涛の展開!

最高のエンタメ時代小説!

望月麻衣(作家)


*********************************


祝・直木賞受賞!

『塞王の楯』で第166回直木賞を受賞された今村翔吾さんによる、3巻完結・新シリーズ「イクサガミ」が始まります。

2月15日(火)の発売を前に、早くも大反響を呼んでいる第1巻『イクサガミ 天』。大増量・無料試し読みを特別公開いたします!


斬れ。生き残れ。

明治時代が舞台の弩級のデスゲーム、ここに開幕!

序ノ章


 明治十一年(一八七八年)二月のことである。ある噂が東京を駆け巡った。噂の始まりはどうやら新聞であるらしい。

 幕末から明治にかけて瓦版から名を変え、多くの新聞が発行された。海外新聞、中外新聞、江湖新聞、横浜毎日新聞、東京日日新聞、讀賣新聞など、名を挙げれば枚挙に暇が無い。だが、この噂の元となった新聞の名は「豊国新聞」と謂い、誰もがそのような新聞があったのかと首を捻った。

 個人で発行しているような場末の新聞ではないかという憶測も飛んだが、不思議なことにこれまで誰一人読んだこともなければ、耳にしたことも無い。かといってこれが創刊号かといえばそうでもない。しっかりと「第千八百六十七号」と記されているのである。それほどの数が発刊されていて、誰も知らぬとは訝しい。そしてそこに書かれていたことが、何より胡乱な内容であった。


 ──武技ニ優レタル者。本年五月五日、午前零時。京都天龍寺境内ニ参集セヨ。金十万円ヲ得ル機会ヲ与フ。


 巡査の初任給が四円である。年俸四十八円。実に二千年以上分に当たる。

 その金額の大きさも相まって、ある者はこれを何かの悪戯だと言った。またある者はそれ以外の記事が政府を批判するものであったから、昨年西南の役で死んだ西郷が生き延び、同志を集めているのではないかともっともらしく語った。

 翌日、市内に警察官が溢れ返り、その豊国新聞を躍起になって回収した。幸か不幸か、そのことがより新聞の信憑性を高めることになった。

 後に判ったことだが、この現象は同日に全国各地で起こっている。大阪、京都、名古屋、博多、仙台などの大きな町は当然のこと、それよりも一等小さな町でも豊国新聞が配られている。そしてやはり同じように警察官や官吏が出動して集め回っているのだ。

 ただ信じたとしても、天龍寺に向かう者は多くはなかった。新聞の内容が事実だとしても、警察官が察知しているということは、当日そこに向かえば一斉に検挙されてしまうのは火を見るよりも明らかである。ましてや「武技ニ優レタル者」などはそもそも多くは無い。

 それでも向かう者がいるとすれば、警察官が網を張っていたとしても、それを突破して逃げ遂せるほど「武技ニ優レタル者」か、あるいは正常な判断が出来ぬほど困窮逼迫している者であろう。



壱ノ章 相克の幕開き



 嵯峨愁二郎が天龍寺に辿り着いたのは五月四日の午後三時頃のことであった。

 五百年以上の歴史を誇る天龍寺であるが、その総門はまだ新しい。これはかつて八度の焼失を経て、その度に再建されてきたからである。そのうち最も近い八度目の焼失というのが、今から十四年前の元治元年(一八六四年)に起こった。

 ──禁門の変。

 であった。

 当時、長州藩は急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京で政局を先導していた。だが前年の文久三年(一八六三年)八月十八日、薩摩藩、会津藩の働きかけで、親長州藩の公家が追放される。いわゆる八月十八日の政変である。

 これを受けて長州藩は武力でもって政局を奪い返さんと、軍勢を率いて上洛。その時に長州藩が本陣としたのが、ここ天龍寺であったのだ。

 武力衝突の結果、長州藩勢は敗退。巻き込まれる形で天龍寺も焼失した。明治に入って以降、総門を始め、少しずつ復興が進んでいるものの、それでも全ての建物が再建されている訳ではない。半焼した建物などはまだそのままとなっており、戦火の傷跡を残している。

 さらに天龍寺の悲劇はこれに留まらなかった。昨年の明治十年(一八七七年)、太政官布告により、諸藩の領地だけでなく、寺社の境内も上知、つまり政府に召し上げられたのである。

 中でも天龍寺は、嵐山五十三町歩、亀山全山、嵯峨の平坦部のほとんどが接収されてしまい、三十万坪あった土地は、十分の一の三万坪まで減らされてしまっている。

 愁二郎もかつて一度、天龍寺を訪れたことはあるが、その時の面影はほとんど残ってはいない。とはいえ、行き交う人々の表情は皆穏やかで、戦の陣に使われていたことを思えば、これでも仏は喜んでいるのではないかと思えてくる。

 人の手を借りずとも、木々の再生は早い。境内の木々には眩しいほどの青葉が生い茂り、柔らかく爽やかな風を受けて揺れ、思わず欠伸を零してしまいそうになる皐月晴れである。

 愁二郎は仏堂に手を合わせ、改めて境内ですれ違った者を数えた。

 八人。老人や娘は普通の参拝客に違いないが、中には明らかに挙動がおかしい者もいた。おそらく愁二郎と同じ魂胆で下見に現れたのだろう。

 参拝客を装って境内に踏み込んでみたが、警官が張り込んでいる様子は見受けられない。安堵した反面、やや落胆し始めている。一時的とはいえ、あれほどの騒動になったのだ。政府が警戒していても何らおかしくない。それが無いということは、話自体が眉唾であった可能性がより高くなる。

 ──やはり駄目か……。

 金が必要なのだ。

 それも一朝一夕で用意出来る額ではなく、残された時も僅かである。途方に暮れた愁二郎であったが、ふと今年の二月の騒動を思い起こした。東京で謎の新聞が撒かれ、その中に大金を得られるかのような文言が並んでいた。その噂は己の住まう神奈川県府中までも伝わってきて、一時期その話で持ち切りであった。

「悪戯だろうよ」

 その時の愁二郎はそう一蹴したが、のっぴきならぬ事態となった今、藁にも縋る思いで遠く京都まで足を運んだ次第である。

 この下見で九割九分無駄足だろうと悟った。だが後ろ髪を引かれる思いがあり、他に金の当てが無いのも事実。夜も更けたころに宿屋を出て、改めて天龍寺に向かった。

「これは……」

 遠目に見ても様子がおかしいのが解った。夜半だというのに、総門の側には篝火が焚かれている。周囲を気にしながら足早に境内に入って行く者もいた。

 辺りを窺いはするものの足は止めない。丁度、総門の前で向こう側からやってきた男と鉢合わせた。男は何も言わない。こちらが警官ではないかと心配しているのか、日焼けした頰をやや引き攣らせている。

 愁二郎が一瞥して境内に足を踏み入れると、お前もかといったように安堵の色が目に浮かび、男も足を踏み入れた。境内を進むと仏堂の前の開けたところに出る。

 昼間とは状況が一変している。すでに広場に満ち溢れるほど多くの人々が集まっていた。等間隔に篝火が立てられており、何者かが出迎えているような様相を呈している。

 愁二郎はほぼ最後尾。前の様子が全て見渡せる訳ではないが、一見して解ること。まず殆どが男だということである。ただ女が皆無という訳ではない。僅かに交じっている。

 歳の頃はというと様々である。まだ十五、六にしか見えない少年や、趣旨を理解しているのか疑わしいほどの老人まで交じっている。ただここにいる者、大半に共通しているのは、

 ──何らかの武器を持っている。

 と、いうことであった。

 武技を見せろというからには、それぞれが得意な武器を携えてくるのは目に見えていた。

 まず両刀を腰に手挟んでいる者がいる。政府より廃刀令が発布されたのは一昨年の明治九年(一八七六年)のこと。最近ではめっきり減っているものの、田舎に行けば、まだ稀に刀を差している者も見られる。かくいう愁二郎も晒に包んで長刀を持参してきていた。

 他に驚くべきことに、布に包んだ長物を手にしている者もいる。中身は槍。あるいは薙刀の類だと思われる。遠くから来ているならば旅の途中、何度も呼び止められたに違いない。その苦労をしてまでここに来たということは、それほど日々の暮らしに追い詰められているのか。

 ここ数年、大規模な士族の反乱が相次いだ。その最たるものが、昨年西郷隆盛の起こした西南戦争である。農民や町民が名字を持ち、己たちは禄を失い、挙句の果てに最後の誇りであった刀も奪われた。憤懣は爆発して反乱に身を投じた士族も多い。そこに加わった者たちの生き残りか。あるいはそうでなくとも御一新になって新たに商いを始めたが失敗する者が後を絶たない。所謂「武士の商法」というものだ。

 大半は目に見える形で何らかの武器を用意しているが、一見して素手の者もいる。懐刀を仕込んでいるのか、手にした杖が仕込み刀か、あるいは柔術の心得があるのかもしれない。

 境内はさざめいている。初対面同士であろうが互いに様子を探るように囁き合い、その声が幾つも重なって虫のすだきを思わせる。中には仲間と連れ立って来た者もいるのか、数人で端に固まっている者たちも見られた。

「こんばんは」

 様子を窺っていた愁二郎に声が掛かった。先ほど総門で一緒になった男である。当年で齢二十八の己より、五つほど年上であろう。周りが堂々と得物を出していることに安心したか、布を巻いて隠していた長刀を取り出し、腰に捻じ込んでいるのを横目で見ていた。

 男はこちらが応える前に、不安を紛らわすかのように立て続けに話した。

「おたくも新聞を見て?」

「そのようなところだ」

 愛想無く答えたが、男は鈍感なのか口元を緩めた。

「やはり。私もそれです。何があるのでしょうな」

「解らない。悪戯かもな」

「その線もありますな。それも覚悟して来たのですが……」

 詳細は解らないが、男も余程金に困っているのは確かであろう。

「金沢からわざわざ来たのに、無駄足になってしまうかもな」

「金沢?」

 深くは関わらないつもりだったが、男の独り言は聞き逃せなかった。

「ええ。私は旧加賀藩士で立川孝右衛門と申します」

「新聞の噂を聞いたのか?」

「噂も何もこの目で」

 孝右衛門が懐に手を突っ込んだので、愁二郎の躰が強張る。孝右衛門が取り出したのは一枚の紙きれ。開くとそこには、しかと「豊国新聞」と書かれている。内容を耳にはしていたが、その新聞はすぐに官吏に回収されたため、愁二郎がこの目で見るのは初めてであった。

「東京に知人がいて貰ったか」

 孝右衛門は怪訝そうにしながら言った。

「どういうことでしょう……私は金沢の町でこれを手に入れました」

「何……」

 愁二郎は今の今まで東京だけの怪事だと思っていた。確かに話し声に耳を澄ませば上方訛り、東北訛り、九州訛りまで聞こえて来る。さらに注意深く見渡せば、己のように広場の端に身を置く者の中には、西洋人の姿まであるではないか。長身の男は黄金色の髪を一つに束ね、それが篝火を受け煌めいている。まさか海外でも同じ現象が起きているとは考えにくいが、恐らく西洋人が多い横浜から来たのではないか。

 ただでさえ嫌な予感がしていたが、孝右衛門と話したことで、これからここで常軌を逸した何かが始まろうとしていると確信を強めた。

「おお……」

 その時、衆から低いどよめきが起こった。

 鈍い軋みの音と共に仏堂が開き始めたのだ。まるで地獄の門が開いたかと思うような不気味な音。皆が一斉にそちらへと視線を集めた。

 堂内の闇から浮き出るように男が姿を見せた。僧形ではなく断髪姿で、相当に上質な着物を身に纏っている。

「時刻になりました。皆様、お集まり頂きありがとうございます」

 固唾を吞んで見守る者、話は真だったのかと呟く者、いつでも逃げられるように及び腰になる者、銘々がまちまちの反応を見せている。

「お聞きになりたいことは沢山あるでしょうが、順を追って説明致しますので、まずはお静かに願います」

 現れた男はただでさえ細い目を、針のようにして笑みを見せた。瓜実顔で鼻は低い。どこか能面を彷彿とさせる相貌である。

「名乗り遅れました。私は名を槐……と、申します。以後お見知りおきを」

 姓であるならば変わっている。あるいは木の名から取ったのか。どちらにせよ堂々と名乗るとは思えず、偽名と考えてよかろう。槐と名乗った男はこちらをゆっくり見渡しながら続けた。

「まず……十万円を得る権利というのは真でございます」

 あちらこちらから感嘆の声が漏れる。槐は一段高いところから、唇にそっと人差し指を当てて見渡した。それで声はゆっくりと静まってゆく。

「お静かに。私語が酷い場合は、お帰り願うこともありますので悪しからず」

 完全に静寂を取り戻し、篝火の爆ぜる音までが耳に届くようになった。槐は満足したように二度、三度頷いて言葉を継ぐ。

「とはいえ、俄かには信じられないでしょう。あちらを御覧下さい」

 槐が指差したのは、脇にあるもう一つの御堂。合図を待っていたかのようにこちらも、鈍重な音と共に戸が開いた。

 静かに。そう念を押されていたにも拘わらず、さざめきが衆から起こる。これは無理もないことであろう。愁二郎も思わず、

 ──これは夢か。

 と、息を漏らしてしまった。御堂の中には大人の二倍はあろうかという大きさの金の仏像が鎮座していたのである。一体、如何程の重さなのか。十万円。いや、それ以上の価値があってもおかしくない。

「鍍金ではないのか!?」

 耐えきれなかったのか、誰かが声を上げた。きっと他にも同じ思いが頭を過ぎった者がいたに違いない。槐は咎めることなく、笑みを浮かべながら答えた。

「疑いを持たれるとは思っていました。御覧あれ」

 金の仏像の裏から、黒い布で顔を覆った男が一人姿を見せた。手には金槌を持っており、それを大きく振りかぶると、仏像の指を強く叩いた。甲高い音が響き渡り、仏像の指が折れる。男はそれを拾い上げ、集まった者たちに翳した。折れた指の両断面も金であることが判り、先ほどよりも大きいどよめきが巻き起こった。

「お判り頂けたでしょうか」

 槐が話し始めると、まるで皆が操られているように、ぞぞっと首が動く。

「さて、いかにして金を得るのか。それが気に掛かっておられるでしょう。その方法を聞けば、いかなることがあろうとも降りることは認めません。まずご意思が無い方は、今この時にお引き取り願いたい。百を数えるまで待たせて頂きます」

 槐はつらつらと語ると、ゆっくりと頭を垂れた。頭の中で数を繰っているらしい。

 ──誰も降りないか。

 迷っている素振りを見せた者はいた。仲間同士で何か囁き合う者も。だが、話が眉唾と解りつつ集まって来た者たちである。己と同じく究極に逼迫しているに違いない。あの金像を見せられた今、ここで退こうなどと考える者はいない。足に根が生えたかのように誰一人として動こうとはしなかった。

「素晴らしい。皆様の勇気に感服致しました。それでは進めさせて頂きます」

 槐はゆっくりと顔を擡げると、ぱんと手を叩いた。

 それが合図に、槐の後ろから同じく和装に身を包んだ男が現れる。一人や二人ではない。十を超え、三十を超えてもぞろぞろと出来する。この御堂の中に一体何人が潜んでいたのか。この男たちは何者なのか。目的は何か。金に魅せられて高揚していた者たちも、固唾を吞んでいるのがひしひしと伝わって来る。

 しかも新たに現れた男たちも先ほど金槌を持って現れた男と同様に、いずれも顔を黒い布で覆っているのだ。これはこれで奇々怪々であるが、結果的に槐一人だけが顔を晒していることになり、こちらのほうが不気味に思えてくる。

「今から皆様の元に帳面を持った部下が参ります。そこに名をお記し頂き、交換に木札をお配り致します。これを肌身離さずにいて下さい」

 男たちはいずれも帳面と矢立を手にしている。腕に束にしてぶら下げているのが木札だろう。前方より名を求め、交換に木札を配り始める。やがて、愁二郎の元にも男が来た。

「名を」

 男は短く言い矢立の筆を持つように促す。

 ──嵯峨愁二郎。

 と、名を記すと木札が手渡された。

 木札には小さな穴が空いており、そこに一尺半ほどの紐が通っている。そして何やら数字が彫り込まれていた。愁二郎が手に取った木札には「百八」と書かれている。横目で見ると先に渡された孝右衛門は「百七」となっている。どうやら皆それぞれ番号が続いているらしい。数字から察するに何かを識別するものであろうか。境内の各所では互いに木札を見せ合い、

「お主は何番だ」

「二百人もいるのか」

 などと話し合っている者たちもいた。

 今回のことがいかにも胡散臭いだけに、どうやら愁二郎のように単独で参加した者の方がむしろ少なく、不安を感じて仲間で参加している者の方が多いようであった。

 十分も経たずして配り終えると、槐は満を持したかのように再び口を開いた。

「まずはお配りした木札を首にお掛け下さい。これを外せば金を得る資格は失します。お気をつけ下さい」

 皆が言われたように首に木札を掛ける。

「本日、総勢二百九十二人の方々にお集まりいただきました。皆様にはこれから東京へと向かって頂きます」

 槐が諸手を開いて言うと、またどよめきが巻き起こった。腕の立つ者を集め、武器を手に東京へ向かう。真っ先に頭を過ぎったのは、この人数を率いての政府への反乱である。愁二郎と同じことを考えて動揺を露わにする者もいるが、槐は心を見抜くように首を横に振る。

「政府に弓引くと言う訳ではございません。一つ皆様に心技体の全てを競うという『遊び』をして頂きたい」

 未だ話の先行きが全く見えてこない。集団の隙間を抜ける生温い風を頰に受けつつ、愁二郎は無言のまま耳を傾けた。

「隠れ鬼などと同じようなもの。この遊びの名を『こどく』と謂います」

 どのような漢字が当てられるのか。それとも漢字は無いのか。愁二郎は幼い頃は山で育ったため、人並みの学を持ち合わせておらず、皆目見当が付かなかった。

 皆は知っているのかと思い周囲を見たが、どの者も怪訝そうにしている。どこかの地方だけの遊びなのか。愁二郎がそのように考えている最中も、槐は速度を緩めることなく話し続ける。

「遊びには掟がつきもの……守って頂く掟があります。一度しか言いませんので、よく覚えて下さい」

 槐は両手の指を一本ずつ繰りつつ、嚙んで含めるように語り始めた。


一、これから銘々に東京を目指す。


二、必ず天龍寺の総門、東海道の伊勢国関、三河国池鯉鮒、遠江国浜松、駿河国島田、相模国箱根、武蔵国品川の七カ所を通ること。


三、それぞれ二、三、五、十、十五、二十、三十点なければ通過出来ない。


四、何人にも、このことを漏らしてはならない。


五、一月後の六月五日に東京にいなければならない。


六、途中での離脱を禁ずる。木札を首から外せば離脱とみなす。


七、以上を破りし時、相応の処罰を行う。


 覚えきれないと愚痴を零す者もいれば、準備良く帳面と携帯の筆を取り出して書き記す者もいた。愁二郎は一から七までの掟を心で反芻する。

 ──これは何だ……。

 異様としか言いようがない。文明開化と叫ばれて久しい当世、まるで御伽噺の中に入ったような心地である。

 どうやらこれは東京までの競争らしいが、疑問が山のように湧いて来る。この者たちは何者なのか。わざわざこのような夜更けに集める意味は。また反対に幾ら深い時刻とはいえ、あれほど噂になっていたにも拘らず、何故、警察官がただの一人も来ないのか。あの金仏像はどこから持ってきたのか。確かに金仏像はあるとはいえ、果たして本当に勝者に金が支払われるのか。掟を破った時の処罰とは何か。まさか法律に照らし合わせてという訳でもあるまい。とにかく考え出せばきりがなかった。

「我々が何者なのか──といったことについてはお答えしかねますが、掟についてであれば、ご質問をお受けいたしましょう」

 槐はゆっくりと一同を見回した。

「総門はここだとして、各地の宿場を通ったかどうして解かる!」

 疑問の嵐に耐えかねたのだろう。誰かが声を上げた。

「私どもの仲間から、必ず声を掛けさせて頂きます」

 槐の言いようには自信が満ち溢れている。裏を返せばずっと監視しているということ。この者らはそれほど大きな組織だということか。

 愁二郎から少し離れたところにいた、学者然とした男が手を挙げる。槐は発言を許すといったように、宙に手を滑らせた。

「東京までの競争のようだが、これほどの人数が東海道を行けば目立つ。警官に見咎められた時はどうすればよい」

 遠目ではあるが槐の口元が緩むのが解かった。

「もう話したはずですが?」

 掟の四項、参加者以外の何人にもこのことを漏らしてはならないには、警官も当然含む。小賢しい問いだと言いたいのだろう。声色に嘲りと凄みが含まれており、学者風の男は低く唸って黙り込んだ。

 ──似ている。

 愁二郎は心中で呟いた。この場に急速に漂い始めた臭いである。

 僅か十余年前、この国は狂気に包まれていた。畳の上で天下国家を論じながら、舌の根が乾かぬ内に町に繰り出して人を殺す。この場に放たれる強烈な悪臭は、あの時代のそれに酷似していた。

 愁二郎もまたあの時代に翻弄された。故にこれほど異常な事態でも受け入れ始めている。人生を十度でも遊んで暮らせるような、十万円という巨額の金など並のことでは得られるものではない。この場が異常であればあるほど、信憑性が高まっている。

「東京に着いた後に金が貰えるのか?」

 と、率直な問いも投げかけられた。

「東京に着くまではいわば前半戦。東京で後半戦を設けております。それを潜られた方に金をお支払いいたしましょう」

「その後半戦とはどのようなものだ?」

 顔は見えないが、問うたのはまた別の声色である。

「それは東京に着いてからお話し致します。楽しいことは後の方がよろしいでしょう?」

 槐はにんまりとした笑みを浮かべつつ続けた。

 やはり奇妙。やはり奇天烈。明らかに動揺する者が多い。しかし僅かながらではあるが、落ち着き払っている者も見受けられた。これまでに相当の修羅場を潜って来たことが容易に想像出来る。

「どうやって点を稼げばいい!」

 衆の中からまた声が上がった。それこそ愁二郎が唯一抱いていた疑問であった。

「皆様にお渡しした木札。これが一点。つまりどの方も初めから一点は持っている……ということになります」

 槐のにやりとした笑いに、愁二郎の背筋に凄まじい悪寒が走った。固唾を吞む者たちを見下ろしながら、槐は諸手を開いて高らかに叫んだ。

「奪い合うのです! その手段は問いません!」

 今日、一番のどよめきが起こった。もはや喚声にも近い。いや、悲鳴も混じっている。

「皆様の点数はこちらの判断で随時他の参加者にお知らせ致します。では質問はここまで。私が三百を数えれば始めとさせて頂きます。それまで暫しお待ちを」

 槐は不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと目を閉じた。

 三百を数えるということは、明治になって導入された時法に拠るところの五分後が開始ということ。質問が一方的に打ち切られたことに憤り、野次のように問いを投げかける者がいる。しかし槐は瞑目して何も答えない。隣と真意は何かと相談する者もいる。酷い者になると、右往左往するばかりである。

 愁二郎と同じくこの「こどく」の真意を早くも悟った者も僅かながらいる。そのような者の行動は二つに大別された。

 一つは己が持参した得物を用意する者。刀や槍を包んだ白布を解いてゆく。愁二郎も長刀の晒を剝いで腰に捻じ込んだ。

 残る一つは逃げ出すというものである。わなわなと躰を震わせていた男が奇声を上げて走り出す。それを合図に数人が群れから飛び出て逃げ出していく。集団心理が働いて全員がその行動を取ってもおかしくないのに、数名で済んだのはこの場にいる者が胆力に優れているからか。いや、不安を感じつつも賞金に目が眩んでいる。賞金を得なければどうにもならない、言わば人生で行く当ての無い者たちなのだ。

 槐は目を閉じたまま、にんまりと笑っている。暫くすると総門の方からけたたましい叫び声が聞こえた。そう時を置かず、その方角から二人の男が駆け戻ってきた。一人は足が縺れて転び、一人は激しく手を振って訴える。

「殺された!」

「どういうことだ!?」

 誰かが、戻って来た男に訊き返す。

「総門に人がいる! 逃げようとした者は皆……」

 確か八人が逃げた。二人は戻ったが、六人はすでにこの世にはいないのだろう。狼狽していて判りにくいが、断片的な言葉を繫ぎ合わせると、総門の前に複数の黒ずくめの男達がおり、逃げようとした者たちを、

 ──迷いなく斬殺した。

 という。後ろを走っていた二人は血飛沫を見て、踵を返して戻ってきたという訳である。

「何だこれは!」

「何故、こんなことを!」

「答えねば、覚悟しておろうな」

 皆が声を荒らげて口々に詰る。耳を劈くほどの凄まじい罵声が浴びせられる中、黙していた槐がかっと目を開けて一喝した。

「黙らっしゃい!!」

 並外れた大音声に、一瞬にして皆が言葉を失う。

「掟の六、途中での離脱を禁ずる。木札を首から外せば離脱とみなす。続いて掟の七、以上を破りし時、相応の処罰を行う……そう申したはずですが」

「そんな……命を懸けるなどとは思っていなかった……」

 場は水を打ったように静まり返り、誰かの漏らした声は悲哀に満ち溢れていた。ようやく全員がこの場の奇々怪々さに気付いたようである。

「これほどの金をただで貰えると思ったか」

 先刻までに比べ、槐の声は地を這うように低くなった。残りは三分を切っているだろう。何が起こっているのか、何をすれば正解なのか、場は異様な緊張感に包まれている。



「そこまでだ。大人しくしろ」

 衆の中から、御堂に向けて男がすうと歩を踏み出した。洋服が良く似合いそうな短髪であるが、恰好は己と同じような着流しで、腰には両刀を手挟んでいる。

「京都府庁第四課だ」

 場が一瞬のうちに凍り付いた。

 明治維新後、紆余曲折を経て薩長の士族を中心とした「邏卒」が治安維持を担っていた。だが今から四年前の明治七年(一八七四年)、東京警視庁が創設されたことで、そちらに首都の治安維持の役目は移譲された。一方、各府県庁には「第四課」というものが組織され、そこが治安維持を担っている。つまり男は東京でいうところの所謂、警邏、警察なのである。

「おい……あれは」

「京都の安神……」

「間違いない。安藤神兵衛だ」

 などと、衆のあちこちから声が上がる。

 昨今、撃剣が未曽有の流行り方をしている。それは実際、剣が必要であった幕末の頃を凌ぐほど。明治になって武士の尊厳が次々に取り上げられている中、士族の子弟はそこに自らの存在価値を見出そうとしているのか。

 特に十代、二十代半ばまでの、幕末の動乱を体験していない世代ほどそれが顕著である。武士の子として生まれながら、何ら武士らしく生きていないことが原因かもしれない。

 ともかくそのような流行であるから、大小の撃剣大会が催され、その中で自然と名を轟かせる者も出て来る。その大半が旧邏卒、いわゆる警察組織に所属する者であった。

 この安藤神兵衛もその一人で、旧淀藩の武士の家に生まれ京都府庁第四課に入った。安藤が名を馳せたのは警視庁と京都府庁第四課の交流試合である。圧倒的に人数が多いこともあり、警視庁には他府県に比べて猛者が多い。五対五の勝ち抜き戦が行われ、警視庁側は無傷で四人を倒した。

 そこで京都府側で出て来たのがこの安藤である。何と安藤はここから、警視庁側を五人抜きして一人で逆転する快挙を達成したのである。非公式の交流戦であったことに加え、警視庁が外聞を気にして口止めをした。だが人の口に戸は立てられぬとはよくいったもので、瞬く間に噂になった。

 ──京都に疾風の安神あり。

 小さな新聞社などは、安藤の太刀筋が目で追えぬほど速いことから、姓名を縮め、そのように派手がましく書きたてもした。一時期かなり巷の話題になったので、愁二郎も覚えていたのだ。

「大人しく縛につけ」

 安藤は低く言った。

 やはり警察はいた。潜入していたのだ。ただ一人なのが不思議だった。それともこの中に他にもいるのだろうか。思考を巡らしつつ愁二郎はことを見守った。

「四課ですか。だがここに来た限り、貴方も参加者の一人です」

 槐は動揺の色を見せずに応じた。

「俺を誰か知らぬようだな」

「知っていますよ。疾風の安神でしょう。あと数年早く生まれていれば、数々の人斬りや、新選組にも負けなかったと嘯いておられるとか」

「真のことだ」

 余程自信があるのか、安藤は平然と答えた。

 一見する限り、安藤の歳の頃は二十三か四というところ。幕末の動乱の頃は十歳前後ということになり、流石にそれでは活躍は難しかろう。安藤からすれば、遅く生まれたと口惜しさがあるのだろう。

「さあ、手を出せ。抵抗すれば斬る」

 安藤は凄みつつさらに歩を進めた。

「よろしいので?」

「何が」

「残り百三十ですが」

 槐が嘲笑を浮かべた瞬間、

「ほざけ」

 と、安藤が呟きながら御堂に突進し、高く飛び上がった。その時、すでに安藤は腰の刀を抜いている。篝火の灯りを受け、刃が妖しく輝いた。

 槐には武芸の心得はないと見た。現に安藤が地を蹴った時も、全く反応出来ていない。一方、安藤は大言を吐くだけあって相当な腕前である。確かに幕末の頃でも通用はしただろう。

 槐の頭は安藤にかち割られる。誰もがそう思っただろうし、愁二郎もまたそう思った。その刹那、槐の前を影が遮り、続いて甲高い音が響き渡った。

「何……」

 安藤は呻く。槐の脇にいた一人の男が抜刀し、安藤の渾身の一撃を受け止めたのである。男もまた顔を布で覆っているため相貌は判らない。

「邪魔をするなら貴様も斬る──」

 刀を引いて再び撃ち込もうとした安藤の声が途切れた。力を込めて声が詰まった訳でも、衆の声に搔き消された訳でもない。むしろ境内は水を打ったように静まり返っている。

 ごろりと御堂の縁を転がる。

 安藤の首である。胴はまだ首を失ったことに気付かぬように立ち尽くし、両手は刀を八相に構えたまま。夜天に向けて血が噴き出し、どっと胴も倒れ込んだ。

「我々に刃を向けるとこうなります」

 槐は眉一つ動かさず言い放った。けたたましい悲鳴、絶叫が境内の中で渦を巻いた。

 ──相当な腕だ。

 その中、愁二郎は刀の血を払う男を見つめていた。

 安藤も決して弱くはなかった。ここにいる大半より腕は上だっただろう。その安藤を瞬殺した。その太刀筋は速いだけでなく、恐ろしいほどに正確であった。そうでなくては人の首は斬り落とせないのだ。安藤が幕末でも通用する剣客ならば、覆面男は幕末でも数本の指に入る剣豪であろう。

 槐が引き連れている他の男たちも、全てが同等の強さとは思えない。だが、それぞれがかなりの腕前と見てよい。ここにいる全員で向かうならばともかく、一人、二人で掛かっても槐まで刃は届かない。それ以前にほとんどの者が刃向かう気が失せており、中には腰を抜かす者、頭を抱えて屈みこむ者までいた。

「あと百です」

 槐はさも愉快げに言うと、再び俯いて数を繰り始めた。混乱の坩堝の中、孝右衛門が悲愴な顔で話し掛けてきた。

「これは……どういうことなのでしょうか……」

「俺から離れろ」

 愁二郎も頭を切り替えようと必死である。厳密にはあの日、あの頃の自分を懸命に、

 ──取り戻そう。

 と、している。そうなれば誰が相手でも関係ない。とはいえ、こうして言葉を交わした者となると気分が塞ぐ。出来れば「他」が良かった。

「え……」

「離れろ。それだけは言っておく」

 愁二郎は念を押した。語気の強さに押されたか、孝右衛門は後ずさりをしながら離れていく。

 先刻からずっとこの場にいる者たちを観察していた。やはり混乱と恐慌は一向に収まらない。落ち着き払っている僅かな者とは距離を取るに越したことはない。そしてその中に、顔見知りもいることに気が付いている。動揺しかけたが、気を取られていては生死に関わる。強引に思考を中断した。



「何……」

 ここまで来ればもう並のことでは驚かない。だが愁二郎は吃驚のあまり声を漏らした。衆の中に十二、三歳の女の子がいるのだ。大きな躰の屈強な男たちの陰になり、今の今まで気付かなかったのである。猛々しい男たちに怯えている様子で、祈るように両手を胸の前でぎゅっと握っている。

「今一度……今一度訊く! 金は真に支払われるのだな!?」

 誰かが吼えた。狼狽していた者たちの中にも、いよいよ腹を括ろうとしている者が出ている。この問いにも答えぬかと思いきや、槐はすうと顔を上げ、これまでにも増して高らかに応じた。

「金はしかと支払います。この中には動乱の時代を生きた侍の生き残りも多いとお見受けする。その誇りと強さをどうぞお見せ頂きたい!」

 槐の檄に武者震いをしている者も散見された。侍という言葉は約十年前に消失し始め、昨年の西南の役で霧散した。このような状況下においても、己を侍と呼んでくれる者がまだ残っていたことに高揚を隠し切れないのだろう。

 もう逃げ出そうとする者はいない。そもそもここに来るのは、明日をも知れぬ連中ばかりなのだ。一発逆転に賭けるため、目に闘志が戻っているのが判った。

 だがやはり先ほどの娘は恐怖に耐えきれぬのか、祈るような姿勢を変えない。それどころか前屈みになり、遂には目を瞑る始末であった。

 ──放っておけ。

 と、内なる己が呼びかけてくる。この聲が聴こえるのは久しぶりのことであった。昔はよく聴こえていたが、この数年は皆無であった。すでに死んだと思っていたが、心の片隅で息を潜めていたということ。今、己があの頃に立ち戻ろうとしていることを鋭敏に察し、ひょっこり顔を見せたのだろう。

★この続きは『イクサガミ 天』今村翔吾・著(講談社文庫)でお楽しみください!

今村翔吾(いまむら・しょうご)

1984年京都府生まれ。2017年『火喰鳥 羽州ぼろ鳶組』(祥伝社文庫)でデビュー。’18年『童の神』(角川春樹事務所 時代小説文庫)が第160回直木賞候補に。’20年『八本目の槍』(新潮社)で第41回吉川英治文学新人賞を受賞。同年『じんかん』(講談社)が第163回直木賞候補に。’21年「羽州ぼろ鳶組」シリーズで第六回吉川英治文庫賞を受賞。’22年『塞王の楯』(集英社)で第166回直木賞を受賞。他の著書に、「くらまし屋稼業」シリーズ(角川春樹事務所 時代小説文庫)、『ひゃっか! 全国高校生花いけバトル』(文響社)『てらこや青義堂 師匠、走る』(小学館)がある。


登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色