町田康・逆から来た言葉 「野坂昭如」

文字数 2,043文字




 43年前に初めて読んだ野坂作品は『真夜中のマリア』という小説で、そのとき自分は中学2年生だった。同級のクスノキという奴が休み時間に、「これおもろいど」と言って貸してくれたのだ。そうして読んだら激烈にエロい内容で、しかしその分野の小説特有の、じめじめしてほの暗い感じがまるでなく、主人公の一人語りが逆にからっとしていて明るく、その頃、暮らしていた大阪の言葉で言うと「ヤタケタ」で突き抜けた感じもあって忽ち崇拝者になった。
 それ以降、手当たり次第に読みたくったので当然、その20年後に初めて書いた小説には明白な影響があった。
 と言うと、そのとき本を貸してくれたクスノキという男が、えらい早熟な文学青年、というか少年、のように聞こえるがそんなことはなくて、クスノキは容貌も端正で成績もまあまあよかったが、はっきり不良少年であった。
 そんなクスノキが、「おもろいど」と言って貸してくれたのが野坂昭如の小説だったのである。
 というのはいま考えると、「くほほ、やはりそうだな」と思うところがあるし、だからこそ自分は一撃で好きになったのだな、とも思う。
 どういうことかというと、それまで中学生が、なんとなくこういうもの、と思い込んでいた文学とはまるで方向性の違う、というかまったく逆の、根底からなにかが違う文章がそこにあった、ということだった。
 じゃあこれまでそういうものと思い込んでいた文学とはどんなものかというと、それはもやもやして口でうまいこと言えず、すべてなんとなくなのだが、「社会の矛盾や不正に対して怒ってる感じ」「賢い人がアホな人に同情してる感じ」「賢い人が貧乏な人を可哀想だと思ってる感じ」「頭のいい感じ」「金持ちな感じ」「格調が高い感じ」「高級な感じ」「神聖な感じ」「国語の先生が尊敬している感じ」「ええとこの生まれな感じ」やなんかであった。
 もちろんそういう感じではない小説がこの世に在ることは知っていた。しかし、それは右にも言うように大きくは娯楽小説と呼ばれ、小さくは○○小説といって特定のジャンルに分類されて、文学とはベツモノ、もっと言うと一段下のものと考えられていた。
 そしてさっき言ったとおり、野坂昭如の作品にはこれらとも違った、文章の向き、文章の声と響きがあって、自分は一撃でやられたのだった。
 これは後で知ったことだが、その頃、三島由紀夫と吉行淳之介が野坂昭如の小説に、いいね!、と言ってそれで野坂昭如は文壇的に認められたらしい。
 ということは他の高級な人は、「いやー、こういうのはどうも」と言っていたのだろうし、一般の人はもっとそうだったのだろう。それが証拠に、高校一年生のとき、年上の大学生と話す機会があった際、「君は。いま。どんな本を。読んで。いるのか。ね?」と上から問うてくるので、「野坂昭如ですわ。おもろいっすわ」と答えたら、言下に、「そりゃ、駄目だ」と仰り、「まあ、読めるのはせいぜい『アメリカひじき』くらいで、あたあ」と仰った。『火垂るの墓』が映画になった後なら、『火垂るの墓』と仰ったかも知れない。
 しかしこっちは多分その人が感得しないところにやられているわけで、それは多分、三島由紀夫とかもそうで……、というのは強弁。でも、認識の深さは桁違いだけど、地上にあって天上の言葉を知らないのに知っている振りをして、インチキな天上語を得意げに喋り散らすのを、「うわうわうわうわっ」と思って、こっちが恥ずかしいみたいな感覚は、『アメリカひじき』なんかそれこそまさにそうで、中学生でそれを感知したクスノキと自分はえらいと思う気持ちもある。

 テレビやラジオでは自分たちが普段、話す言葉と別の言葉が話されている。そして自分たちが普段話す言葉とはまた違った言葉を親の親は話していて、ときどきそれを聞くと親はこれを笑った。それは古い、否定されるべき言葉だった。だから私たちも真似をしてこれを笑う姿勢を取った。「つくもる」「ぐつ悪い」「いっちゃん、かっこよろし」なんだ、その言葉は。
 だから『エロ事師たち』を読み、これらの言葉を、それでも文字で書かれた文章の、それも小説の中に見つけたときは気色がよかった。小気味がいいというか。
「フォークソング言うたら大の男が薔薇の花が咲いてうれしいとか泣き言言う奴か」
 その言葉はいつも、装われた正しさや装われた芸術性、装われた反逆の反対側に向かっていって、自分はそれを格好いいとずっと感じていた。
 自分が30過ぎで出したアルバム『腹ふり』に「すぶやん」という曲がある。このすぶやんはどこからやってきたのか。自分が書いた詩の一節に、「撃ったとき火ぃ吹きますねぇ」というのがある。自分の言葉のなかでこれを言ったのは誰か。あの逆の方角からやってきたあいつなのであるるるる。

「小説現代特別編集二〇一九年五月号」より

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