〈5月6日〉 皆川博子

文字数 1,319文字

ソーシャル・ディスタンス


 赤、青、黒に白もまじって色鮮やかな布をまとい、男の子が踊っている。公園とは名ばかりの空き地だ。ふだん人の姿を見ることは滅多にない。
 顎におろしていたマスクを私は鼻まで引きあげた。水着用の布地の端布(はぎれ)で作られたマスクは、洗う度に汐のにおいが濃くなる。
 無人の所ではマスクは不要だと思うが、民間人の自粛警察なるものが発足したそうで、長い(たもと)は切りましょう、だの、パーマネントは止めましょう、だの、(たすき)を斜めにかけた何とか婦人会の小母(おば)さんたちが叫んでいた戦争中を思い出す。
 自首強制(ミスタッチ。自粛要請)令──正確には緊急事態宣言──が発せられてから一ヵ月。今日で終了するはずだったのが、延長になった。散歩は禁じられていないので、足がこれ以上弱らないよう、毎日、近間(ちかま)をよろよろ歩いている。
 三メートルは充分に離れた位置に立って眺めた。五つぐらいか。長い領巾(ひれ)のように見えるのは、昨日まで空を泳いでいた三匹の鯉だ。端午の節句を終え、しまわれる前の一遊(ひとあそ)びなのだろう。リズムが体に伝わる。老いて聴覚を失い、メロディはわからないのだが、リズムだけは感じる。傍らのベンチに、若い女性が腰掛け、ギターを奏でていた。
 ソーシャデダンス。三メートル離れた男の子の私に向けた声が、奇跡的に、明瞭に聞き取れた。
 女性はマスク越しに子供に何か言い、私に会釈して、さらに言い添えた。耳が聴こえないのです、と私もマスク越しに言った。汐の香りが女性に届いただろうか。
 でも、お子さんが何を言い間違えたかはわかります。人と人の距離を遠ざける施策も、子供には楽しいダンスになるのですね。
 コロナ対策として、議員の間で真っ先に論議されたのは、医療関係ではなく、お肉券、旅行券の発行。Go to Eat! まず、利権。感染者の総数を訊かれ、これに書いてない、と逆ギレした行政トップ。PCRの検査数が少ないと言われ、やる気がないわけではまったくないと答弁し、トップはドブへ。病床を削減する政策は、未だに取り下げられていない。
 もう一度、奇跡が起きた。女性が奏でるギターの音を、失せたはずの聴覚がはっきり聴きとった。今はもう秋 誰もいない海、と声に出さずメロディに合わせる。極彩色の布は優雅に波打ち、色と音はひとつになる。


皆川博子(みながわ・ひろこ)
1930年朝鮮京城生まれ。東京女子大学外国語科中退。「アルカディアの夏」で第20回小説現代新人賞を受賞しデビュー。第38回日本推理作家協会賞『壁 旅芝居殺人事件』、第95回直木賞『恋紅』、第3回柴田錬三郎賞『薔薇忌』、第32回吉川英治文学賞『死の泉』、第12回本格ミステリ大賞『開かせていただき光栄です DILATED TO MEET YOU』などの輝かしい受賞歴を持つ。2013年にその功績により第16回日本ミステリー文学大賞を受賞。2015年には文化功労者に選出された。

【近著】

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