『推し、燃ゆ』宇佐見りん/這いつくばりながら(岩倉文也)

文字数 2,170文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は宇佐見りんの『推し、燃ゆ』をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。最新単行本は『終わりつづけるぼくらのための』(星海社FICTIONS)。

Twitter:@fumiya_iwakura

ぼくは、何かに嵌り込む感覚というのが怖くて、あまり、できない。つまりは、何かを深く愛しそうになるほど、ぼくの心は冷静になっていく。たぶん、自分が自分じゃなくなるのが怖いのだと思う。自分の心の中が虚しくなって、そこにぼく以外の何かが入り込んでくるのが、ぼくの心を占有してしまうのが、怖い。


こんなことを思えるのは、今のぼくに比較的精神的な余裕があるからだということは承知している。実際、心に余裕がなければないほど、人は何かを深く愛そうとしてしまうし、それにより自己が対象によって充たされ、自分が虚しくなることを喜んで望みもする。


なぜこんな話をするのかと言えば、一月に芥川賞を受賞し読書界の話題をさらった、そして現在もその中心であり続ける宇佐見りんの小説『推し、燃ゆ』には、そうした何かを熱烈に愛し、思い、自分との同一化を願う者の心理が、アイドルの推し活に心血を注ぐ主人公・あかりの姿を通して克明に描かれているからだ。


高校生のあかりは、ままならない人生を送っている。人生、などと言うと大げさに聞こえるかも知れないが、そうとしか形容することができないほどに、あかりは社会に適応できていない。そして何よりぼくが驚かされたのは、そんなあかりの世界を見る視線、あるいは手触りといったものが、ありえない程くっきりと、また情感豊かに表現されていたことだ。


それはたとえば、学校のプールを見て「垢や日焼け止めなどではなく、もっと抽象的な、肉、のようなものが水に溶け出している」と言ったり、部屋に散らばった物を踏みつけるあかりを「デニムのファスナーと漫画本の帯、ポテチの袋の銀のぎざぎざの部分が足の裏に刺さる感触が膝あたりまでのぼってくる」と表現したりする所に表れている。あまりにも鮮明である。あかりの感じている世界と、それを表現する言葉──文体──が見事に一致し、ぼくは読みながら、優れた散文詩を読んでいるかのような錯覚に何度も襲われた。


本書を読んでいると、世界の細部が生き生きと甦るのを感じる。こうした感覚は、小説的と言うよりむしろ短歌的でさえある。そしてまた、そうした行き届いた細やかな描写が、全てあかりの生きづらさへと収斂していく所に、本書の妙味はある。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。


勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。

あかりはアイドルを推すことで自分を取り戻し、同時に自分を失っていく。その不気味な恍惚が、徐々に社会から脱落し、追い詰められていくあかりの生活を背景に語られる。


しかし、と言うか。ここまで縷々述べてきてあれであるが、ぼくは単純に、誰かが誰かを、自身の生活も健康も顧みず〝推す〟ということの、その破れかぶれなひたむきさに、胸を打たれてしまった。これは畢竟すれば、ただそれだけの話なのではないかとも思った。


もちろん本書は、様々な評者が指摘するようにSNSや成熟、アイドル文化に発達障害、現代の若者の生きづらさなどといった複数の問題提起を含んでおり、また先述した高度な比喩表現や描写力の行使も相まって、一個の小説作品として優れた完成度を誇ってもいる。


しかしである。本書がこうまで好評をもって読者に迎えられたのは、その根底に愛する者の喪失──推しの炎上と引退という形ではあるが──という、小説形式の誕生以前から連綿と語り継がれてきた人類に普遍のテーマが、横たわっていたからではないだろうか。

這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う。

推しを失ったあかりの前に、現実は戻ってくる。いま、あかりの手許には、何も残されていない。その空漠たる、静かすぎる部屋の中に、希望と呼ぶにはあまりに微かな光が灯っている。あかりがその方へ、這いつくばりながらでも向かっていけることを、ぼくは願わずにはいられない。

『推し、燃ゆ』宇佐見りん(河出書房新社)
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