『「国境なき医師団」を見に行く』★文庫化記念★試し読み

文字数 3,020文字

写真/Hiroko Taniguchi/MSF

Yahoo! で連載時から話題だった、いとうせいこう氏の『「国境なき医師団」を見に行く』がついに文庫化! 2021年1月には待望の続編『ガザ、西岸地区、アンマン「国境なき医師団」を見に行く』(単行本)も刊行されます。

 文庫化を記念して、『「国境なき医師団」を見に行く』より一部試し読みをお届けします!

「ここに登場する人たちがみな家族や友達を大切にし、今日を生きる仲間だということを実感できる。」 ──本上まなみさん(「文芸春秋」2018年3月号)



大地震後のハイチで、ギリシャの難民キャンプで、マニラのスラムで、ウガンダの国境地帯で──。いとうせいこう氏がとらえた、世界の<リアル>と人間の<希望>。

※地図/アトリエ・プラン

ハイチ共和国



面積       2万7750 ㎢ (北海道の約3 分の1:日本外務省) 人口* 1126万3000 人

首都       ポルトープランス平均寿命*64 歳

*国連経済社会局人口部「世界人口推計2019 年改訂版」



ハイチ大地震(2010 年)の復興作業が今なお続いているこの国に、2016 年10 月、大型ハリケーンが襲来し、南西部を中心に甚大な被害をもたらした。国境なき医師団(MSF)は災害直後から被災地に入り、コレラ治療や緊急支援を行ったが、国の保健医療体制はいまだ機能不全に陥っている。MSF は首都でナプ・ケンベ病院を運営し、プラン・メム診療所では性別・ジェンダーに基づく暴力の被害者に救急医療を提供するほか、産科救急センターも運営している。

※無事に生まれたばかりの三つ子(少し小さめ)が眠る   写真/いとうせいこう

そろそろ誰かの役に立つ頃だと思った

 名前をカール・ブロイアーと言った。年齢は64だったと思う。

 瘦せていて身軽で背が高く、控えめでにこやかな人だった。

 フェリーと共によくグリルの火の具合を見ていて、気づかぬうちに立って確認していつの間にか戻っているという感じで、自分を前に押し出すタイプではないようだった。

 ハイチの現状について、カールは英語でゆっくりと伝え間違いのないように気をつけている風に語った。

ハイチに足りないものは多かった。施設の不足による医療の届かなさ、政府のインフラ対策の少なさ、人々の衛生への意識など。しかしカールはそれを責めるのではなかった。もしもっとあれば、その分だけ人の命が助かるのにと静かに悔しく思っているのだった。

 まるで若者が理想に燃えるかのように、還暦を過ぎたカールは希望を語り、しかし終始にこやかに遠くを見やっていた。その暗がりでの表情の柔らかさを、俺は今でも思い出すことが出来る。頰に刻まれたシワとよく光る細い目をゆらめくロウソクが照らしていたが、それが消えてもなお俺にはカールが見えた。どうしてかは今ではもうわからない。

 俺はカールがこれまでどんなミッションを経てきたのか聞きたかった。

 もしよければ教えていただけませんか?

 すると微笑と共に答えが来た。

「初めてなんですよ」

 俺は驚いて黙った。

「これが生まれて初めてなんです」

 カールはまるで自分に孫が出来たかのような初々しい喜びをあらわしてさらに言った。

「私はエンジニアとして、ドイツの中でたくさんの仕事をして来ました。あっちの会社、こっちの会社とね」

「あ、お医者さんでなく?」

「そう。技術屋です。それで60歳を超える頃から、ずっとMSFに参加したかった。そろそろ誰かの役に立つ頃だと思ったんですよ。そして時が満ちた。私はここにいる」

 たったそれだけのことを聞く間に、俺の心は震え出してしまっており、とどめようがなかった。暗がりなのをいいことに、俺はあろうことかカールに顔を向けたまま涙を流してしまっているのだった。

 気づかれないように、俺は声を整えた。まさか泣いているなんて知ったら、カールが驚いて悪いことをしたと感じてしまうに違いなかったから。それは俺の本意じゃない。

「ご家族は、反対、しませんでしたか?」

「私の家族?」

 いたずらっぽくカールは片言の英語で言った。反対を押し切ったのだろうと俺は思ったが、答えは違った。

「彼らは応援してくれています。妻とは、毎晩スカイプで話しますしね。いつでもとってもいいアドバイスをくれるんです。子供たちもそうです。私を誇りにしてくれている」

 カールはどうしても俺を感動させたいらしかった。いやいや、もちろん彼にはまったくそのつもりはなく、だからこそ俺の心の震えは収まらないのだった。

 そして追い打ちが来た。

「それにね、セイコー。私はここにいる人たちと知り合えました。64歳になって、こんな素敵な家族がいっぺんに出来たんです」

 俺はうなずくのが精いっぱいで、何かを考えるふりをしてカールから屋上の隅へと目をそらした。頰まで流れてきてしまったやつを、俺は手で顔をいじるふりで何度もふいた。

 カールが生きているのは、なんて素晴らしい人生なんだろう。

 俺は彼の新しい家族を改めて見渡してみた。すっかり暗いというのに、連中はまだ熱心に医療についてしゃべっていた。

 これは俺が経験した中で最高のパーティだ、と思った。

 これ以上のやつは以後も絶対ないに決まってる。

 ふと気づくと、片づけの始まったグリルから知らぬ間にカールが鶏肉のスティックを持ってきてくれていて、それが目の前の皿に置かれてあった。

 腹は満ちていたが、俺はスティックをつまんで肉にかじりついた。

 カールさんの親切をふいにするような、俺は不人情な人間じゃねえ。

※CRUO(産科救急センター)の新生児集中治療室。奥は緊急医療を受ける乳児たち  写真/いとうせいこう

 夜9時半にチカイヌを出た四駆は、モン・ラカイへ向かってがたがた走った。

 そして山の斜面で急に止まった。

 坂道の暗闇に、車のライトで照らされた40~50人のハイチ人がいて、二拍子ずつ左右にそっと揺れていた。

 思わず窓を少しだけ開けると、プリミティブな音楽が聞こえた。集団の内部で演奏が行われているようだった。

 彼らは夜の行進をしているのだった。

 それもヤヤと呼ぶのだろうか。

 ともかくイースターのまさに前夜に、彼らがキリストを模していることは確かだった。

 その静謐さと内に秘めて抑え込んだ声の熱狂で、俺にはそれがよくわかる気がした。

 聖夜、が来ていた。

 彼らは彼らで最高のパーティを始めていた。



 ★『「国境なき医師団」を見に行く』ハイチ編より一部抜粋

※心臓に障害のある赤ちゃんに注射器で授乳する母親  写真/いとうせいこう
★『「国境なき医師団」を見に行く』 いとうせいこう・著

 ※本書の売上の一部は「国境なき医師団」に寄付されます。

いとうせいこう

1961年、東京都生まれ。編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・舞台など多方面で活躍。『ボタニカル・ライフ』で第15回講談社エッセイ賞を受賞。『想像ラジオ』が三島賞、芥川賞候補となり、第35回野間文芸新人賞を受賞。他の著書に『ノーライフキング』『存在しない小説』鼻に挟み撃ち』『我々の恋愛』どんぶらこ『小説禁止令に賛同する』『今夜、笑いの数を数えましょう』『「国境なき医師団」になろう!』夢七日 夜を昼の國』などがある。

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