〈4月30日〉 湊かなえ

文字数 1,212文字

リバース・それから


 深瀬はドアを開放したままの〈クローバー・コーヒー〉に足を一歩踏み入れた。客の姿が他にないことを確認し、中へと進む。
「あら、深瀬くん」
 奥さんが驚いたのは、カフェコーナーを自粛し、豆の販売のみとなった店に、深瀬が二日続けて訪れたからだ。
「今日は四軒、配送をお願いします」
 ここで買ったコーヒーを淹れるのは、三週間ぶりだった。営業時間の短縮により、連休に入るまで寄ることができなくなっていたからだ。
 深瀬は自らの罪を親しい人たちに打ち明けた。その結果、離れてしまった人、受け入れてくれた人がいて、今の生活がある。コーヒーをひと口飲むと、張り詰めていた身体が解きほぐされ、同時に、この安らぎを届けたい人たちの顔が頭の中に浮かんだ。
「豆はどれにする?」
「浅見には、苦味の強いケニアを」
 浅見の勤務する高校に配達に行くと、休校中の課題プリントの作成や、オンライン授業の準備で忙しそうにしていた。
「谷原には、酸味の強いコロンビアを」
 浅見によると、商社に勤務する谷原は、赴任先の上海から帰国できたものの、周囲の目は冷たいらしい。
「村井には、渋味の強いベトナムを」
 村井からは、連休中の遊びの予定がすべて家の片付けに変わった、というメッセージが届いた。
「広沢の家には、大地を思わせるインドネシアを」
 憎まれても仕方がない人たちなのに、つい先日も、しっかり栄養を取りなさい、と家の畑で採れた野菜を送ってくれた。
「それだけ? 念願のパン屋を開業したばかりなのに、大変そうよ。私、自宅の住所も教えてもらってるから」
 美穂子のことだ。彼女とは、罪の告白以降会っていない。酷い言葉を浴びせられたわけではない。お互い無言で別れたきりだ。
「いや、僕はもう……」
「ねえ、深瀬くん。世の中、コロナのせいで、って嘆く声でいっぱいだけど、何か一つくらい、コロナのおかげで、っていうハッピーなことが起きてもいいと、私は思うの」
 マスクの上の奥さんの目は、強く、優しい。一番に浮かんだ顔は誰のものだった?
「じゃあ、彼女の店のパンに合う、クローバーブレンドをお願いします」
 一日早い五月の風が、フワリと二人の間に吹きこんだ。


湊かなえ(みなと・かなえ)
1973年広島県生まれ。2007年『答えは、昼間の月』で第35回創作ラジオドラマ大賞を受賞。同年「聖職者」で第29回小説推理新人賞を受賞しデビュー。’09年『告白』で第6回本屋大賞、’12年「望郷、海の星」で第65回日本推理作家協会賞(短編部門)、’16年『ユートピア』で第29回山本周五郎賞を受賞。また『贖罪』は’18年米国のエドガー賞(最優秀ペーパーバック・オリジナル部門)の候補になるなど、国を超えて多くのファンをつかんでいる。

【近著】

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