森 博嗣 × 五十嵐律人  往復書簡

文字数 8,165文字

第62回メフィスト賞受賞作『法定遊戯』(2020年7月15日発売予定)。

その作者である五十嵐律人氏が愛してやまないメフィスト賞受賞作品こそ、

第1回メフィスト賞受賞作『すべてがFになる』(森 博嗣)でした。


今年デビューの新人小説家・五十嵐 律人氏が

同じくメフィスト賞出身のあこがれの小説家・森 博嗣氏と、

「メールのやりとり」のみのStayHomeな対談を行いました。

森博嗣様


初めまして、五十嵐律人と申します。

第62回メフィスト賞を受賞して作家の卵になった傍ら、司法修習というカリキュラムを受講中の法律家の卵でもあります。


この度は、拙著『法廷遊戯』をお目通しいただき誠にありがとうございます。

本作をメフィスト賞に投稿した際、応募要項に「人生で最も影響を受けた小説」という項目があり、小説を書く動機付けを得たという直列的な理由で、「すべてがFになる:森博嗣著」と記載しました。

受賞が決まった後の打ち合わせにおいてもアピールし続けた結果、このようなやり取りの場を設けていただくに至ったと推測しております。


先生の作品を拝読していると、「才能」を書くことの難しさを痛感します。現実世界の天才は実績で認められますが、物語の中の天才は会話や思考の流れで描写しないと読者が納得しないと思うからです(「彼女は天才だ」と一行書いて済むなら楽なのですが……)。

「すべてがFになる」では、萌絵も犀川も四季も紛うことなき天才で、さらに、才能の濃淡まで描写されていて……、その衝撃が小説を書こうという原動力になりました。


このままだとファンレターになってしまいますので、俗な質問で恐縮ですが、作家としての才能との向き合い方について考えをお訊かせいただければ幸いです。


よろしくお願いいたします。


五十嵐律人様


こんにちは。受賞おめでとうございます。森博嗣です。

2月に、『法廷遊戯』を拝読いたしました。

法廷ものは、海外では珍しくありませんが、日本の小説では読んだことがなく、新しさを感じました。日本でも一般市民が裁判に参加するシステムが導入されたので、今後有望なジャンルなのかもしれません。また、ミステリィによくある要素を微妙に外している点も新しく、意欲的な作品だと受け止めました。


法律というのは、義務教育で習うことがないし、市民は法律をほぼ知らずに社会に出ます。また、日本では論理を学習する機会も少なく、法学というのは、ほとんど「理系」と同じくらい一般から隔絶した世界なのかもしれません。その意味で、マニアックなところを突いてきた、とも感じました。そのマニアックさを、「遊戯」仕立てにし、ライトでわかりやすくした点など、ご苦労されたのではと推察いたします。


ところどころに専門的な知見が紛(まぎ)れ、物語のキィにもなっています。それらが基盤となって、揺るぎないストラクチャが築かれ、多方面から楽しめる作品に仕上がっています。


この作品にも天才が登場しますね。「天才的」なのかもしれませんが、司法試験に若くしてパスしているというだけでも凄い人物です。また、主要人物2人も、それに準じる秀才であり、その点では『すべてがFになる』と似たフォーメーションです。天才を表現するには天才を理解する知性を描く必要がある、という道理から、この配置は必然といえます。


天才を描くには、天才を知っていること、天才を理解できることが条件でしょうか。さらには、やはり論理的な説明が不可欠ですが、その論理の精密さに加えて、なにかしらのギャップ(論理のジャンプ)を見せる必要もあります。そのシチュエーションを創作するには、時間を使って考え続けるしかないと思っています。幸い、小説家には考える時間が充分にあります。スポーツや音楽などライブで実演するものでは、そうはいきません。それに比べれば恵まれています(つまり、凡人でも天才的な小説が書けるという意味です)。


作家としての才能との向き合い方というのは、あまり考えたことがありません。作家としての自分に向き合ったこともないくらい。僕はそもそも小説をほとんど読まない人間です(今年は『法廷遊戯』1作で終わるでしょう)。他者の才能に触れる機会がほぼありません。自分の才能については、仄(ほの)かに把握していて、それを活かすためには、ただ誠実に書き進めること、地道に書き続けることしかない、という方法を持っている程度です。


そうですね、もの凄い作品を一作書こう、といった気負いがなく、生涯をかけてただ一作を書いている、その途中だ(しかも、いずれは尻切れ蜻蛉(とんぼ)になる)、という認識しか持っていません。自分の才能というのは、その程度のものだと考えているからでしょう。このあたりは、人それぞれだと思います。


五十嵐さんは、まだお若いので、可能性が未来に広がっていることと想像します。創作にどんな夢をお持ちでしょうか?


森博嗣様


丁寧な返信をいただきまして、ありがとうございます。

「法廷遊戯」に関する所感も打ち震えながら拝読しました。


新人賞への応募を始めたとき、「新しさ」を示せなければ受賞はできないだろうと漠然と考えていました。強烈なキャラクター、斬新なトリック、緻密な心理描写……。いろいろと挑戦する中で行き着いたのが、リーガルミステリーとしての「法廷遊戯」でした。

ご指摘いただいたとおり、日本の義務教育では、法律を学ぶ機会がほとんどありません。せいぜい、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重という(謎の)三大原則を教えるくらいでしょうか。その是非はともかくとして、日常に溶け込んでいるはずの法律が非日常的な存在とみなされているギャップは、ミステリーの基盤になり得ると感じ、そこに自分の過去の断片を添えてみようと思い至った次第です。

エンタメ要素に重きを置いたリーガルミステリーはまだ開拓の余地があると信じて、自分なりの「新しさ」を愚直に追求していきたいと思います。


諒解が及ばない領域にいるのが天才なので、才能の濃淡をつけることで橋を架ける……。言うは易く行うは難しだと理解していますが、グラデーションを作ってビビッドな才能を際立たせる描写に挑戦し続けて、いつか四季のようなキャラクターを書き上げられたら、天才の呪縛から解放されるかもしれません。

私自身、才能は足切りラインにすぎないと考えており、時間を掛けて向き合えるのが創作の美点ならば、それを言い訳に使うのはナンセンスだと気付くことができました。


創作に抱いている夢……。

弁護士では成し得ないことを、創作を通じて果たしたいと願っています。クライアントの意向に沿った助言が求められる弁護士とは違い、小説は解釈を読者に委ねることができます。「法廷遊戯」を読んで法律学に興味を持った子どもたちが、義務教育の壁を打ち破って独学で勉強を始める――。そんなきっかけを提示できれば、幸甚の至りです。


先生がデビューされた当時、「理系ミステリー」もマイナーでマニアック寄りのジャンルと認識されていたものと推察いたします。そのようなジャンルを扱うにあたって苦労した点や心掛けた点があれば、教えていただけないでしょうか。


よろしくお願いいたします。


五十嵐様


そうですね、どういうことをしたら犯罪になるのか、教えてもらっていないのに、逮捕されてしまいます。「知りませんでした」では済まないわけです。契約していないのに違反になる。しかも、一方的に法律が変わることがあって、知らないうちに犯罪になる場合もありますね。


法廷ものは、洋画で古くから名作が幾つかありました。他者を説き伏せなければ、正義が成り立たない、というのは、日本にはない文化だと思いました。日本もこれからそうなっていくのでしょうか?


人を殺したら、どれくらいの罪になるのか、市民はぼんやりと思い描いている程度です。そうそう、現実が小説と違うのは、本人が「私がやりました」と自白しても、重要な証拠にならない点でしょうか。また、一般市民は、悪いことをした人には反省してほしい、謝罪してほしい、という気持ちを持っていますが、実際には、反省や謝罪は、殺人犯から直接は聞けませんね。それで、小説にそれらを求めるのでしょう。


理系ミステリィについてですが……、いえ、苦労したくないので、理系の舞台にしました。苦労といえば、「これ、非理系の人たちにわかるかなぁ?」と想像することくらいです。たとえば、「オリンピックの延期も中止も考えておりません」と偉い人が言いましたが、「え? 考えもしないなんて、この人、大丈夫?」と理系だったら不審に思います。「オリンピック中止の可能性はありません」とも言いきりましたが、未来をそこまで確定できることが驚異です。可能性はいつでも常にあるはずです。でも、それが日本人の普通の言葉遣いなのですね(例が不適切なときは、「オリンピック」を「消費税の減税」などに置換して下さい)。


弁護士を目指されているのですね。理屈が通る世界なのかな、と想像します。日本人は、「悪い人の味方をするなんて」と抵抗感を抱きがちですが、最近はだいぶ親しまれてきたでしょうか? 日本では、アメリカのように超人気で憧れの職業、とまでならないようですが、環境の何が違うのでしょうね?


森博嗣様


ご返信ありがとうございます。


「法の不知はこれを許さず」という法諺は、刑法にも明記されています。「人を殺しても許されると思ったから刺した」は有罪で、「人だと思って刺したら人形だった」は無罪になる。理屈をこねることは可能ですが、秩序を維持するための線引きをどこにするのかという問題だと私は理解しています。


日本での紛争の現状として、ネットに氾濫している情報を集めて法律勝負を挑む人自体は増えているようです。ただ、戦いの舞台が法廷になるのはレアケースで、内々に解決することを好むため、そこに争いを公にしたがらない日本人らしさは現れています。用意周到に武器(証拠)集めをする傾向もあるので、探偵の需要は高まっているのかもしれません。名探偵までは求められていないのでしょうけれど。


犯した罪を罰に換算する役割は、人工知能が担っていくのかなと想像しています。裁判官の役割は、導かれた結論を一般市民が受け入れられるように言語化することで、その点でも動機や反省の弁は今以上に重要視されそうです。


私も含めて、未来を見据える考え方を苦手としている人は多くいる印象があります。紛争の予防に向けて動くことはあっても、それはマイナスを減らしているにすぎず、プラスに転じようという意識は希薄です。もっとも、未発生の結果をシミュレーションする姿勢が重要なのは否定しがたい事実なので、結局は個人の思想に行き着くのでしょうか。


「悪人の味方をする弁護士」という反発は根強く、それを完全に払拭するのは不可能だと思っています。和を重んじる日本人にとっては、争って勝ち取る正義よりも、潔い切腹の方が賞賛されるのかもしれないと、半ば本気で諦観しつつあります。だからこそ弁護士の存在意義が肯定されるわけですが、正義のヒーローになるのは茨の道です。


新人作家として生き延びる難しさを理解した上で、それでも足掻きたいと望んでいます。良質な作品を速いペースで発表し続ける――。その一言に尽きるものと推察していますが、付け加えることが可能なアドバイスがあれば、お聞かせいただけないでしょうか……?


よろしくお願いいたします。


五十嵐様


そうですね、ネットの普及で、多くの人たちが言いたい放題の様相となりましたから、法律を捏(こ)ねる人も出てきそうです。今のところは、「専門家の先生に伺いましょう」が普通のスタンスですけれど……。ただ、「名探偵」と呼ばれるほどの人が登場するかどうかは、いささか怪しい感じがします。


弁護士の仕事はAIに奪われる、と言われて久しいと思いますけれど、あれは英語圏の感覚なのかもしれません。日本でも、法律用語でならばAIに任せられますが、一般の(曖昧な)日本語への翻訳が必要になりそうですし、やはり大衆感情的なものを酌(く)む作業は、まだしばらくは人間の仕事のように感じます(個人的には、無用な作業だとは考えていますが)。


最近の日本の風潮で気になったことで、(またも悪い例かもしれませんが)老人が運転を誤って大事故を起こしてしまった場合などに、その運転手に対するリンチに近いような言動が多く見られました。まずは、自動車の機械としての不備、その次には免許制度の不備を問題にするべきところを、直接加害者個人への攻撃に移る浅はかさは、多少心配になります。こういった事件で過失のある被告人を真正面から弁護することこそ正義ですが、日本の社会では「風当たりが強すぎる」ことでしょう。その風当たりを恐れて、大勢が口をつぐんでしまうようにも見受けられます。


小説(あるいはフィクション)に見られる顕著な傾向の一つに、「悪い奴らには仕返しをしなければならない」という古いテーマがあります。これは日本だけでなく、ハリウッド映画でも顕著です。法治社会の歴史が浅いとはいえ、これもやや不安になるところです。現実がそうだから、読者はその(仇討ちの)幻想に満足する、というエンタテインメントと片づけて良いものか、作家にとっては悩ましいテーマの一つとなりましょう。


作家として生き延びるのは、作家自身の気の持ちようでは、と思います。たとえ作品を書かなくても、私は作家だ、と思い続けられれば、生き延びていることになり、一方、作品を書き続けても、作家として生きた心地がしない人もいるかも(僕はこちらです)。


大事なことは、他者を気にしないことですね。読者の言うことも気にしない方がよろしいかと。褒められても、貶されても、ほとんど同じ、ただの「声」そして「音」だと受け止める。声や音は、騒がしくても、風みたいな「力」ではないので、押されたり引っ張られたりすることはありません。影響を受けているような気がするだけで、前進も後退も、実は自分の力でしているのです。


森博嗣様


トラブルに巻き込まれて視野が狭くなると、「ネットの情報は玉石混淆」という顕著な事実すら見えにくくなるようで、法律知識がある悪い人の餌食にされてしまいかねません。専門家に頼らない自己防衛が理想だとしても、冷静な客観視が難しい状況にあるならば、弁護士や探偵に限らずとも第三者の意見は聞くべきだと思っています。


現在は法律事務所で修習中なのですが、弁護士に求められる技能のうち傾聴が占める割合の大きさに驚いています。なので、完璧な相槌を打つ聞き上手なAIが発明されない限り、弁護士は生き残れるはずです。とはいえ、法的な評価が求められる作業(養育費や慰謝料の算定、懲役や罰金の認定等)は、既に大量のデータが集積されており、いずれはAIの独壇場になる気がしています。


高齢者の交通事故に対する世論を見ていると、自動運転の普及後に起きる事故の責任論がどうなるのかと考えます。メーカー側が責任を負うのが原則のはずですが、車の保有者の謝罪や誠意を求める風潮は根強く残るのではないでしょうか。最終的な責任は人間が負うべきという固定観念は、動物が起こした事故や自然災害でも時折り出現します。


復讐が法的に正当化されるのは、正当防衛が成立する場合に限られます。フィクションでは、もっと広い意味での復讐が容認されているようですね。それを読者の納得を得るための動機として用いていいのかは、登場人物やストーリーと向き合いながら今後も考えていきたいテーマです。


作家としての生き方……、思考に刻み込みました。

他者の声や音に惑わされることは多々あると思いますが(自己分析です)、一方の個性として持つ我の強さと相殺しながら、幻覚や錯覚を振り切って前進していく所存です。

自分の力で前進するためのエネルギーを、今は小説を書く純粋な楽しさや未来への期待で補っている気がします。きっと、それらはある種のまやかしなのでしょうから、ひた向きに物語を紡いで、地に足をつけて前進するエネルギーを蓄えたいと思います。


よろしくお願いいたします。


五十嵐様

 

小説はほとんど読まないのですが、僕が知っている範囲では、映画や漫画や小説の85%以上は「復讐」がストーリィの骨格にあります。ミステリィも、もちろん「復讐」でしょう。僕が子供の頃に体験した物語では、多くは暴力には暴力で、という結末でしたが、この50年くらいで、少しずつ「後ろめたさ」を感じるようになったのか、和らぎました。ハリウッド映画でも、「とどめ」を刺さなくなったようです。そのかわり、「天罰」で悪者が死にます。

 

現実では、とどめを刺せないどころか、明らかな悪者にも天罰が下りません。大衆は、もやっとした感情を抱いているはずです。そこで、せめて言葉だけでも相手を罵(ののし)りたい、といった感情がネットで表面化しているのかも。ただ、その言葉を真に受ける子供がいると悲劇です。

 

「正義」とは何か、というテーマは、僕も常々考えるところです。考えるほど答が遠のく問題ですけれど、小説であれば、その複数解を示すことができるかもしれません。小説の持っている有意義な特徴の一つといえます。

 

小説のもう一つの特徴は、「なんでもあり」な点、自由さです。これは、僕も小説家になるまで知りませんでした。デビューを目指す人は、なんでもありではなく、ある程度まとまっていなければなりません。とりあえず選考委員や編集者に受け入れてもらわないと作家になれないからです。良い編集者は、なんでもありだと言いますが、そうでない編集者は、売れるものを求めます。ただし、過去に売れたものを知っているだけで、これから売れるものを知っている人はいません。

 

デビューして作家になってしまえば、もう自由です。なんでもありだと思いますよ。まとまっている必要もないし、こういうものだ、と思われているものに縛られる必要もありません。読者は、編集者よりも幅広く分布しているので、なにを書いても受け入れてくれるでしょう。

 

どうかご自由にご活躍下さい。


森博嗣 様


かくいう「法廷遊戯」も、復讐や正義の在り方をテーマにした物語です。

「復讐」という自力救済を禁止するのは司法が担う役割とされていますが、禁ずるのみで代替執行機関として機能しているわけではないので、その狭間を埋めるための「正義」がフィクションに求められているのかもしれません。両者(司法とフィクション)に携われる立場にいるからこそ提示できる解決策があるのだとすれば、大きなテーマとして今後も考え続けていこうと思います。


――所定の通数に達してしまったので、お礼の言葉を述べさせてください。


この度は、往復書簡の企画を引き受けてくださり、ありがとうございました。

先生の作品に対する想いや憧れ、作家として歩んでいくことへの不安、テーマや才能との向き合い方等、デビューが決まる前の想いから現在進行形で抱いている感情に至るまで、さまざまな事柄を整理することができました。


メフィスト賞が標榜する「面白ければ何でもあり」は、先生を始めとする初期の受賞作家の方々が作り出された流れを、その後の受賞作が受け継ぐことで確立した系譜だと思っています。「面白さ」が主観的な指標である以上、方向性を見失ったり、スランプに陥ったときは、良い意味で開き直って、自分が信じる面白い作品を自由に書いてみます。


こういった形でのやり取りを実現させるには、本来であればもっともっと実績を積み重ねる必要があったはずです。かなりのショートカットを経たこともあって、尋常じゃないほど緊張しながらの約1週間でしたが、スタートラインに立つ新人作家として得るものが多くありましたし、刺激的で楽しいひと時を過ごせました。


自由に、楽しみながら……。

デビューに向けて、今できることを積み重ねていきたいと思います。


本当に、ありがとうございました。


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