なぜ、ゾンビがホラー映画を席巻したのか?/貴志祐介

文字数 3,652文字

「ゾンビ」はなぜこうも私たちの心を捉えるのだろう…?

『黒い家』(1997年・日本ホラー小説大賞)、『硝子のハンマー』(2005年・日本推理作家協会賞【長編及び連作短編集部門】)、『新世界より』(2008年・日本SF大賞)、『悪の経典』(2010年・山田風太郎賞)…とホラーからSFまで、幅広い分野で活躍する貴志祐介さんが、「なぜ、ゾンビがホラー映画を席巻したのか?」と題してエッセイを書いてくださいました! 必読です!

なぜ、ゾンビがホラー映画を席巻したのか?/貴志祐介

 近年のホラー映画界において、サメとゾンビのやりたい放題は、目に余るものがある。サメは、双頭になったときも驚いたが、剃刀で切ったプラナリアのように頭部が増殖し、ついに六つになった。36個になったら、ほぼ死角のない球状になるのではと思うが、それも時間の問題かもしれない。活動範囲も海だけでなく、モグラのようにビーチの砂の中を驀進し、ついには宇宙空間へと進出した。最近は、『エルム街の悪夢』のフレディのように、夢の中にも出現するようになっている。


 一方、能や狂言のようにしずしず歩いていたゾンビは、『28日後…』や『ワールド・ウォーZ』、『新感染 ファイナル・エクスプレス』などから全力疾走をし始め、『アーミー・オブ・ザ・デッド』では知能を持ったやつまで現れた。その流れを汲んだのか、USJのゾンビはチェーンソーを振り回している。さらに、ゾンビ化の波は罪もない動物にまで広がって、動物園の動物が軒並みゾンビ化する『ズーンビ』も良識ある人の眉をひそめさせたものだが、可愛らしいビーバーがゾンビになり、嚙まれた人間がゾンビではなくゾンビーバーになってしまうという『ゾンビーバー』に至っては、もはや逆の意味で涙なしには見られない。


 かつてのホラー映画は、こうではなかった。ゾンビに主役の座を奪われた吸血鬼など、最初は招待してもらわないかぎり相手の家に入れないほどの奥ゆかしさで、日本人も驚く遠慮の塊だったのだ。


 それでは、いったいなぜ、ホラー映画は、厚顔無恥なゾンビに席巻されたのだろうか。(おバカな軟骨魚類のことは、とりあえず忘れていただきたい)


 かつてのホラー映画のスターは、ゴースト系を除けば、吸血鬼、狼男、フランケンシュタインの怪物などだった。このうち、フランケンシュタインの怪物は、『フランケンシュタインの花嫁』などによって新たな発展形を模索したが(蛇足だが、このタイトルでは、フランケンシュタイン博士が結婚したとしか取れないため、『フランケンシュタインの怪物の花嫁』とすべきだろう)、文学性に拘っているかぎり、メアリー・シェリーの小説の悲劇的なストーリーを超えられず、先細りは避けられなかった。


 一方、狼男は、手塚治虫が触発されて『バンパイヤ』や『きりひと讃歌』を描くなど、いっときは豊かな可能性を感じさせたが、結局、『アンダーワールド』などでは、主役はあくまでも吸血鬼となり、その脇役や敵役に甘んじている。


 つまり、ビッグ3のうちでは吸血鬼が最も長く命脈を保っているものの、時代の要請により、ホラー映画の盟主は吸血鬼からゾンビへと完全に交代したと見るべきだろう。


 その理由の第一は、古いホラー映画全般を支配していた、キリスト教的世界観の衰退に求められる。


 恐ろしい出来事の元凶は、幽霊なのか得体の知れない化け物なのかと期待していると、結局のところは、陳腐のきわみである「悪魔」の仕業にされてしまい、神の恩寵によってめでたしめでたしとなるという絶望的なつまらなさに、キリスト教圏の観客も、さすがに飽き飽きしたのだろう。(吸血鬼も、長い間、ほぼ悪魔と同一視されていた)


 その反面、キリスト教の軛からの解放は必ずしも良いことばかりではなく、全世界的なモラルの崩壊とも深く関わっている。


 モラルなき人々が犯罪に走るのをかろうじて食い止めているのは、法の処罰だけであり、天災などの混乱状態による法の支配の空白は容易に暴徒を生み出してしまう。ここへ来て、馬鹿ほど怖いものはないことに誰もが気づいてしまった。馬鹿が大群衆となって殺到してくるときの恐怖は、よく考えると、ゾンビそのものではないか。


 したがって、ゾンビが、ブードゥー教の呪文で蘇ってヨロヨロ歩く死体から、全速力で突進してくる化け物(馬鹿者?)の群れへと脱皮するのは、歴史の必然だったのだろう。その過程において、ゾンビは、キリスト教だけではなく、ブードゥー教とも決別せざるを得なかった。


 だったら、そもそもゾンビって何なんだということになるが、特殊な疾患という答えに辿り着くのは、それほど発想力が豊かではない脚本家にも容易だったはずだ。そもそも、吸血鬼の特徴であった嚙まれると感染するというルールは、ほぼ狂犬病そのものであり、ゾンビがそれを踏襲するのなら、ゴールは目の前だったのだから。


 実は、オカルトから科学への乗り換えも、吸血鬼が先んじて行っていた。何度も映画化されたリチャード・マシスンの『地球最後の男』は、驚くなかれ一九五四年の作品だが、原作小説で「吸血バチルス」なる単語を目にしたときの衝撃は、今も覚えている。


 バチルスとは、ヤクルトでもおなじみの桿菌のことだが、それに続くゾンビものでは、狂犬病やエボラ出血熱への恐怖や、新型コロナウィルスなどのパンデミックを踏まえて、ウィルス説が最も人気があるようだ。平井和正が一九七二年に発表した『死霊狩り』では宇宙から来た生命体が原因となっており、こちらもSF系では一派を成している。


 つまり、ゾンビは単一の原因で生まれるのではなく、様々な亜種や類型を発明するのが可能で、作中では「ゾンビ」と呼んでいない場合も含めて、緩くつながっているのだ。


『ゾンビ3・0』では、さらに新しい解釈が提示されているので、どうか楽しみにしていただきたい。


 さて、ゾンビがホラー映画を席巻した最大の理由だが、これにはゲームが深く関わっている。敵が数の暴力で来るなら、こちらも必然的に、それだけ多く殺すことになるため、より見せ場が増えてゲーム性が高まるのである。


 同時にそれは、我々がひた隠しにしている嗜虐性の解放にもつながる。ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』では、それ以降は定番となる、主人公たちがショッピングセンターに立てこもるシーンがあるが、ここで早くも、面白半分にゾンビを撃ち殺すという画期的な描写があるのだ。


 観客によるこのシーンの受け取り方は、映画が公開された1978年と今では、微妙な差異があるだろう。当時は、ショックを受けたり目を背けたりした人が多かったようだが、今では、何とも思わないか、むしろ愉快に感じる人の方が多数派かもしれない。


 この間、社会のストレス値はとめどなく上昇し続けており、その源はというと、大半が人間である。パワハラ上司や、カスハラ客、モンペなど、誰しも、ぶち殺してやりたいと思ったことがあるだろう。ゾンビの群れの中に見知った顔を発見したときに、恐怖の中に歪んだ喜びを感じたとしても、別段、非難には値しないような気がする。


 素晴らしいのは、やつらはいったん死んでいるため、殺人罪を免れられることだろう。起訴されたとしても、せいぜいが死体損壊罪で、襲ってくる死体を破壊しても、おそらく緊急避難が認められるはずだが、最悪の場合でも三年以下の懲役ですむのだ。


 最後にもう一つゾンビがウケた理由を挙げるなら、我々が物事を深く考えることを止め、すべてを見た目で判断するルッキズムに傾倒していることかもしれない。


 思い出してほしい。吸血鬼は、一見すると高貴な伯爵で、狼男は、満月の夜に変身するまでは、ごくふつうの人間である。フランケンシュタインの怪物は、醜悪な外見の下に、繊細な心を隠し持っていた。どの怪物も、外見からすべては判断できない複雑な存在──本来の人間そのものだったのだ。


 そこへ行くと、ゾンビはきわめて単純明快で、外見はグログロ中身もゲロゲロである。醜いものは抹殺してもOKという、現代人の感性、行動原理にいっさい抵触しないのだ。これは、ゲーム的世界観とも程よくマッチしており、見た瞬間に撃つかどうかを判断するためには、ゾンビのわかりやすさが必須なのだろう。

貴志祐介(きし・ゆうすけ)

1959年大阪府生まれ。京都大学経済学部卒業。 生命保険会社に勤務後、作家に。ʼ96年、『十三番目の人格 ISOLA』が日本ホラー小説大賞長編賞佳作に選ばれる。’97年『黒い家』で日本ホラー小説大賞、2005年『硝子のハンマー』で日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)、’08年『新世界より』で日本SF大賞、’10年『悪の教典』で山田風太郎賞、’11年『ダークゾーン』で将棋ペンクラブ大賞特別賞を受賞。その他の著書に、『天使の囀り』『クリムゾンの迷宮』『青の炎』『鍵のかかった部屋』『罪人の選択』『我々は、みな孤独である』などがある。

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