『薔薇くい姫・枯葉の寝床』森茉莉/かぎりなく全円に近き幸福(岩倉文也)

文字数 2,385文字

次に読む本を教えてくれる、『読書標識』。月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は『薔薇くい姫・枯葉の寝床』(森茉莉)を紹介してくれました。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

耽美や幻想と聞くと、ぼくは精巧に造られたミニチュアの模型を連想する。そこには確かに人間が登場し、激しい愛や憎しみ、その果ての劇的な死が語られていることも多いのであるが、どこか血の通っていないような感じがする。しかしむしろ、そうした作り物めいた特徴こそが、われわれの言い知れぬ美への欲望を掻き立てるのである。


美は嘘である。遊びである。


無論、自ずからに醸し出される自然な美、というのも存在する。が、それは意識的な創作者、芸術家の領分ではあり得ない。あくまでも芸術家は、偽物のなかに本物の美を、作り物のなかに本物の感情を見出す者でなくてはならない、とぼくには思える。


森茉莉の作品集、『薔薇くい姫・枯葉の寝床』に収められた「枯葉の寝床」は、そうした人工楽園のひとつの極みであり、断崖である。


本作では、フランス貴族の父と日本人の母を持つ三八歳の美丈夫・ギランと、「美神と悪魔との愛児(まなご)」である美少年・レオとの破滅的な愛が描かれている。いや、愛とは突き詰めればみな破滅的であり、「馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ」と塚本邦雄が詠んだ境地にまで、人を追い詰めてゆく。

ギランはレオとの恋愛を、窮極まで、追いつめたいのだ。レオを、一旦手放したような気が、ギランはしている。レオを、この世の果をこえて、次の世の、果まで、それがどんな煉獄でも地獄でもいい。レオをどこまでも、どんな世界の果までも追いつめ、抱きしめて、この手から放したくない。ギランは胸の火に灼けるようになって、思った。

それにしてもぼくは、このギランが小説家でもあるという点に興味を覚える。本書に収録されたもうひとつの耽美小説「日曜日には僕は行かない」においても、美少年を愛するのは小説家の男である。


「日曜日には僕は行かない」も「枯葉の寝床」と同じく、色気ある中年男と美少年との恋愛が主題となってはいるが、その趣きはいささか異なる。「枯葉の寝床」には二人の関係を批判的に見つめる他者、あるいは二人を取り巻く俗世間といったものが微塵も描かれてはいない。そこに登場するのは宝石商であり、地下の秘密めいたナイトクラブであり、森に佇む洋館である。舞台は日本の東京であるはずなのに、殆どフランス風の幻想世界がしつらえられている。夜。という言葉に付随する諸々の妖しく美しいイメージが、本作の基調を成しているのである。


それとは打って変わって「日曜日には僕は行かない」で展開されるのは、専ら昼の世界である。昼の世界には、常識的な社会人たちが闊歩している。彼らは男同士の耽美な恋愛にふける主人公たちを訝しい目で見つめ、軽蔑する。本作には、そうした世間の外圧にいかに向き合うのか、という「枯葉の寝床」では捨象されていた問題についてが描かれる。


本作に登場するのは中堅小説家の達吉とその愛弟子の半朱(ハンス)である。半朱は達吉と自分の関係が単なる師匠と弟子といったものを超えた微妙さを持っていることを知りながら、持ち前の暢気さで与志子という少女と不用意に婚約してしまう。それに裏切りを感じつつも半朱を諦めきれない達吉は、ある行動に出る……。というのが本作のあらましである。


先ほども述べた通り、本作には世間が描かれる。その世間を代表するのが与志子であり、また与志子の両親である。


物語の中盤、達吉と半朱の暮らす家に与志子の母親が乗り込んできて、こうぶちまける。

「あなたがたがどういうお考えでいらっしゃるのか、それは私は存じません。けれど、あなた方は私共の世界とは異(ちが)った常識外の世界で、私共なぞよりももっとご立派なことをなさっていらっしゃるのだと、お思いなのでしょう。いいえ、それはあなたのお顔に書いてございます。私共はあなた方のお考え通り、常識の中で生きておる人間でございます。でもそれだからと申して、どうして私共が馬鹿にせられなくてはならないのでございます。軽蔑されなくてはならないのは、あなた方の方ではございますまいか」

この場面では達吉が矢面に立って、のらりくらりと言葉巧みに母親の挑発を躱してゆくのであるが、ここで提示された常識的な世界との対立は決定的である。


では対立の果てにどんな結末が訪れるのか? 


ぼくの好きな『なるたる』という鬼頭莫宏の漫画には「自分が世界のどこにもあてはまらない時どうすればいい? 世界のカタチにあわせて自分を削るか、自分のカタチにあわせて世界を削るか、あんたはどうする?」という台詞があるが、それに即して言うのであれば、本作が描くのは「自分のカタチにあわせて世界を削」った者たちの悲劇である。


森茉莉の耽美小説は断崖だ。男同士の愛を描いて、これほどまでに純粋で残酷な美を提示するのは不可能ではないかと思えるほどの、凄味がある。


そしてそれらがどうしようもない悲劇に終わりながらも、同時に澄明な幸福感を湛えているところに、われわれは芸術の勝利を見るのである。

日逝き月逝きこの蝕の夜にわれら会ふかぎりなく全円に近き幸福

(春日井建『白雨』より)

『薔薇くい姫・枯葉の寝床』森茉莉(講談社)
★こちらに記事もおすすめ

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色