〈6月23日〉 澤村伊智

文字数 1,458文字

 家に()もるようになっても生活に大きな変化はなかった。それまで事務所や近所のファミリーレストランで執筆していたのを、自宅に変えただけだ。
「この時期にホラーはちょっと……」「世相を(かんが)みてまたご連絡しますね」などと、いかにもな理由で依頼を()()にする出版社は、幸いなことに一社もなかった。
 生活必需品はすべて通販で購入し、家族全員、外出を控えている。区の感染者は都内でも多い方に入り、決して油断はできない。
 ただ、僕が住む団地では今のところ感染者ゼロだ。マンモス団地と呼んでもいいほど(たく)(さん)の棟が建ち並び、大勢が住んでいるにも(かか)わらず。
 これは幸運ではない。住民の高い衛生観念と、高い団結力の(たま)(もの)だ。パパ友、ママ友、同じ階の住人、皆が一丸となってウイルスと戦い、打ち負かした結果だ。今までの頑張りを決して無駄にしてはいけない。
 だから数週間前から食事の味や(にお)いを全く感じなくなったのは、妻の料理の腕が落ちたせいに決まっている。
 (のど)が痛くなったのも慣れないリモート打ち合わせで、つい声を張りすぎたせいに決まっている。
 熱が引かなくなったのも単なる風邪に決まっている。(ちっ)(そく)しそうなほど(せき)が出るのも、精神的な問題に決まっている。病は気からと言うではないか。
 僕は感染していない。僕たち家族は感染していない。みんなと同じように。
 妻は三日三晩咳をし続け、一週間前の夜ふと見たら冷たくなっていた。だからもう感染していない。
 二歳の娘は熱で苦しいのか泣き()まないので、今週頭に強くしつけたら動かなくなった。だからもう感染していない。 
 小中高とクラス全員が皆勤だった。腹痛でもインフルエンザでも、みんな頑張って登校した。全校生徒の前で校長先生から表彰された時の、あの達成感。(ばん)(らい)の拍手で祝福された時の、あの連帯感。足並みを乱しそうな同級生を、みんなでよってたかって応援する充実感。
 自分が足並みを乱すことを想像したときの、耐え難いほどの不安、恐怖。
 今回も同じだ。みんなで健康的な日常を送ろう。今日は六月二十三日、妻の誕生日だ。思い切って僕が手作りケーキに挑戦してみようか。
 僕は(もう)(ろう)としながらキーを叩き続けた。

 ※  ※

「これ、小説ですか?」
 編集者がスマホの向こうで訊ねた。
「もちろん」僕は答えた。「大作家先生なら昔話や飼い猫のエッセイで成立しますけど、僕みたいなポッと出は小説で勝負しなきゃダメじゃないですか」
「ははは、ですよねえ」
 編集者は通話を切った。
 僕は()()にもたれ、咳が止まっているのを幸いに、たっぷりと酸素を吸い込んだ。すっかり()()した鼻でも耐えられないほど、(すさ)まじい死臭が部屋に充満していた。


澤村伊智(さわむら・いち)
1979年大阪府生まれ。2015年『ぼぎわんが、来る』で第22回日本ホラー小説大賞〈大賞〉を受賞しデビュー。2019年「学校は死の匂い」で第72回日本推理作家協会賞〈短編部門〉を受賞。近著に『ひとんち 澤村伊智短編集』『予言の島』『ファミリーランド』など。2020年8月に『うるはしみにくし あなたのともだち』刊行予定。

【近著】

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