『方形の円』ギョルゲ・ササルマン/都市の幻影、あるいは幻影の都市(千葉集)
文字数 1,972文字
本を読むことは旅することに似ています。そして旅に迷子はつきものです。
迷えるあなたを、次の場所への移動をお手伝いする「標識」。
この「読書標識」はアナタの「本の地図」を広げるための書評です。
今回はライターの千葉集さんが『方形の円 偽説・都市生成論』(ギョルゲ・ササルマン/住谷春也訳)について語ってくれました。
ドームに閉ざされた都市で先祖返りしていく住民たち、三次元都市で猛威を振るう空間識失調の風土病、年に一度の白夜以外の夜に出歩くと失踪してしまう街……
架空及び実在の都市にまつわる、どうかしているエピソードが淡々とつづられていきます。
どうかしていて当たり前なのが小説です。しかし、狂いかたには個性が出ます。『方形の円』のそれは、不可能を可能にしようとするタイプの狂気です。
不当なレッテルではありませんよ。なんなら、本作は狂人であると自称している。
Cuadratura cercului.
数学における円積問題に由来し、「円を方形にする」という意味も含みます。
円積問題とは「ある円と同じ面積の正方形をコンパスと定規のみで作図できるか」という問いです。古代から存在するのだそうですが、現在では「できない」と結論づけられています。ありえない図形なんです。転じて、「無謀な挑戦」を示す慣用表現としても用いられたりもしています。
では、そんな皮肉めいたフレーズをタイトルに据えた本作は、どのような困難に挑んだのでしょうか。
本作におさめられた掌編は、おおむね以下のように要約されます。
1. 人々がある特殊な機能を持った都市を形成する(している)
2. 住民たちがその特殊な環境に適応して変容していく。
3. その変容のせいで悲劇が起こる。
たとえば、「ステレオポリス」では膨れあがった人口を存続させるべく地表から脱却し、三次元空間を活用する新都市計画が立てられます。が、途中で都市構造が原因とおぼしき病気が流行りだしてしまう。住民たちは訓練によって免疫を獲得します。しかし、その免疫も子孫へ遺伝しないと判明し、悲嘆が街を覆うのです。
人によって造られた都市が人を造っていく。その相互作用が人と都市の運命を、滅びを、一致させていく。そのような狂気で出来ているのがこの本です。
本来、人と都市は一致しないものです。都市工学者の日端康雄によれば、肥大化した近代都市は街区や地区ごとに細分化されてしまい、部分と全体の関係が一体でなくなった。
そうなると、細部のひとつでしかない住民も全体としての都市から切り離されていく。都市という名の円から、人という名の方形を導くことが不可能になってしまった。
その歴史的現実に対してあえて逆行するかのように、『方形の円』は都市で人を描いていきます。逆行する先は、十六世紀です。ヨーロッパです。
『方形の円』では各都市ごとに、形状に関連づけられたシンボルが設定されています。
これらの図面はルネサンス期に流行した理想都市の計画図によく似ています。理想都市とはルネサンス期の幾何学、道徳理念、神秘主義、自然観等々を融合した理想郷のコンセプトです。
ルネサンス全体が人間中心の世界を志向したように、理想都市では人が都市を従わせ纏おうとした。では、それで人と都市は一致できたのか。
「ユートピア」という一篇を見てみましょう。幾何学的にも機能的にも完璧に整備された六角形の都市。そこに住まうのも理想的な市民ばかり……ですが、みな微動だにしない。死んだ街になる。このイメージに苛立った建築家は、図版を丸めて廃棄してしまいます。この建築家こそがスカモッツィ。ルネサンスに実在した理想都市推進者のひとりです。
「結局のところ、私の本が相手にするのは現代の人間」とササルマンは謳います。
机上で一方的に線をひいただけの街に、人の営みは息づきません。生活を通過してこそ都市の物語が生まれる。都市と人が巡り合える。
本作はルネサンスに回帰しながらルネサンスを超えようとしました。それは、もうひとつの歴史の創造です。交わらないはずの円と方形が交わる唯一のアジール、それが『方形の円』の設計思想なのです。
分岐した可能性はどこへ行きつくのか。不可能は可能になったのか。奇跡は顕現したのか。その目で確かめたくはありませんか、旅人さん?
ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。