乱歩賞作家が〝安楽死〟に切り込むミステリー!『白医』試し読み②

文字数 3,859文字

『闇に香る嘘』『同姓同名』で話題沸騰! 今最旬の乱歩賞作家・下村敦史さんの最新医療ミステリー『白医』がいよいよ5月26日に発売! 今作で下村さんが満を持して選んだテーマは〝安楽死〟。救うべきは、患者か、命か――。3件の安楽死疑惑を前に、沈黙を貫く医師の真意とは?

この度、刊行を記念し、第一話「望まれない命」を5日連続で特別公開いたします!

望まれない命 第二回



 神崎が勤めているのは、東京郊外にある天心病院だった。終末期を過ごす患者に緩和ケアを行うホスピスだ。ベッドの数は三十床もなく、医師はわずか三人で、看護師は四人。後は臨床心理士、ソーシャルワーカー、リハビリ専門医、臨床工学技士、栄養管理士、薬剤師だ。

 緩和ケア──。

 一言で言えば、重い病気に苦しむ患者とその家族が少しでも苦痛が少ない残りの時間を送れるよう、ケアすることだ。

 必ずしも終末期の患者に行うケアに限定されているわけではない。だが、天心病院は死期が近い患者が大半だった。明るく振る舞っている者もいれば、死の気配を纏って絶望している者、悲観的になって心を閉ざしている者など、様々だ。

 治して退院させるのではなく、死を前提とし、少しでも苦痛の少ない最期を送れるよう、手助けする。

 時に医師として無力感に襲われ、自分を見失いそうになる。死に慣れてしまえば楽だと承知していても、決して慣れることはなく、常に葛藤が付き纏う。

 神崎は更衣室で白衣を羽織ると、看護師の八城優衣を伴って個室を順番に回った。

「……具合はどうですか?」

 神崎は、ベッドに仰向けで寝ている水木雅隆に声をかけた。二十七歳の男性で、全身にがんが転移している。天心病院に転院してからは抗がん剤の使用を中止しているものの、投与していたころの副作用で頭髪も眉もない。

 彼は虚ろな瞳をわずかに動かし、一吹きで消えてしまいそうな声でつぶやいた。

「喉が苦しい。綿が詰まっているみたいだ……」

 それだけを口にするのが精いっぱいらしく、彼は胸を上下させた。顔は脂汗にまみれており、体内の痛みを吐き出したがっているような荒い息遣いだ。

「痰を出しましょうね」八城看護師が彼に寄り添い、優しく語りかけた。「そうすれば楽になりますからね」

 がんが肺に転移していると、痰が溜まりやすくなる。

 八城看護師は彼を側臥位にすると、病院着の上から背中を丹念にマッサージしはじめた。吸引器は苦しみを伴うため、彼は嫌っている。

 手抜きしない彼女は、排痰法も、顔を汗まみれにしながら丁寧に丁寧に行う。

 彼女は三十四歳とまだ若いものの、死が前提のこの職場で献身的に患者に接している。一ヵ月で辞めてしまう看護師も少なくない中、貴重な人材だった。

「痛みのほうはどうですか?」

 神崎は問診票を取り出し、雅隆の背中側から尋ねた。彼はぼそぼそと答えた。

「痛むんだ。ものすごく」

「どの部分が痛みますか」

「……腕がずきずきして、胸も苦しい」

 食いしばった歯の隙間から絞り出すような声だった。

「痛みは強いですか? 一番痛いときを十とするなら、今はどのくらいですか?」

「……八くらいかな。みぞおちにヘビー級のパンチを食らったらこんな感じだろうな、きっと」

 痛みの場所や強さを伝えやすいよう、用意した人の体のイラストで部位を指差してもらったり、数字を用いて意思疎通をはかるのは、大事なことだった。現場ではそういうやり方を採用している。

「今はそれでもましだよ」水木雅隆は背中をマッサージされながら、痰が絡む咳をした。「夜中は激痛で目覚めて、そのままずっと寝られなくて。十五くらいかな」

 痛みが最も強かった──ということだ。非ステロイド系消炎鎮痛剤では緩和しきれていないようだ。

「オピオイドを使いはじめましょうか」

 彼は大きく息を吐いた。

「オピオイドって──麻薬だよな?」

「そう分類されますね。モルヒネです」

「中毒が怖いな」彼は弱々しく自虐的な笑みを見せた。「ま、先が長くないのにそんな心配、馬鹿らしいかもしれないけど。煙草だって吸ったことないんだよ、俺」

「……痛みがある患者さんの場合、オピオイドを投与しても依存症になりにくいです」

「そうなのか?」

「痛みがあると、痛みを抑える防御反応としてドーパミン系の回路が抑制されているので、依存症になりにくいんです。ですから、NSAIDsの効果が不充分だと、使ったほうが良いです。神経障害には効果がありませんが、呼吸困難の苦しみには効きます」

「でも……麻薬を使いはじめると、死への助走をはじめた気がして、いよいよかな、って思ってしまって……それに麻薬に頼ったらますます何もできなくなりそうで……」

 病人は自分で様々な可能性を調べるため、時に医師より治療法や薬に詳しいこともある。だが、多くは中途半端な知識で、間違いも少なくない。

「オピオイドは多くの患者さんが誤解されているような、〝看取りの薬〟ではありません。むしろ、痛みを緩和することで、ご自身で諦めていたことができるようになります。前向きな投薬なんです」

 マッサージを終えた彼女は、彼の病院着をまくり上げ、温めたタオルで背中を拭きはじめた。

「……痛みが激しいときだけ飲むことは?」

「それはあまりお勧めしません。そうしてしまうと、逆に痛みを感じやすくなってしまうので」

「そう──か」

 彼の口ぶりには落胆の感情が滲んでいた。

「飲み薬はもう増やしたくないな。吐き気が強くて……」

 神崎は人差し指で首筋を搔いた。

 飲み薬のオピオイドだと、吐き気を催すケースがあり、大量に投与できないという問題点がある。制吐薬である程度は抑制できるものの、それにも限度がある。

 激痛も苦痛なら、吐き気も苦痛だ。無用な痛みを避けなければ、緩和ケアの精神から遠のいてしまう。

「経口投与ではなく、点滴にしましょう。それで吐き気は抑えられるはずです」

 マッサージを終えると、八城看護師は側臥位の向きを替えた。不安そうな眼差しと対面する。

「……副作用は?」

 症状を抑えるために薬、薬、薬──。新しい投薬の際、患者の誰もが気にするのは副作用だった。

「適量を投与すれば、様々な副作用もそれほど心配はありません」

「それでもあるんだろう?」

「はい。オピオイドの副作用の一つに便秘があります」

「便秘──?」

「はい。今は排便の状況はどうですか?」

「……ちゃんと出てるよ」

 答える彼は顔を顰めていた。今にも泣き崩れそうな、それでいて恥辱を嚙み締めているような、複雑な表情だった。

 彼は先日、トイレでの排便を望み、自力で歩いて行こうとしたが、倒れ込んで間に合わず、漏らしてしまっていた。

「便秘になったら、極力下剤を使わずに自然排便できるよう、努力してみましょう」

「……他に副作用は?」

「眠気に襲われるかもしれません」

 彼は顔を歪めたまま唇に微苦笑を刻んだ。激痛の最中、無理して作った笑みのように見えた。

「……今夜にも眠ったまま逝けたら幸せだろうな」

 悲観的というより、心底それを望んでいるかのような口ぶりだった。

「何をおっしゃってるんですか」八城看護師がベッドサイドテーブルの整頓をしながら言った。「ご家族も雅隆さんにまた会いたがっていますよ」

 彼は、ふっと息を漏らした。自嘲のようでもあり、冷笑のようでもあった。

「どうかされたんですか?」

「面会を──拒絶することはできないかな」

 肉体が朽ち、死にゆく様を家族に見せたくないと訴える患者はいる。だが、〝拒絶〟とは言葉が強すぎる。

「つらいんだ……」

 絶望の漆黒に塗り込められたかのような声に、八城看護師は一瞬、息を詰まらせた。

「お気持ちは──」

 彼女は語りかけようとし、途中で口を閉ざした。安易な共感の言葉など何の慰めにもならないと悟ったかのように。

「ご家族が悲しまれますよ。息子さんも、お父さんに会いたがっています」

「……そうだよな。忘れてくれ」

 彼は会話を拒否するように静かに目を閉じた。だが、八城看護師は精いっぱいのいたわりの声で続けた。

「この前だって、息子さん、次にお見舞いに来るときは、お父さんにプラモデルを見せるんだって。誕生日に買ってあげたそうですね。息子さんが大好きなシリーズ。一生懸命作っているそうですよ」

 雅隆は何の反応も見せなかった。だが、よく見ると、固く閉じたまぶたがわずかに濡れ光っていた。



第三回に続く。

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末期がん患者の水木雅隆に安楽死を行ったとして、裁判を受ける天心病院の医師・神崎秀輝。「神崎先生は私から……愛する夫を奪っていったんです…!」証人席から雅隆の妻・多香子が悲痛な声をあげるも一向に口を開こうとはしない。そんな神崎には他にも2件、安楽死の疑惑がかかっていた。患者思いで評判だった医師がなぜ――? 悲鳴をあげる“命”を前に、懊悩する医師がたどり着いた「答え」とは?

『闇に香る嘘』『同姓同名』の著者渾身、“命の尊厳”に切り込む傑作医療ミステリー!

下村敦史(しもむら・あつし)

1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。同作は数々のミステリーランキングで高い評価を受ける。短編「死は朝、羽ばたく」が第68回日本推理作家協会賞短編部門候補、『生還者』が第69回日本推理作家協会賞の長編及び連作短編集部門の候補、『黙過』が第21回大藪春彦賞候補に選ばれた。他の著作に、『悲願花』『刑事の慟哭』『絶声』『コープス・ハント』『同姓同名』『ヴィクトリアン・ホテル』などがある。

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