目白台 ~大作家の勘違いから生まれた名シーン!~

文字数 3,625文字

バスに乗るのが大好き。歩くのはちょっと好き。

清水門を出て、九段下のバス停に戻る。


ただし、降りた場所とはちょっと違う。来た時、使ったのは「高71」系統だったけど今度、乗るのは「飯64」系統だからだ。


この両系統、九段下と高田馬場という同じ地点をつないでいるんだけど(「飯64」の方は始点が高田馬場ではなく小滝橋車庫前)、途中のルートは大きく異なる。九段下のバス停を発車すると、「金大中事件」の舞台になったことで有名なホテルグランドパレス(最近、閉館した)の前を抜け、JR飯田橋駅のガードを潜る。飯田橋交差点で外堀通りを渡り、基本的に目白通り沿いに走る。


江戸川橋で新目白通りに入り、早稲田の先で坂を上がって早稲田通りに合流。以降、この通り沿いにゴールを目指すが、今回はそんなには乗らない。江戸川橋のバス停で、下車。


目的の目白台はそのまま目白通りに従って神田川を渡り、坂を上がった先で、歩いて歩けない距離ではない。でもまぁ同じ停留所名ながら、場所の違う「江戸川橋」バス停へ移って「白61」系統に乗り換えた。ここまでにも結構、ウロウロしてますからね。この上、坂を登るのはちょっとキツい。暑い日でしたし、ね(笑)


この「白61」、前に永井荷風の『日和下駄』の記述を訪ね、「根来橋」を探した時にも乗った。新宿と練馬車庫とをつなぐ非常に面白いルートをたどる路線だ。車窓の変化も多く乗っていて飽きない


ただし以前と同様、今回も全ルートは走破しない。それどころか今日は、乗るのはたったの2区間だ。「ホテル椿山荘東京前」だけ通り過ぎ、「目白台三丁目」で下車。鬼平の私邸は小説上、この辺りに設定されていた。 

鬼平のうちはここじゃない⁉ でも「鬼平犯科帳」の聖地であることに違いなし!
↑目白台図書館

前回、参考資料として掲げた『江戸古地図散歩』(池波正太郎/平凡社)で池波センセはこう書かれていた。「鬼の平蔵が盗賊改方に就任した当時の屋敷を、[武艦]によって調べて見ると、むかしは江戸の郊外といってもよかった目白台になっている」


大の鬼平ファンとしても有名だったコピーライター、故西尾忠久氏は小説と史実との対比について様々な論考を残しているが、この[武艦]についての研究もある。


『武艦』というのは江戸時代に編まれた、武家の「紳士録」のようなものだったらしい。昭和になって作られたそのアンソロジー『大武艦』を見てみると、「長谷川平蔵宣以 天六七 与十同三十△目白だい」の記述が見受けられる。


これを見た池波センセ、京都から戻って来た長谷川平蔵は与力10人、同心30人を配下に与えられ(「与十同三十」の記述)目白台に屋敷を拝領した、と思い込んだ。


東京に戻った鬼平が御弓頭を拝命したのは天明6年7月(「天六七」の記述)だから、ここまでは正しい。


ただし実際には、京都に移る前に済んでいた本所の私邸はそのまま取ってあり、鬼平はその家に戻っただけだったらしい。目白台の家は配下の与力や同心だけが住む組屋敷だったのだ。


だから本当は清水門前の役宅と同様、ここには鬼平の屋敷はなかった。


でもまぁいいじゃないですか、これまた清水門前の役宅と同様に。小説上はここにあったことになってるんだから。実際に足を運んでみる価値は、十二分にある。


ただ、一言「目白台」と言っても、広い。ここのいったいどこに、鬼平の私邸があったことになっているのか? 江戸切絵図を見てみると、この辺りには侍の家が立ち並んでいたことが分かる。鬼平配下の与力や同心も、この中にきっといることでしょう。


ネットでは小説における私邸は、現在の文京区立目白台図書館の辺りにあった、としているサイトもあった。確かに図書館の前の道は「鉄砲坂」(切絵図にも書いてありますね)につながっていて、これは下級武士が鉄砲の練習をしていたことに由来する名だから、「この辺り」としたい気持ちはよく分かる。

↑右上の建物が護国寺。左上の畑の中にあるのが鬼子母神。右側の縦の太い道が現在の音羽通りで、その五丁目あたりから左に出ている道が鉄砲坂の通りだ。
鬼平の私邸の場所、完全特定しました! ※あくまで邪推作家個人のリサーチです。


実は目白台、講談社の裏手に当たって私が雑誌記者をしていた頃、師匠の事務所のある新宿から「白61」系統に乗ってよく通っていたんですよ。


降りるバス停はまさに「目白台三丁目」だった。だからこの辺には土地勘もある。目白台図書館前、としたいのは私だって同様だ。


ただし前掲の『江戸古地図散歩』には、文中に取り上げられた地点を現代に照らし合わせている地図もあり、それによると鬼平の私邸はもうちょっと西寄りだったように記されているんですよ。


著者は池波センセ自身だから、地図の印もその意向を無視したものであったとは思えない。ならばセンセの頭の中では、私邸があったのはこっち、だったことになる。


なんで、地図に忠実にその場所を訪ねてみました。行ってみると、日本女子大キャンパスの裏手に当たる。こっちの方はさすがに来たことはなかったなぁ。まぁ目白台図書館から連なる一画ですから、同じような高級住宅街でしたけど。


ただ、一般人の家が立ち並ぶばかりなので、写真が撮れない。何かいいものはないかと歩き回ってみたら、「目白台総合センター」という文京区立の施設があった。あぁこれこれ、ということで写真に収めました。


なのであくまで私のリサーチでは、小説上の鬼平の私邸はここにあった、ということで決まり!

↑目白台総合センター
いつも鬼子母神にお参りしただけで帰ってました。 先達はあらまほしきこと!

さぁせっかくここまで来たんだから、と雑司が谷の鬼子母神まで足を延ばしてみることにした。小説では鬼平は、たびたびここを訪れているからだ。切絵図の中にも描かれてますね。


鬼平は清水門の役宅に詰めるばかりだから、目白台の私邸では息子の辰蔵がお留守番。


ところが辰蔵、剣の稽古をサボって音羽の岡場所(遊郭)に通ったりする放蕩息子(実際には父親に勝る賢人だったらしいけど)。たまに帰って来ると鬼平は辰蔵に厳しく剣を教え、一緒に鬼子母神に参詣したりする。親子の微笑ましいシーンである。


鬼子母神はインドの夜叉神の娘で、人の子供を食らうなど性格は凶暴そのものだったがお釈迦様に説得され、安産や子育ての守り神となった。

だから本当は、「鬼」の字の頭に点はつけない。角がなくなった、という意味なんだそうです。 

都電荒川線の「鬼子母神前」からは参道のケヤキ並木が伸びていて、歩いていると独特の雰囲気。すぐ近くには大繁華街、池袋があるなんて信じられない思いに包まれる。


参道は途中、T字路になっていてみんな左手の鬼子母神堂の方に行くんだけど、本当はここは法明寺というお寺で、本堂は右手の方。行ってみたら勇壮な鬼子母神堂に比べて、ひっそり落ち着いた佇まいでした。

↑本明寺本堂
鬼平もこの駄菓子屋で買い食いしたかも。その時ばかりは「鬼」の「´」も消えたかな。
↑鬼子母神堂

鬼子母神堂に来たら欠かせないのが境内にある『上川口屋』。


創業、何と1781年(天明元年)、「日本最古の駄菓子屋」と呼ばれるお店なのだ。関東大震災や東京大空襲など、数々の災厄にも負けることなくここで店を続けて来た。


さっきも言ったように鬼平が京都から帰って来たのが天明6年だから、その頃にはもうお店はやっていたことになる。


実際には目白台に私邸はなかったにしても、部下達が住んでいたことは間違いない。鬼平が彼らと一緒に参詣に来て、このお店でお菓子か何かを買っていたとしてもおかしくはないわけだ。


鬼平も愛用した店で現代の我々がラムネを買っている。考えてみると、不思議な気がしません?


さぁ次回はいよいよ、鬼平の実際の私邸を訪ねます。

書き手:西村健

1965年福岡県生まれ。東京大学工学部卒業。労働省(現・厚生労働省)に入省後、フリーライターになる。1996年に『ビンゴ』で作家デビュー。その後、ノンフィクションやエンタテインメント小説を次々と発表し、2021年で作家生活25周年を迎える。2005年『劫火』、2010年『残火』で日本冒険小説協会大賞を受賞。2011年、地元の炭鉱の町大牟田を舞台にした『地の底のヤマ』で(第30回)日本冒険小説協会大賞、(翌年、同作で第33回)吉川英治文学新人賞、(2014年)『ヤマの疾風』で(第16回)大藪春彦賞を受賞する。著書に『光陰の刃』、『バスを待つ男』、『目撃』、「博多探偵ゆげ福」シリーズなど。

西村健の「ブラ呑みブログ (ameblo.jp)」でもブラブラ旅をご報告。

「おとなの週末公式サイト」の連載コラム「路線バスグルメ」も楽しいよ!

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