Day to Day〈6月30日〉〜〈7月9日〉#まとめ読み

文字数 14,985文字

2020年の春、ここtreeで、100人のクリエーターによる100日連続更新の掌編企画『Day to Day』がスタートし大きな注目を集めました。この2021年3月25日、その書籍版が発売されます。


>通常版

>豪華版


treeでは、それを記念し、『Day to Day』の原稿を10本分ごと(10日分ごと)にまとめて、一挙に読みやすくお送りいたします。それでは……珠玉の掌編をお楽しみください!

〈6月30日〉ポコ


 飼い犬のポコが死んだ。
 だからもう、世界がどうなったってかまわない。

 その朝も、朔の心は静まり返っていた。小四の彼はまだ「諦念」の一語を学んでいなかったが、言葉よりも先にその実感と出会うこともある。別になくてもいいんだと休校中に気づいた学校も、あるならあるで粛々と通う。「粛々」の一語も知らないものの、そういう心持ちだった。
「ついに死者数が五十万を超えたか」
 食卓で黙然とトーストを囓る朔の向かいでは、両親が憂い顔をテレビへ傾けている。
「とくにアメリカがひどいな」
「だから、早いとこアベノマスクを送ってあげればよかったのよ、トランプ大統領に」
「かもなー」
 気の抜けた会話を聞き流しながら、朔が考えていたのはポコのことだ。ポコが死んだ四日前からずっと考え続けている。

 ポコは雑種の中型犬だった。齢は十八。人間ならば百歳以上。そのわりに元気だったのに、六月の頭から急に食欲を失い、荒い呼吸をするようになった。「肺に癌が広がっている可能性がある」。そう獣医から告げられた両親は、ポコの年齢を考え、入院させずに家で看取ることにした。
 それから三週間、ポコは何も食べずに水だけで生きた。日に日に痩せ衰えながらも立って、歩いて、家族にしっぽを振り続けた。元の飼い主に捨てられてもへこたれなかっただけあって、ポコは強い犬だった。
 が、最後の三日間は壮絶だった。急に苦しみだしたポコは幾度となく吐き、黒い便をし、遠吠えみたいな大声をはりあげた。「がんばれ、がんばれ」と呼びかけていた父の声は、やがて「十分がんばったよ」に変わった。母の目からも涙が消えた。「悲しみの向こう側へ抜けた」らしかった。
 そんな人間の感情とは無関係に、ポコは七転八倒しながらも最後の最後まで生きようとし続けた。感動的なほどの粘り強さでこの世にしがみついた。まだここにいたい。まだ。まだ。まだ。そう叫んでいた目を朔は決して忘れない。

「行ってらっしゃい。気をつけてね。寄り道しないで帰っておいで。本当に気をつけて」
 支度を終えた朔を、今朝も母は鬼ヶ島にでも息子を送りだすような風情で玄関まで追ってきた。コロナそのものよりも、コロナでぎすぎすした人間社会への不安があるようだ。
 けれど朔は恐れていなかった。ポコをあれほどしがみつかせた何かが、きっと、この世界にはあるはずだ。あのふんばりに値する何か。生きる真価のようなもの。
「真価」の意味もおぼろげながら、朔はそれを探す気だった。探して、きっと捕まえる。ポコみたいに強く。たとえ世界がどんなふうに変わっていこうとも。
「行ってきます」
 勢いよく飛びだした少年の頭上には、分厚い雲がうごめく薄墨色の空が広がっていた。
森絵都(もり・えと)
1968年生まれ。早稲田大学卒業。1990年『リズム』で第31回講談社児童文学新人賞を受賞しデビュー。1995年『宇宙のみなしご』で第33回野間児童文芸新人賞と第42回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞、1998年『つきのふね』で第36回野間児童文芸賞、1999年『カラフル』で第46回産経児童出版文化賞、2003年『DIVE!!』で第52回小学館児童出版文化賞を受賞。2006年『風に舞いあがるビニールシート』で第135回直木賞を受賞。他の作品に『永遠の出口』『ラン』『みかづき』『出会いなおし』『カザアナ』『できない相談』など。
〈7月1日〉お守りがわり


「えー、あー……大丈夫です」
 その後ろ姿から、何かを迷うような声が聞こえてくる。会計を終えたらしい女性は、「レシートはください」と付け加えると、眉を下げた横顔でコンビニの出口へと歩き出した。細い腕の上に商品を積み重ねて進む彼女の姿は、その危うさによって、私のみならず店員の視線をも引き寄せている。
「次の方、どうぞ」
 私は前進し、妥協して選んだ品々を差し出す。本当は豚しゃぶサラダとチーズ二倍のブリトーを狙っていたけれど、見事にその二つだけ売り切れだったのだ。昨日は家にいる時間が増えた恋人と喧嘩をしたばかりだし、最近何だかついてない。今朝のニュース番組での占いも、散々な結果だった。
 感染者の再増加、迫る都知事選、曇天が続く天気予報――そんな情報を締めくくるように提示された、かに座の最下位。喧嘩の翌日、久しぶりの出勤日、せめてこの占いくらいはとすがるような気分だった私は、小さな抵抗としてラッキーナンバーを記憶しながら家を出た。6。6ね。
 グラタンを温めるかという店員からの申し出を断りながら、午後に向けて気を引き締める。今日から四半期決算の作業が始まるのだ。年に何度かある、経理部としての繁忙期。ってつまり、月でさえ、ラッキーナンバーから変わってしまったということか。私はため息を吐く。
 それにしても、あのニュース番組の占い、かに座はいつも下位な気がする。自分の星座だからそう感じるだけだろうか。いや、それにしても――
「お客様」
 店員の声に、我に返る。
「レジ袋、おつけいたしますか?」
 そうだった。私は両手を見下ろす。レジ袋有料化、今日からだった。コロナ禍でエコバッグの使用を控える国も多い中決行、という論調のネットニュースが頭を過る。
 変わる日常。いちいち納得いかない国の動きにはうんざりだし、人間関係に歪みはできるし決算の数字を見るのも怖い。当たらないとわかっていても、占いコーナーの結果に頼りたくなる日は、ある。
「お願いします」
 三円で手に入れた袋を提げコンビニを出ると、少し先に、ゆっくりと歩く女性の姿があった。さっき、自分の前に会計をしていた人だ。その足取りはやはり危なっかしい。
 と、そのとき。「あっ」という声と共に、女性の陰から何かが落ちた。私は咄嗟に、それを拾いに行く。
「すみません」
 頭上から聞こえる声に「いいえー」と応えながら、私は拾得物を確認する。
 それは、レシートだった。
合計の欄には、666円の文字。
「ありがとうございます」
 私は立ち上がる。細い腕に幾つかの商品を抱えた女性が、申し訳なさそうに眉を下げている。
 そうか。私は彼女を見つめる。
 レジでわざわざ付け加えていた、「レシートはください」という言葉。その直前、迷いながらも、何かを断っていた様子。三円のレジ袋が追加されたら、壊れてしまうラッキーナンバーのゾロ目。
 当たらないとわかっていても、占いコーナーの結果に頼りたくなる日はある。レジ袋に入れたほうが持ち帰りやすい商品たちで両手が塞がっていたって、お守りがわりになりそうなものを摑みたくなる日。
「午後も、がんばりましょうね」
 あなたもそんな日だったんだね。続く言葉を呑み込んだとき、女性の眉がぱっと美しい山なりを描いた。
朝井リョウ(あさい・りょう)
1989年5月生まれ、岐阜県出身。2009年『桐島、部活やめるってよ』で第22回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。2013年『何者』で第148回直木賞を受賞。『世界地図の下書き』で第29回坪田譲治文学賞を受賞。他の著作に『世にも奇妙な君物語』『死にがいを求めて生きているの』『どうしても生きてる』など。
〈7月2日〉夢洲万博二〇二〇
                       

 夫に症状はないのにコロナ陽性の結果が出て、私は夫とソーシャル・ディスタンス生活になった。一級建築士の夫は、大阪の仕事場にこもってしまって寝たり起きたり、テレワーク三昧の毎日らしい。
「体調はどう?」豊洲のタワマン五十六階から私は訊く。
「世界は平和。何ごともない」彼はいつもそう言う。
「日本の未来は明るい。科学競争力は上がり、GDPはまた伸びるよ。万博プロムナードの大理石、鏡のようにぴかぴか」
「あらそう。もうそんなにできているの」
 アフター・コロナで、会場の設計が大きく変わったのは知っている。
「私たちの夫婦生活も、コロナで変わったわね」私は言った。
「通勤がなくなった会社みたい。前々から部屋で一緒にすごすことはなかったけど、今は食事も睡眠もお茶もお仕事も、完全に別々。顔を見るのはスカイプだけ。ヴァーチャル結婚ね」
 邪悪なウイルスが、哺乳生物の身体接触を消滅させた。
「これからの夫婦、みんなこんなになっていくのかな……」
 妊娠だって、精子を宅配便で送るのだろうか。こんな二十一世紀は、まったく予想しなかった。
 回線の不具合が起こったか、夫が以降同じ台詞を繰り返すようになったので、オフライン会見をすべく私は大阪に向かった。
 中一丁目の夫の仕事場に行ってみたら、そこにはまだ何もなく、古タイヤが積まれた汚い空き地だった。鏡のような敷石のプロムナードも、未来ビルもない。雑草もまばらな、土むき出しの埋め立て地。
 海べりに行ってみたら、細い堤防で囲まれた湿地帯があって、古い電化製品が大量に捨てられていた。その中に、見覚えのある夫のブルゾンの袖が見えたので、苦労して寄っていってガラクタをよけてみたら、夫らしい白骨死体があった。骨になった右手で、スマホをしっかりと握っていた。
 ああやっぱり死んでたんだ、私は思った。まあこんな夫婦生活なら、別段生きていても死んでいても同じだけれどね。
島田荘司(しまだ・そうじ)
1948年広島県福山市生まれ。武蔵野美術大学卒。1981年『占星術殺人事件』で衝撃のデビューを果たして以来、本書まで50作以上に登場する探偵・御手洗潔シリーズや、『光る鶴』などの吉敷竹史刑事シリーズで人気を博す。2009年、日本ミステリー文学大賞を受賞。また、「島田荘司選 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」や「講談社『ベテラン新人』発掘プロジェクト」の選考委員を務めるなど、新しい才能の発掘と育成にも尽力。日本の本格ミステリーの海外への翻訳、紹介にも積極的に取り組んでいる。

〈7月3日〉



 何ヵ月ぶりかの銀座である。いや、一度か二度、タクシーでさっと目的地まで行ったことはあるのだが、地下鉄を使い、四丁目をゆっくりと歩いたのは、本当に久しぶりだ。
 目的のビルがわからず、四丁目の交番でおまわりさんに聞いた。前は地図を見て探しあてるのが大好きだったのであるが、最近はカンが鈍ってしまった。
 そして私はどこへ行ったのか。
 七月三日というのが、私に与えられた日である。嘘をつこうと思えばつけないこともない。カッコいいことを書こうと思えば、いくらでも出来る。が、真実をありのままに書くというのが、この企画の意図に違いない……。
 長々と書いたが、実は友人から紹介された肥満専門のクリニックを訪れたのである。
 昔から私は太り気味であったが、当時の写真を見ればどうということもない。ぽっちゃり程度である。それが六十をいくらか過ぎた頃から正真正銘のデブになり、何をやっても痩せなくなってしまった。しかも毎晩会食続き。坂をころげ落ちるように、体重を増やしていったのであるが、とどめをさしたのがこのコロナ自粛である。
 週に二回ほど行き、パーソナルトレーナーについていたジムも閉鎖になってしまった。お手伝いさんも時短になり、二時に帰る。私は毎日スーパーに行き、夕飯をつくった。野菜の多いメニューにし、ぬか床もつくる。それならば痩せそうなものであるが、夜は夫とワインを飲む。故郷のワイナリーを助けるために、甲州種のワインを何ケースも買ってあるのだ。ぐびぐび飲みながら、新しく加入したNETFLIXの「愛の不時着」を見たりする。至福のとき。
 書く仕事は山のようにあり、昼間はずっとうちにいて座りっぱなし、出るのはスーパーに行く時だけ。こうしている間に、体重はもう危険水域に達してしまったのである。
 しかも今年の人間ドックは「コロナが怖い」という理由でスルーしてしまった。
 あらためてそのクリニックで体重を測る。なんとコロナ前より四キロ増加! 血液も糖こそ高くないものの、コレステロールを指摘された。しばらく通うことになる。
 さまざまな数値にうちひしがれた私は、帰りに鳩居堂に寄り、美しい季節のハガキを二十枚購入。これでお中元のお礼を書こう。
林真理子(はやし・まりこ)
1954年山梨県生まれ。日本大学芸術学部卒業。1982年エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』が大ベストセラーに。1986年『最終便に間に合えば/京都まで』で第94回直木賞を受賞。1995年『白蓮れんれん』で第8回柴田錬三郎賞、1998年『みんなの秘密』で第32回吉川英治文学賞、『アスクレピオスの愛人』で第20回島清恋愛文学賞を受賞。2018年に紫綬褒章を受章。
〈7月4日〉名無しホテル


 外観は、小さなホテルのように見える。海べりの、古いペンションだった。
 人生の最後の時間を、ここでホテル経営をして過ごす、と友人は言った。大きな買物だとしても、友人の経済力からしたら、それほど難しいことではなかっただろう。
 妻と、息子をひとり連れて出戻ってきた娘の、三人がホテルスタッフというわけだった。娘は、調理師免許を持っているという。
 これから振舞われるのが、その娘の料理だった。二階に四室あり、一階はダイニングと居住区で、私は二階の端の部屋に泊ることになっている。
 ホテルには、まだ名がなかった。
 私と友人の会話は、ほとんどそれについてだった。洒落た名をつけたがっていたが、なにが洒落ているのかから、考えなければならないのだった。
「二月二日、というホテルがアフリカのある国にあった。フランス語だが」
「一風かわっているね。二月二日とは?」
「その国の、独立だか革命だかの、記念日だったよ。いや、建国かな」
「今日は、七月四日か。独立にも革命にも、関係はないな」
 海にむかったテラスに、食事が出てきた。これを、売り物にするつもりらしい。
 私は、料理を食い、酒を飲んだ。料理の味は、可もなく不可もないというものだった。
 私はここへ、何度か来て泊るだろう。それが間遠になり、やがて忘れて、年賀状を交換するぐらいの仲になる。齢を重ねるというのは、そういうことだった。自分以外のことは、どうでもよくなる。
 暗い海を眺めながら、友人と食後酒を飲んだ。食後酒の種類が、友人がこの仕事にかける意気込みを表わしていた。あとは、古い建物に手を入れただけだ。
「ホテル・バイ・ザ・シー。駄目か。ホテル夕凪。ありふれているな」
 友人は、若いころと較べると、すっかり酒が弱くなった。何度も欠伸をした友人が、おやすみを言って建物の中に戻った。
 残されたグラッパの瓶から、私はグラスになみなみと注いだ。半分ほど飲み、グラスを持ったまま、海の方へ行った。
 眼の前は磯であるが、海に突き出した岸壁があった。明りはないが、少しだけ岸壁を歩いた。穏やかだが小さな波はあり、それが岸壁に当たるところが、青白く光っていた。
「ホテル夜光虫」
 私は酔った声で、海にむかって言った。
 それから首を振り、持っていたグラスのグラッパを飲み干した。
 ふり返ると、闇の中に建物が浮かびあがっていた。
北方謙三(きたかた・けんぞう)
1947年佐賀県唐津市生まれ。中央大学法学部卒。’70年『明るい街へ』でデビュー。’81年『弔鐘はるかなり』でハードボイルド小説に新境地を開く。『眠りなき夜』で日本冒険小説協会大賞、吉川英治文学新人賞、『渇きの街』で日本推理作家協会賞を受賞。近年は歴史小説での活躍が目覚ましく、『破軍の星』で柴田錬三郎賞、『楊家将』で吉川英治文学賞、『水滸伝』全19巻で司馬遼太郎賞を受賞。日本ミステリー文学大賞、菊池寛賞も受賞。『水滸伝』『楊令伝』『岳飛伝』完結後、モンゴルを舞台に『チンギス紀』に力を注ぐ。
〈7月5日〉スクランブルの朝


 そのホテルのレストランの窓からは、隣接する公園の緑の木立ちがよく見えた。
 朝食のメニューはいつもきまっている。トマトジュースにヨーグルト。スクランブルエッグかオムレツかは選択だ。1ミリほどの厚さのハムと野菜の葉っぱがお義理のようにそえてある。トーストかクロワッサン、それにコーヒー。
 レストランにはほかに客の姿はない。そもそも宿泊客がほとんどいないらしいのだ。新型コロナウィルスの蔓延とともに、ホテル業界は休業するところもふえているという。
 彼は二日前からそのホテルに滞在していた。明日は仕事を終えてチェックアウトしなければならない。なにしろ自費で宿泊しているのだから。
 彼は流行作家である。出版界での評価はともかく、自分ではそう思っている。実際に今もこうして執筆のためにAクラスのシティ・ホテルに宿泊しているのだ。
 彼は少し柔らかすぎるスクランブルエッグを口に運びながら、新聞を拡げた。コロナのパンデミックはとどまるところを知らない。ブラジルとインドがじわじわと感染ランクの上位に迫りつつある。
 朝刊の社会面に大きく扱われている記事が彼の注意を引いた。有名な交響楽団が無聴衆のコンサートを催す、というニュースである。ほかにもその手の記事があちこちに出ている。
 プロ野球も無観客試合を決行するらしい。無観客で舞台を上演する小劇団の話題もある。人気のあるロックのグループが聴衆を入れないステージを決行するという記事もあった。
「演奏することに意義があるのです。やらずにいられないからやるんだ」
 と、バンドのリーダーは語っていた。
〈無観客公演〉、という言葉が彼の心を刺戟した。流行作家たるもの、常に流行に敏感でなくてはならない。
 彼は食事を中断し、朝刊を置いて考えこんだ。無観客公演。無聴衆演奏。無観客試合。そうだ。ここにこそコロナ時代のカルチュアの姿があるのではないか。体がカッと熱くなるのを感じた。
 彼はガラケーをとりだした。小説雑誌の担当編集者を呼びだすと、相手はすぐに出た。彼は意気ごんで言った。
「いま、すごいアイデアが浮かんだんだよ」
「ほう。どんなアイデアですか」
「小説も時代に敏感でなければならない。わかるね」
「わかりますけど」
「音楽も、演劇も、スポーツもそうだ。コロナ時代の表現のキーワードは、なんだと思う?」
「さあ、なんでしょう」
「無観客、無聴衆。これだ。表現すること自体が重要なんだよ。小説の世界も時代に即応すべきだ。そうでなくては現代のカルチュアからとり残されてしまう。そこで考えた」
「ほう」
「無読者小説。読者を想定しない純粋な創作だ。書くこと自体が目的で──」
「コロナに感染したんじゃないでしょうね。締切りは明日です。ギリギリですから」
 電話はむこうから切れた。
 言われてみればトマトジュースの味がしない。少し熱もあるようだ。軽い頭痛もする。彼は目を凝らして窓の外を眺めた。公園の緑の木立ちが悪意を示すかのように揺れている。

五木寛之(いつき・ひろゆき)
1932年福岡県生まれ。戦後朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。’66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、‘67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、’76年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。‘81年から龍谷大学の聴講生となり仏教史を学ぶ。ニューヨークで発売された『TARIKI』は’01年度「BOOK OF THE YEAR」(スピリチュアル部門銅賞)に選ばれた。また‘02年度第50回菊池寛賞、’09年、NHK放送文化賞、‘10年、長編小説『親鸞』で第64回毎日出版文化賞特別賞を受賞。主な著書に『戒厳令の夜』『ステッセルのピアノ』『風の王国』『親鸞』(三部作)『大河の一滴』『下山の思想』など。
〈7月6日〉父のように


 心臓も前立腺も悪い父は、台湾と日本の両方で治療を受けている。その父が台湾へ帰省していた四月に、例の緊急事態宣言が出された。
 あれよあれよという間に日本と台湾の定期航空便はキャンセルが相次ぎ、ぱったりと往来が途絶えて早や三ヵ月が経とうとしている。母にしてみればこれほどの長期間、父と離れて暮らすのは前代未聞のことだ。父の身を案じて一日も早く台湾へ帰りたいと愚痴るのだが、飛行機が飛ばないのだから誰にもどうすることもできない。牽牛と織女でさえ、明日の逢瀬は諦めているはずだ。いっぽうの父はじつにさばさばしたもので、たまに国際電話をかけてきては、たとえこれが今生の別れになったとしても嘆き悲しむことはないなどといているそうだ。
 台湾で暮らしていたガキの時分から、私は死というものが恐ろしくてならなかった。そのせいかよく周りの大人たちをせっついて、戦争の話や『』に出てくる怪談話をしてもらった。たぶん子供なりに少しでも彼岸のことを理解したかったのだと思う。大人たちはこう言って幼い私を慰めた。死ぬことなんか怖くもなんともない、閻魔大王に呼ばれたら行くしかないし、良い子にしていれば怖いことなんかなにもない。
 私の見るところ、私の上の世代の大人たちは誰一人として死を恐れているふうではなかった。いくつもの戦争を戦った豪放磊落な祖父が死など恐れるに足らずと言うのなら話はわかる。ヤクザ気質の伯父が死を笑い飛ばすのも理解できる。だけど一生学問と詩にかまけてきた父でさえ、そう思っているふしがあるのだ。いつお呼びがかかってもおかしくないのに、今日はなにをしていたのと母に尋ねられれば、テレビで映画を三本観たと言ってあっけらかんとしている。
 小説を書いていてうしろめたくなるのは、自分の言葉を自分自身が本当に信じているのかどうか確信が持てなくなるときだ。証明することを求められない言葉たちは、やはりどこかうつむき加減なのだ。百害あって一利なしと言うけれど、私にとってはこのコロナの時代にもちゃんと一利はあった。少なくとも、死に対する父の真の態度を垣間見ることができたのだから。父が冗談交じりで母に言ったことがたとえ現実になったとしても、父はやはり肩をすくめてこう言うだろう。你又能怎麼様(どうしようもないだろ)?
 やすやすと試練を乗り越えていく言葉に出会ったとき、私はいつでも慰められる。思うに、やり残したことがどれだけあるかなのだ。私には息子がふたりいるが、彼らがすっかり自立した暁には、私もやっと父のように死に対しておおらかになれるのかもしれない。
東山彰良(ひがしやま・あきら)
1968年台湾生まれ。5歳まで台北で過ごし、9歳の時に日本へ。2002年「タード・オン・ザ・ラン」で第1回「このミステリーがすごい!」大賞銀賞・読者賞を受賞。2003年、同作を改題した『逃亡作法TURD ON THE RUN』で作家デビュー。2009年『路傍』で第11回大藪春彦賞受賞。2013年刊行の『ブラックライダー』が「このミステリーがすごい!2014」第3位。2015年『流』で第153回直木賞、2016年『罪の終わり』で第11回中央公論文芸賞、2017年刊行の『僕が殺した人と僕を殺した人』で第34回織田作之助賞、第69回読売文学賞、第3回渡辺淳一文学賞を受賞。
〈7月7日〉一


 想像するに、作家の娘、息子に生まれるというのは、いか、悪いか、と考えると、私は悪いのでは、と思う。断定した言い方がよくないのなら、表現を少しやわらげて、〝が悪い〟のではないか。
 あれは、四、五年前になるだろうか、東京の三崎町にある鮨屋で、娘と待ち合わせた。一年に一、二回(まったく会わない年もあるが)私たち親子は会うようになった。彼女が中学生になる年まで、私は赤児の彼女と会ったきりで、普通の父娘のように会うことはなかった。私と彼女の母親が離婚をしたこともあるが、二十歳から三十歳くらいまで、私はひどくいた生き方しかできなかった。しで言えば、悪い父親だったかもしれない。
「やあ、元気かい?」
「はい。元気です。(と呼ぶ)の方は?」
「私は相変わらずだ」
「それは何よりです」
 特別な話はしないで、二時間の内に鮨屋とバーのカウンターに並んで座り、じゃあ、と言って別れる。それだけの間柄である。
 話がれた。その三崎町の鮨屋で会った夕、彼女が、唐突に言った。
「今日は、万倍日だったんですよ」
「何ですか、それは。いちりゅう……。バレンタインとか、ヒナ祭りのようなものですか?」
「どちらも似てないけど、ヒナ祭りは遠くはないかな」
「もう一度言ってくれますか?」
「いちりゅうまんばいび」
 彼女は鮨屋の箸入れの小紙に〝一粒万倍日〟と書いた。
「何か、物事をはじめるにはいい日なんですって」
「何かはじめたの?」
「はい、新しい小説を書こう、って、嘘ですけどね。まあ、これまでいろんなことを試しましたが、そんなことで小説は書けませんよ」
「そう、大変だね」
「その大変を、父は三十年もやってるんでしょう。感心することもありますよ」
「私は、大変だと思ったことは一度もありません。いや、本当なんですよ、これは。でもイイ加減にやってるってことでもないんですよ」
「わかりますよ。それだけの執筆量ですもの」
「いや、私は〝質より量〟ですから……」
「いやいや、ご謙遜を……」
私は、その夜、彼女が立ち去った後、バーのカウンターに置いてけぼりの鮨屋の箸入れの紙を開き、しばらくその文字を眺め、立ち上がり、小紙をポケットに入れてホテルにむかった。路地を歩きながら、四角の夜空を見上げ、星がない夏の夜空を見つめて言った。
「なんだ、また今年の七夕も曇りじゃねぇか」
 舌打ちをして、歩き出すと、三崎町の夜風は妙に生あたたかかった。私はポケットから煙草を出して吸った。今はもう吸ってない。だから、これは昔話なのである。

 *一粒万倍日=一粒の籾が何倍も豊かに実って人々を救うことから、一粒の種を植えて豊穣の時を迎えるために、その種を植える日に幸運が宿りますように、という思いから起こった一年の中の佳い日を選定した行事。
伊集院 静(いじゅういん・しずか)
1950年山口県防府市生まれ。1972年立教大学文学部卒業。1981年短編小説「皐月」でデビュー。1991年『乳房』で第12回吉川英治文学新人賞、1992年『受け月』で第107回直木賞、1994年『機関車先生』で第7回柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞、2014年『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』で第18回司馬遼太郎賞をそれぞれ受賞。2016年紫綬褒章を受章。

〈7月8日〉



 七夕の笹を分けて貰った礼を口実に友人宅を訪ねると、友人は顔も上げず挨拶もせずに冴えない顔色だが発熱しているのじゃなかろうなと悪態を吐いた。冴えぬ顔は平素のことだと云うと、その点は同意するが伝染されるのは御免だと友は返す。見れば古文書を読んでいる。古本の師匠とやらに譲り受けた新選組関係者の私的な記録らしい。
「丁度文久二年の七月に差し掛かったところでね」
 何でも、その年も流行病が蔓延していたと云う。
「その描写たるや酸鼻を極めている。棺桶作りが間に合わんと書いてある」
 江戸だけで七万人からが死んだと云うから強ち誇張でもないらしい。
「だがそれはコレラ病だろう。今流行しているのはコレラじゃない。比較は無駄だ」
「先行して麻疹も流行していたのだ。まあ東京は水捌けが悪い土地柄だし、長屋など井戸も廁も共同だ。劣悪な環境さ。夏場は余計に不潔になる。凡そ衛生的とは云い難いからな」
「文明開化前の話だろう。今は栓を捻れば蛇口から水が出る時代だぜ」
 君は西班牙風邪を知らんのかと友人は云う。
「流行は大正時代だ。文明開化は疾うに済んでいるが、三十五万人も亡くなっている。風邪と謂うが、あれもインフルエンザだ」
「そうかもしれんがね。今は医療も進歩している。当時は抗生物質もなかった時代だろ」
 変わらないよと友人は云った。
「インフルエンザ対策実施要領は昭和二十九年作成だが、今回役に立ったかね。コレラだって安政五年にも文政五年にも大流行しているが、記録を覧る限りどんどん酷くなっている。学習しないのだ。細菌でさえ手に負えないのに、ヴィールスだぜ。薬を作ったって鼬ごっこだ。感染者の隔離と消毒くらいしか拡大を防ぐ術はないし、そりゃ百年前から変わらない。同じことを謂ってるんだ、ずっと。医者が疲弊し貧乏人から死んで行く。江戸の頃からそうなのさ。国は疫鬼を防げない」
 御祓いでもしろと皮肉を云うと、その方がましだと友は憎憎しげに云った。
「目に見えない脅威は可視化した途端に攻撃対象に置き換わるのだ。穢が憎悪になる。だが、感染者や感染源、況て医療に従事する人達までを穢として扱うような愚行だけは絶対にしてはいかんよ。隔離は感染防止のためで、それ以外の意味はない」
 それはそうだなあと私は気のない返事をする。話したいことは他にある。
「穢を祓うのは本来時の為政者の仕事だよ。政とはそう云うものだ。勿論論理的で実用的な施策を立て迅速に実行するのは大前提だが、こういう時に大事なのは信用さ。災厄を祓うためには絶対的な信用が必要だ。ところがこの国では伝統的に為政者が信用されてないんだよなあ。まあ」
 反体制の権化のような君に云うことじゃないがなあと友は云う。
「あの震災の時でさえ庶民は半ば自力で立ち直ったようなものだ。妄信すると戦争を始めたりするから政策は逐一疑うべきだが、こんな時くらい安心させてくれても罰は当るまい。今日だって多摩の方で米軍基地拡張反対運動かなんかをやっている。キナ臭くなる一方でちいとも安心させてくれない」
「君は悠然として見えるがな。そもそも座敷から出ないじゃないか」
「君のような迂闊な男が訪ねて来るじゃないか。江戸のコレラも大正の西班牙風邪も第二波の方が死亡者が多かったのだ。伝染病は人の移動で広がるんだ。江戸の頃と今じゃあ移動距離も範囲も段違いだ。移動時間も飛躍的に短い。甘くみちゃあいけない」
「甘くみてはいないよ。いや、だから僕は、亜細亜風邪の話じゃなくてだな」
「判ってるよ。君は一昨日の谷中の五重塔焼失事件の話がしたくて来たのだろう」
 そこで京極堂はやっと私に顔を向けた。その日、昭和三十二年七月八日が事件の

 ここまで書いたところで日付が変わった。
京極夏彦(きょうごく・なつひこ)
1963年生まれ(北海道小樽市出身)。日本推理作家協会第15代代表理事。世界妖怪協会・お化け友の会代表代行。1994年『姑獲鳥の夏』でデビュー。1996年『魍魎の匣』で第49回日本推理作家協会賞長編部門受賞。1997年『嗤う伊右衛門』で第25回泉鏡花文学賞受賞。2000年第8回桑沢賞受賞。2003年『覘き小平次』で第l6回山本周五郎賞受賞。2004年『後巷説百物語』で第130回直木三十五賞受賞。2011年『西巷説百物語』で第24回柴田錬三郎賞受賞。2016年遠野文化賞受賞。2019年埼玉文化賞受賞。 
〈7月9日〉みんなの顔を


 朝、目が覚めるとカーテンの隙間から薄日が差していた。ベッドから身体を起こし、テーブルに置いた腕時計を見ると午前七時を過ぎていたので、体温計を腋に挟んだ。間もなく、ピピッと電子音が鳴る。今の体温計は本当に計測時間が短い。
 『37.5』という数字を見て、がっかりする。
 朝食後、担当の医師が入ってきた。ブルーの防護服に身を包み、マスクとゴーグルを付け、ビニールの帽子を被っている。この医師の素顔を見る日は来るのだろうか。
「残念ながら、昨日の検査結果も陽性でした」
 申し訳なさそうにいった医師の言葉に、私は肩を落とした。「そうでしたか……」
 医師は、私が紙に書き込んだ体温の数値をちらりと見てから、「では、今日もいいですか」と細長い棒を手にいった。その棒の名称は知らない。紙縒り、と心の中で呼んでいる。
「はい、お願いします」私は上を向いた。
 医師は紙縒りを鼻の穴に突っ込んできた。喉の奥にまで達しているんじゃないかと思うほど深々と刺され、おまけにぐりぐりとかき混ぜられる感覚だ。痛くて辛くて涙が出そうになる。何度やっても慣れない。
 ではまた明日、といって医師は出ていった。部屋を出る前に、防護服やらマスクやらをすべて段ボール箱に捨てていった。たったこれだけのために毎回使い捨てだ。
 私は祈る。明日こそ良い結果が出ますように。『陰性』になっていますように。
 妻が感染症の検査で陽性判定を受けたのは二十日ほど前だ。職場で感染したらしい。
 彼女が入院した翌日、私も検査を受けるよう保健所から連絡があった。毎日顔を合わせているから濃厚接触者というわけだ。
 まずいなと思いつつ受けてみたら、案の定、陽性だった。その翌日から、この病室にいる。完全隔離で家族にも友人にも会えなくなった。
 感染症の自覚症状はない。咳は出ないし、息苦しさもない。
 ただし体温は高い。しかし私の場合、そんなには気にならない。妻の感染がわからなければ、たぶん検査を受けることはなかっただろう。
 通常、無症状ならば十日で退院できる。症状が出た人でも、快復後に二度続けて検査結果が陰性になるか、発症から十日が経過し、尚且つ快復後から七十二時間が経っていれば退院してよいとされている。
 私の場合、すでに入院から十日以上が経っており、自分では快復していると思っている。だが微熱がネックになっていた。平熱に戻らないかぎり、快復とはいえないのだ。この熱が感染症によるものでないと証明するには、検査で陰性という結果を得る必要がある。
 ところがどうしたわけか、なかなかそうならなかった。連日検査を受けるのだが、ことごとく結果は陽性だ。熱も下がらず、したがって退院できない。
 早々に退院している妻にメールを出すのは日課だ。文面はずっと同じ。『今回の結果も陽性でした』、だ。
 すぐに妻から電話がかかってきた。「残念だったわね。体調はどう?」
「ぼちぼちだ。相変わらず熱は少しあるけどな。今日も検査した」
 そう、と妻は短く返事した。励ましの言葉など、虚しいだけだとわかっているのだろう。
 だが翌朝、医師が大股で入ってくるのを見て、いい予感がした。マスクで見えないが、笑っているような気がしたのだ。
「陰性でした」待望の言葉だ。抑えた口調ではあったが、声に力強さがあった。
 ありがとうございます、と私は頭を下げていた。大きなご褒美を貰った気分だった。
 では早速、と医師が紙縒りを構えた。はい、と私は忠実な犬のように顎を上げた。
 次の日、無事に二度目の陰性判定を得た。夕方、病院まで迎えに来てくれた妻は、私を見て涙を浮かべた。私も胸が熱くなった。人目がなければ抱き合っていたかもしれない。
 タクシーで自宅に帰った。長年住み慣れた古い日本家屋だ。ようやく帰ってこられた。ところが玄関で靴を脱ぎ、一歩足を踏み出したところで、ふっと意識が遠のいた。
 お爺ちゃん、お爺ちゃん──聞き覚えのある声で目が覚めた。
 気づくと布団の上だった。「あっ、気がついたみたい」妻の声がいった。
 ぼんやりとしていた視界が、少しずつはっきりしてきた。妻と娘夫妻、そして孫娘の顔が並んでいた。
「おう、みんなか」弱々しい声を出すのが精一杯だった。
「お爺ちゃん、退院おめでとう」小学校二年になった孫娘がいった。
「うん、ありがとう。みんなの顔を見られてよかった」
 これでいつでも死ねる、と思った。
 末期がんと宣告されて半年、自宅療養中の身だった。八十歳を過ぎているし、特に思い残すことはなかったが、死ぬ時には家族たちと一緒にいたかった。
 私は布団から出した手を妻のほうに伸ばした。彼女は泣き顔になり、「病気をうつしてごめんなさい」といって手を握ってきた。
 私はかぶりを振り、笑った。献身的に看病してくれた彼女に落ち度などない。
「手を握ったらいけないって先生がいってたよ」孫娘が口を尖らせた。
「いいんだよ」私は笑いかけた。愛する家族の手も握れずに、何が新しい生活様式だ。
 強烈な眠気が襲ってきた。消えゆく意識の中で、これで葬式でも最後の別れをしてもらえるな、と思った。
東野圭吾(ひがしの・けいご)
1958年、大阪府生まれ。大阪府立大学卒業。1985年『放課後』で江戸川乱歩賞を受賞しデビュー。1999年『秘密』で日本推理作家協会賞、2006年『容疑者Xの献身』で直木賞、本格ミステリ大賞、2012年『ナミヤ雑貨店の奇蹟』で中央公論文芸賞、2013年『夢幻花』で柴田錬三郎賞、2014年『祈りの幕が下りる時』で吉川英治文学賞を受賞。2019年、海外を含む出版界への貢献により、野間出版文化賞を受賞。最新刊は『クスノキの番人』。
漫画版Day to Dayはこちら

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色