『内なる町から来た話』ショーン・タン/人類の時間、動物の時間(千葉集)

文字数 1,619文字

今週の『読書標識』、木曜更新担当はライターの千葉集さんです。

『内なる町から来た話』(河出書房新社)について語ってくれました。

書き手:千葉集

作家。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

ビルの八十七階にワニ。教室にヒツジ。空港にワシ。法廷にクマ。街に巨大カタツムリ。会議室にカエル。高速道路にサイ。工場にヤク。寝室にキツネ。病室に白いフクロウ。側溝にあなたとよく似た肺魚。川の向こうにイヌ。そして、空には宝石のような魚たち。


『内なる町から来た話』に出てくる動物たちは、その出自を語りません。寡黙に、しのびやかに、いつのまにか、そこに居る。


『アライバル』などで絵本作家として知られるショーン・タンですが、比較的文字でのストーリーテリングに比重を置いた本短編集でも「越境」「異なるものとの邂逅」といった作家的テーマは一貫しています。動物という、われわれにとって見慣れてはいるのに隣り合うことには慣れていないモチーフを据えたことで、より鮮明に表れている趣さえある。


たとえば冒頭に置かれたワニの話。


とある高層ビルの八十七階にワニのフロアがあって、そこにワニが住んでいる。しかし、別フロアで忙しなく働いている人間たちは誰も意に介さないし、その存在に言及しさえしない。ワニの側もまた人間を気にしない。そんな状況が語り手である「僕」に思考や洞察を促します。


このワニのエピソードは、本短編集における、一種チュートリアル的な物語です。


ワニはふつう、ビルには棲まないものとされています。


だから、そこに在ること自体が人類に対する問いになる。読者に対する問いかけになる。ビルも教室も空港も法廷も「わたしたちだけの場所」のはずなのに、なぜ「かれら」がそこにいるのか? なぜ「わたしたち」と「かれら」は、「わたしたち」と「かれら」なのか? 


疑問をぶつけても、動物は泰然として答えてはくれません。わたしたちは自分たちの問いに自分たちで答えるしかない。


結果的に、本短編集を通して浮き上がってくるのはわたしたち人間の在り方です。


思うに「わたしたちだけの場所」に動物たちが出没して落ち着かない心地になるのは、わたしたちと動物たちとで流れる時間が異なるからでしょう。


自分の人生のみに汲々とする人類の時間に均された建物に、悠久の時間をまとった動物たちが現れる。人類の時間に飼いならされた動物園の動物たちとはわけが違います。本物の他者です。かれらを前にすると、なんとなく、うしろめたさを感じてしまう。


そのうしろめたさを饒舌に言葉に乗せずにはいられない。それこそがショーン・タンの暴く人間という動物の本性です。


そして、その語りを成り立たせているイラストも外せません。


姉妹編とされる『遠い町から来た話』では具体的なストーリーテリングにつながる挿絵がふんだんに使用されており、話によってはほとんど絵本の形式に近いものもあったのですが、『内なる町から来た話』ではわりに抑制されていて、(一部のお話を除き)基本的に一篇につき一枚、劇中のワンシーンを切り取っているようでありつつも抽象的な絵が付せられるだけです。


しかし、そのイメージがとにかく鮮烈。強力に、ぐい、と別の世界へひっぱりあげてくれます。ひきあげられた先の景色はありもので出来ているはずなのに、どことも似ていません。


あちらとこちらを隔てる膜を文字によって切り裂き、その境を絵によって越える。そうして、あなたの町もみずみずしい未視感で塗り替えられていきます。

『内なる町から来た話』ショーン・タン/岸本佐知子訳(河出書房新社)

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