崔実『pray human』 試し読み

文字数 16,023文字

群像新人文学賞からデビューした超大型新人、崔実(チェ・シル)。4年ぶり待望の最新作『pray human』が、9月28日に発売されます! 主人公のわたしが17歳のとき精神病棟で出会った「君」へ、10年後に語り始めた真実の物語とは――。

『pray human』


第一章

 君、わたしはとうとう誰とも口を利かなくなってしまった。下手に返答したり、空笑いなんかすると相手は大抵話し続けてしまうから、うん、そうね、ああ、そりゃ良かったね、なんてことも言わない。時折、首を左に捻ったり、右に捻ったり、両眉を持ち上げたりするだけ。ひどい頭痛がするんだ、ごくたまにそう言い訳をする。
 わたしが口を開くとき、それは息を吸い込むときだ。直前にくらっと眩暈がして倒れそうになるから、いつも慌てて口を開いて呼吸をする。しばらくずっとそのまま。なに、よだれが垂れたら拭けばいい。馬鹿みたいな顔をしないで、と文句を付ける人はいない。わたしは長いこと一人でいるし、呼吸の仕方も忘れてしまった、ただそれだけだ。
 しかし、本当に何もかも忘れてしまったみたいだ。医者も似たようなことを言っていた。どうも最近、無呼吸の人間が増えている、と。我々が進化しようとしている訳じゃないらしい。とっても悪いことのように言っていたから。けれども、わたしの脳みそは常に活動している。存分に活用していなくても、脳みその存在は感じる。水分をたらふく含んで破裂しそうさ。ああとても厄介だ。机にコップを置くときなど、音がやたらと響くようになった。特に、ガラスの天板やステンレスのキッチン台なんて最悪だ。アルミ製の物からも、なるべく遠ざかるようになった。でも、下手に意識しすぎたせいで、今じゃ銀色のものを一目見ただけで死にたくなってしまう。銀色のものが傍にあると、鐘の中に押し込められたみたいに頭蓋骨を叩き割るような頭痛に襲われる。わたしは両手で耳を塞いで、びくびくうずくまる。ああ脳みそをえぐりだしてくれ! わたしは泣く。レクター博士にくれてやる! どうか食べてしまってくれ。それとも、わたしの脳みそは美味しくないだろうか。自信がなくなる。君、わたしはもしかしたらまた近いうち、精神病院に戻るかもしれないよ。

 一体なんでこんなことになってしまったのか、よく考えるようになった。でも、胸の内じゃ、本当は解っている。ただ上手く事物をまとめられなくて困惑しているだけなんだ。赤ん坊みたいに感情ばかりが溢れて、言葉が見つけられなくて、じたばたしているだけなんだ。吐き出せ、声を持て、この屑め、と自分にそう詰め寄り、尻を叩き、責め立てさえしなければ、とても穏やかに、とても楽にやっているはずだよ。
 わたしは相変わらず全ての事物を反芻して生きている。まったくお手上げなんだ。参った。いつまでも自分の尻尾を追いかけて、ぐるぐる回っているんだ。そのことに全然気付かずにいたんだから、人間の習性やら習慣ってやつは侮れない。もう骨の髄まで染みついてしまっている。二度と同じことはすまいと誓っても、積み重ねた己の本能の方がどうしても勝ってしまう。わたしは永遠に自分自身の奴隷だ。首の縄は一生外れないだろう。わたしが意気地なしだからさ。自然と馴染みのある香りの方へ向かってしまう。この森から抜け出す手はどうやら無さそうだ、そう一日に十回は考える。
「同じ場所にいるようでも、少しずつ階段を上がっている。きっと俯いてばかりで、周りの景色やなんかを気に留めずにいたから、一段、また一段と歩を進めていたことに気付かずにいただけよ」
 君がまたそう言い出したら、わたしはまた君に枕を投げつけてやる。
「わたしは、そんな話がしたいんじゃない!」
 と。今も酔っているのだろうか。自分のつまらない苦労やなんかにさ。少しばかり酔っている時期かもしれない。じゃなきゃ、やっていけないときがある。君なら解ってくれるだろう? 他の人より少々特別な苦労を課せられた、そんな追想に耽る時間もちょっとはないと十代を生き延びて二十歳になることはひどく困難だったし、いつの間にか三十になり、あっという間に四十を迎えることも難しそうなんだ。そんな時期が季節のように廻ってくる。

 精神病院では、よく担当医に過去をほじくり返されたね。連中はそれが正しいことだと習った法に従い、頑固にわたしたちに押し付けた。だからってわけじゃないかもしれないけど、わたしは同じことを自分にやっていたんだ。頭の中で過去二十七年間を百回以上は生きた。さすがにへとへとだ。体力は歴然と低下したし、食欲不振にもなった。お茶を飲むのすらやっとなんだ。体重もみるみる落ちていく。鏡に映る女はいかにも不健康で肌もくすんでいる。眼の下は黒く、しわだらけで生気がない。死んだも同然の顔をしている。こうして君と話している時間だけが、まだ生きていると教えてくれる。
 この二年間は、特に悲惨だった。まさに最後にして頂点に立ったといえる。いや、最後だなんて言い方は好ましくない。しかし、それくらい力を失ってしまった。大丈夫、自殺してやろうって魂胆は微塵もない。わたしには、そんな立派なことをしでかすほどの選び抜かれた苦労はない。そのことも苦しいほど理解している。もう、死にそうなほどに。
 わざわざこんな突拍子もない御託をどうして並べているのか、君は首を右に傾げているかもしれないね。君はいつも右に頭を傾ける。それで目が点なんだ。絵に描いたような光景だった。ああとても懐かしい! 君の瞳はいつだって若々しく光り、妖艶な魅力を秘めていた。わたしは君といる時間が大好きだった。あれから十年も経ったのだ。
 まだ散歩に出掛ける気力が残っていたときのこと─名も知らない川を眺めながら、ゆらゆらと流されるように歩いていると、この時期では大変珍しく太陽が顔を出した。ほんの僅かな時間だったけど、雲が空から忽然と姿を消していた。そのとき、川の水面に反射した眩い陽光を見て、君の瞳を思い出した。きらきらと白く輝く水面を見詰めているうちに、君がこちらを見詰め返している気がした。それも、とびっきりの笑みを浮かべて。それから病棟で初めて君と目が合ったときのことも思い出した。君は、大袈裟ね、と笑うだろうけど、まさに暗闇に一点の光が射した瞬間だったんだ。周囲一帯の空気がひどく柔らかく感じられた。君が春の訪れのような不思議な人だったからさ。わたしは頭の中が真っ白になった。尻込みしてしまうほど恐ろしく、ひどい期待に満ちていた。
 君はよりによってあの病棟で、その豊かな心とも命知らずともいえる無用心ぶりを大いに発揮して、来る者を拒まず、両腕で迎え入れた。いつしかわたしも君の傍で心を温めるようになった。けれど、わたしは空っぽで何ひとつ差し出せるものがなかった。君は二十二歳で、わたしは十七歳だった。同じ病室になって、もしや君と深い絆で結ばれてしまうのでは、と不安に思った晩があった。今日と同じような六月の曇り空の日さ。烈しい胸騒ぎがし、荒々しい心音で鼓膜が破裂してしまいそうだった。わたしたちは親友になった。そうだろう? 君も、わたしから完全に離れることは出来ないはずだ。会っていなくても解るんだ。わたしは、君との友情に一切の疑いがない。正直、他の人といると自信喪失する。誰だって普通はそうだ。わたしほど君の魅力を知っている人はいないだろう。だからわたしの言葉は用心して聞いた方がいい。まるでイエス・キリスト様の御言葉のようにさ。だってね、君、わたしの君に対する称賛は真実だからさ。そして君は真実を嫌った。君って人は、自分が美しい人間であるという真実を特に嫌う人だった。
 君も知っての通り、わたしは調子のいい人間だ。いつしか羽を伸ばし過ぎて、君を怒らせた日もあった。君には、どうも子が母親に感じる愛情と似たものを感じた。絶対的な愛、そんなものが君にはあった。君の哀しい過去がそうさせていたのだ。その固い愛に甘えて、わたしはきゃっきゃっとよく悪戯を仕掛けた。また君を怒らせると解っていながら。病棟で塞ぎ込んでいたわたしを救ってくれたのは担当医ではなかった。外へ出てみようかとほのかな希望を抱いて小窓から太陽をこっそり覗く勇気を持てたのも、すべて君がいたからだ。今すぐ君に会って実際に礼を伝えたい。でも、まずはなんといっても先を急がず、こうして落ち着いて話をするべきだろう。今は、それがなによりも大事なことだから。

 勿論、安城さんのことを覚えているね? あの我が物顔でみんなの部屋を行ったり来たり、人の私物をなめまわすように品定めして何気ない素振りで手に取り、ぽいっと投げる、やれ、テレビのリモコンの位置が変わっただの、ソファにカビが生えているだのと騒ぎ立て、とにかく病棟を仕切りたがった人だ。
「この九年間、そのファイルは一番左端の、上から二番目に置いてんのよ」
 と遂にはナース・ステーションのファイリングにまで口を挟んでいた。
 安城さんはいずれ医院長になる、と患者たちが噂を始めたものだから看護師や補助員も相当参っていた。他の患者の部屋に勝手に入り浸って話し込まないように、と主任が警告をしても、安城さんはまったくの無視で、自分は優秀な精神科医だと言い張った。入退院を繰り返してすっかり病院に住み付いていたから、事実、何が病気で、何がただの性格かというのも他の患者より詳しかった。安城さんを頼りにする患者もごろごろいた。人の上、法の上に立っていないと我慢ならない人だった。
「安城さんはこの病棟で一番イカれている」
 そう川村に言ってみたことがある。ほら、動物園からペンギンを盗んだ大男だよ。黄ばんだ不揃いの歯でやらしい笑みを浮かべる、下品で好かない奴。
「お前は見る目のない能無しだ」
 と川村はすぐさま反論した。なんでもすぐに反論しないと気が済まない男だったじゃないか。で、川村はこう続けたんだ。
「彼女に限ってはまともだぜ。ちょっぴり休憩をしに来ているだけだからな」
 こいつには鳥肌が立った。川村が安城さんのことを親密そうに呼ぶからさ。しかし、やがて川村も前言撤回するほかない。
「攻撃的な態度は控えた方がいい」
 と少し注意をしただけで、安城さんは怒鳴り散らす始末だったのだ。彼女にとってわたしは所詮、精神病院の患者、ただの出来損ない、故障品、欠陥品、返品の利かない面倒な粗大ごみだ。わたしだけじゃない。人のことを虫けらにしか思っちゃいなかった。そして、誰も自分は虫けらなんかじゃないと言い返せなかった。事実、わたしたちは虫けらだったからさ。
 そういう意味合いにおいては、安城さんを心から尊敬していた。屑に、屑、と言える人はそういない。けど、彼女は反発しているようですっかり型にハマっていたのだと思うね。自分ではどうしようもないくらいにさ。安城さんが新患を─君をひどく毛嫌いしたのも、新たな空気感に順応できなかったからだ。
 このところ、わたしはまた言語能力を失ったように感情を表に出せなくなってしまった。苦しいのに、苦しい、というそのたった一言が喉元に突っかかった魚の小骨のように出てこない。ひどく生きづらい日々を送っているんだ。その分、解る気がするんだ。安城さんがあんな卑劣な行動に出た理由がさ。君は賛同しないかもしれないけど、わたしと安城さんはとてもよく似ている。わたしたちは感情のコントロールが利かない人間なんだ。故に、軽々と一線を越えられる性分でもある。人殺しだってやりかねない。実際、わたしは台所から母が愛用していた一番大きな包丁を抜き取って、人を殺そうとしたことがある。神に誓って噓じゃない。見栄や虚勢を張っているわけでもない。危うい。ひどく危うい。そんな人間なんだ。厄介なことに、そんなときに限って自分は冷静だと信じて疑わない。哀しみに打ちひしがれる心を置き去りにして街行く人々を傍観していると、自分は世界一冷静な人間だと信じ込んでしまう節がある。ある者は芸術に走り、ある者は自殺をし、ある者は人殺しをする。世間を驚愕させるような突発的な行為に身投げする瞬間、それは自分の正義を信じて疑わなくなったときだ。安城さんが君にひどい仕打ちをしたのも、そういうことだったのかもしれない。安城さんはついに激昂した。みんなはそう言った。安城さんは壊れてしまった、と。しかし実際は、安城さんが壊れたことなんてどうでもいいことだった。あのときは安城さんが死のうが仕方のないことだった。いや、誰が死のうと仕方なかった。
 自分の正気は疑うように努めているけど、君、いつまた忘れてしまうか解らない。哀しくなれば、何もかも忘れてしまうじゃないか。いつかまた無闇に人を傷付け、悔恨の念に駆られて命を絶とうとするかもしれない。不安でたまらないんだ。君、こんなことを言って心配にさせただろうか。わたしは仕様もない人間になった。

「アパートを借り切ろう」
 君はそう言い、拳をあげた。
「一緒に退院しよう。吉田ママも、須藤さんも、竹内さんも、それに山根さんも、みんな! 全員で同じアパートに引っ越すの!」
 わたしはてっきり君が冗談を言っているのだと思った。
「山根さんは退院出来ない組だったはずじゃ?」
 と少し意地悪をして、君をからかった。
「わたしたちが先に退院すれば大丈夫。行先があれば、問題ないもの。山根さんが壁を叩こうが叫ぼうが、わたしたちは気にしない。全員が外で生きられる」
 君は首を右へ傾けた。わたしが山根さんを特別に好いているのを君は知っていた。
「そんな空き部屋だらけのアパートなんか見つからないよ。見つかったとしても相当なもんだ。住めるわけないね」
「見つけるの。絶対に。無いって決め付けたら本当に無くなっちゃう。酷いアパートだったら直せばいい。だからお願い、一緒に退院しよう」
 君は真剣そのものだった。わたしはひどく肩身の狭い思いをした。正直、いずれ自分が退院するだろうことは解っていた。それに時間なんて問題じゃなかった。時間なんか捨ててやりたいくらいあった。でも、誰もが知っていた。山根さんやなんかは一生入院生活だ。二十四時間喚き叫んだり、壁を叩いたりするんだから。一体どこに住める? どうせまた通報されるに決まっている。須藤さんも例外ではない。夫や子供のところへ帰ったって、家族の堪忍袋の緒が切れるまでの期間だ。言うまでもなく、それが現実だった。でも、君は違った。君の瞳はまったく異なる未来を見ていた。君の傍にいると自分を戒めなければ、どうにも呼吸できそうにないときがあった。
 君のような純真な瞳を持つ人と会ったことがある。まだ少女だったけど、すでに立派な画家だった。画家はその瞳でまったく別の現実を捉えるようだ。わたしに見えるものが夜空に広がる美しい星々ならば、画家は宇宙全体を見渡し、ありとあらゆる生命、その息吹、死を感じられた。わたしの眼に映る世界が果てしなく混沌とした、不条理な世の中と人間の対立ならば、画家の眼は何を見てしまうか解らない。わたしは少女を哀れみ、ひどく不憫に思った。だから、君の願いが叶えばいいと心から祈ったのだ。
 しかし奇妙だった。当時、君はそのような瞳を持っていながら、友人の言葉より世の中の方が貴重で、随分と胸の内で世間というものを重宝していたように思う。ああ君の宝である世の中が羨ましくて、恨めしくて、憎たらしくて、わたしは世界中の悪口を言って聞かせた。世の中なんか、君の宝なんか、ろくなもんじゃない、と。あの閉鎖病棟の十畳ほどの病室で延々と罵詈雑言を浴びに浴びたせいで、世の中はより上品に愛おしくみえただろうか。そう思うと、長いことわたしは悔いていた。くだらない謗りなんか誰にも聞かせるべきじゃなかった。特に君のような、己の情熱の炎で自滅してしまう危うい心の持ち主には、世界がどれほど甘く愛おしいか、数学のように論じていたら良かったのだ。そうしたら、君は世の中なんかこれっぽちも大切にしなかったろう。きっと簡単に捨てたはずだよ。

 あの晩は赤みがかった不思議な満月だった。まるで人知を超えた不可思議な力がわたしたちに働きかけているような。そのせいで多少なりとも気持ちは高揚していたけど、変な話、君の退院計画の第一歩は成功すると確信していた。実際、睡眠障害でだらだらと雑談している患者たちが団欒室にいないものだから、看護師や補助員は不審に感じるはずだけど、それがあの赤い満月のおかげで、いや、こんな珍しい晩もあるものだと空を拝んでいた。点呼の数だって増えなかった。怪しむべき事由を、あの満月がかっさらってしまったのだ。つかの間の休息が空から降ってきたと思わんばかりに。
 レジスタンス、と君の作戦を命名した。わたしたちは密かに囁いた。
「レジスタンス、トゥナイト」
「了解」
 深夜十二時を回った頃だ。須藤さん、吉田ママ、竹内さんがわたしたちの病室に忍び足でやって来た。音を立てないように靴下を二枚も重ね穿きして。須藤さんは喫煙したことはないという割に汚い歯で、いかにもといった怪しい微笑をたたえていた。わたしたちは肩を寄せ合い、暖をとるように青く光る君の腕時計を囲み、次の点呼の時間を計った。太っちょの竹内さんは神経質な性質だから、針を凝視しているうちに酔ってしまった。吉田ママは長い髪を三つ編みに結い、解き、また結い、そしてまた解いては結うを繰り返していた。君が始めた集会は、みんなにとっても一世一代の人生を賭けた集会だった。そうさ、人生を賭けたね。窮屈な病室はより一層ぎゅうぎゅうだった。君のベッドと、わたしのベッドの間に全員が身を埋め、おしくらまんじゅうだ。肉の塊がごろごろ、足がうじゃうじゃ、まるでジャングルか墓場のようだった。
「ミンチになっちゃう」
 須藤さんは言った。
「ソーセージになっちゃう」
 竹内さんも続けて言った。竹内さんはなんだって続けて言う。
 わたしたちは少し不安に思った。
「でも、ちょっと待って」
 吉田ママが呟いた。
「わたし、今とても幸せよ。さあ、とっとと集会を始めましょう。わたしたちは一緒に生きるんだから。時計を見て。時間がない。ああこんなときだけ、時間がない!」
 君、わたしはあんなにハラハラしたことはない。青い文字盤の光からパチパチと火の粉の飛び散る音だって聞こえたのだ。小さな灯を囲んで、わたしたちは〈死〉について意見を交わした。翌日は〈生〉について熱烈な論争を起こし、その次の日は〈精神〉についてポツリポツリと降り落ちる小雨のように語り、初めて各々の〈病〉についても話し合えた。君、これは途轍もないことだ。集会中は、常に首を絞められている思いだった。あのとき、わたしは確かに生きていたからだ。ああわたしは生きていた。生を感じることがああまで幸福なことだともっと早く知っていたなら、人生は味方になり得たのだろうか? 天にも昇る喜びとはあの数々の集会の晩のこと。奇妙なことに、わたしたちは喜んで首を絞められていた。
 腕時計が十二時四十分を指した。一人、また一人と身を屈め、用心して廊下に飛び出た。集会は、いつも中途半端に中断された。そのせいで具合が悪くなった日もあるにはあった。しかし、わたしは今でも誇らしい。強烈な口論が飛び交っていようが点呼回りのきっかり十五分前にはすぐさま熱を冷まして解散した、集会の存続を第一に優先できたあの数々の晩のわたしたちを誇りに思う。

 君は想像したことがあるだろうか。みんなでアパートを丸ごと借り切っていたなら、どうなっただろうとさ。わたしは今も時々想像する。わたしの想像だと、アパートは君も話していた通り、やはり山の奥地、豊かな自然に抱かれた位置にある。傍には取って付けたような小川があり、小さな羽虫が群になって飛んでいる。道とは呼び難い道が迷路のようにあちらこちらに伸びている。まさかその奥に住居があるなんて誰も思わない。勿論、幼少期におとぎ話や絵本、児童文学書に信頼を置いていた人なら、そう、きっと辿り着けるだろう。雑木林のずっと奥、陽光や木々がつくる陰影に彩られた二階建てのアパートの扉には当然、鍵穴がある。しかし、わたしたちは鍵なんか持っていない。鍵なんか大嫌いだし、ほとほとうんざりしているからだ。代わりに、鍵穴には吐き捨てたガムが埋め込まれている。山根さんは壁を叩き、大いに笑い、泣き、怒り、ぎゃあと叫ぶ。でも、ぎゃあ、が二十回続くと須藤さんがようやく、はて何事だろう、と答えを探しに空を見上げる。夜が深くなるにつれ、今度は須藤さんが号泣する。
「一人にしないで」
 須藤さんは窓から外に飛び出してしまうだろう。そうすると一人、二人、三人と猛ダッシュで須藤さんの後を追いかけて、彼女をぎゅっと抱きしめる。
「一人になんかしない。一人なんかじゃない」
 柔らかい月夜の下、ほどよく冷たい微風に思いの丈を乗せ、歌うように言う。
「もう一人じゃない」
 日中は囲碁でオセロをしようとして、山根さんがビー玉を碁盤にぶちまける。すると、竹内さんはサイズの合っていない分厚い眼鏡をかけ直し、眼をまん丸にする。
「そっちの方が鮮やかで見応えありますね」
 とえらく気に入り、君もくすくす笑いながら同意する。山根さんは褒め言葉に弱いから石も、ビー玉も、碁盤も外に投げて、天まで突き抜けるような豪快な笑い声をあげる。吉田ママは呆れて頭を振るけど、口角があがっているのを須藤さんは見過ごさない。わたしたちの悪い癖はもう歯止めがきかない。少ない所持品をすべて放り投げてしまうんだ。各々の名前が書かれたマグカップ、小銭が詰まったジャムの瓶、飲食店の広告が切り抜かれた穴だらけの新聞、スーパーボール、折り紙で折った手裏剣やテーブルや椅子、納税通知書、年金手帳、年賀状、家族写真、家の中は一気にすっからかんだ。
「部屋が広くなった。ね、お金持ちになったみたい」
「うん、くだらないしがらみも無くなったみたいね」
「身体も少し軽くなったかも、瘦せちゃったかな」
「丁度いい、ご飯にしよう」
 わたしたちは食料を求めて森に潜る。
「これ、なんて名前の草?」
 竹内さんがずれた眼鏡を直しながら訊く。
「あんたが発見したんだから竹内で良いじゃない、そんなの」
 須藤さんはぶっきらぼうに返答する。
「分かった」
 と竹内さんは元気よくぷちぷち雑草を引っこ抜き、新聞で作った手作りのバスケットに摘んでいく。須藤さんも腰に力を入れて根っこから草をもぎ取る。
「これはリエンって名前の草よ。だって、近所にそんなパン屋があったんだもん。本当よ」
「じゃ、これはほうれん草!」
 君がすかさず言う。
「だって、ほうれん草好きなんだもん」
 わたしたちは好き勝手に草木、花、昆虫、雲、鳥に、まるで勲章のように名を付与してやる。名前なんてそんなものだったから。病名なんてそんなものだったから。
 もう鎮静剤に脅かされることもない。ベルトで身体を縛られて固定されることもない。病室に鍵をかけられ、ほれ、とおまるを用意されることも。そのおまるに大の大人が尿をし、大便をし、補助員がバケツを取り換えることも。ああ補助員は新しいバケツに水を汲んで戻って来る。わたしたちは涙をこぼす。君は涙をこぼす。おしっこしたくなってお腹がきゅっと痛くなると震えあがってしまう。
「なんだ、おまるを嫌うなんて、わたしの頭はまともじゃないか!」
 おまるなんか嫌だ! わたしたちは幾度も叫ぶ。しかし主任は、膀胱炎になるより良いと言い張る。
「おまるが嫌ならオムツにしましょうか」
 主任がぼやくように言うと、山根さんは暴言を吐く。安城さんはそれを見て高笑いした。吉田ママはうずくまって本棚に顔を突っ込み、あとの患者たちは恐怖のあまりとうに逃げた。ああ何処へ逃げたんだろう。君はびくびく怯えながら首を右に傾げる。だけど、再びバケツの水がばちゃばちゃ跳ねる音が聞こえてくるのだ。ありとあらゆる悪態が思い浮かんでは消え、また思い浮かんでは消えてしまう。とうとうどれも口にできず……わたしは……君、わたしはとうとう壊れてしまったみたいだ。さっきから涙が止まらないんだ。アパートはわたしたちの楽園になるはずだった。

 安城さんが、君が死ぬのを見たと言った。まるで折れたスプーンのように川に転がっていた、と。安城さんは憮然として、君の両手首から流れる血をしばらく眺めていた。
 君がすべきことをしたように、わたしもすべきことをやったまでだ。耳にしたかもしれないね。安城さんにガチャン部屋をおみまいして、その三ヵ月後、わたしは退院した。その当日も、彼女はまだガチャン部屋にいた。それもナース・ステーションの一番奥、病棟から最も離れた隔離部屋、真っ白でなにもない、あの部屋にさ。あそこにはなにも存在しない。足を踏み入れた途端、この世から消える。肉体さえなくなってしまうみたいに。須藤さんのようにおまるを引っくり返したりはしなかったろうけど、そんな衝動に襲われてゾッとしたに違いない。あそこで正気を保ち続けるなんて、外界にいて自殺を考えないのと等しく困難なことだ。あの病棟で、ガチャン部屋以上の復讐はない。
 ほんの少し安城さんの虚栄心にヒビを入れただけだった。たったそれだけで、彼女は崩れ落ちた。一瞬の出来事だった。事は簡単に済んだ。人の心を殺めることは、君、あまりに容易いもの。しかし、そこから這い上がることは君も知っての通りだ。
 とはいえ、安城さんと衝突したあの夕暮れどきの廊下で、文字通り床に崩れ落ちて血まみれになっていたのはわたしの方だった。そういう計画だったんだ。安城さんをガチャン部屋へ強制移送するには多くの目撃者に囲まれて、彼女に滅茶苦茶に殴られる必要があった。口の中が切れて血を吐いた。右前歯の神経もそのときになくなった。今じゃ、その歯は真っ黒なんだ。新しい歯を買うお金がないからさ。わたしの腹に跨った彼女の眼が焼き付いて離れない。あんなにも狂気に満ちた哀れな眼をわたしは見たことがなかった。あああの人は孤独な人だ。馬鹿げている! 安城さんは君を心底憎んではいたけど、まさか君が自殺するとは思ってもいなかった。最悪なことに、わたしのことも本当は殴りたくなかったのだ。あのときの安城さんの眼を見りゃ、誰だって解る。この人はわたしを殴りたくなんかないのに、殴らなければならないんだってことくらい。あの人の不幸は自己責任さ。回りに回って、自分の身に跳ね返ってきただけじゃないか。補助員たちは安城さんをあっという間に取り押さえて、病室のなかへ引きずり込んだ。扉が閉まる直前まで安城さんは廊下に突っ立っていた野次馬どもに、助けて、と涙でぐちゃぐちゃになった顔で悲痛な叫びをあげた。救いを請う手は見るに堪えなかった。そして、誰もその手を握り返さないと見ると怒号をあげたのだ。
「くたばれ屑ども、お前らに命なんか贅沢だ、全員死んじまえ!」
 扉は閉まった。安城さんの悲鳴が響き渡り、吉田ママも、須藤さんも、竹内さんも泣いていた。どうして泣いていたのかなんて訊かないでくれよ。わたしにも解らないんだから。きっと本人にだって解らない。色々とあり過ぎたんだ。そして静寂が訪れた。鐘の音のような、いつものあの静寂が。鎮静剤を打ち終わったことを知らせる沈黙を、わたしたちはこの耳で聞いた。安城さんは簡易ベッドに移され、担架に乗せられて病室から出てきた。身包みを剝がされ、ぺらぺらの白い病衣を一枚纏っていた。両手首、両足首、それから腹回りを革ベルトにくくられ、ベッドに縛りつけられた格好だった。あの人は眠ってなんかいなかった。ひどい拷問を受けたみたいに気を失っていた。下あごは落ち、口はだらしなく開き、瞼は半分開いていて白目を剝いていた。でも今更なんだ。何もかも手遅れじゃないか。善人ぶるなんてそれこそ酷い話だから、とやかく言う気はないんだ。けど君、わたしは復讐したことを誇りに思ったことは一度もない。後味はひどく悪かった。十年経った今じゃ、もっと悪い。

 君が安城さんを仲間外れにしたのではない。それは安城さんにとっても既知の事実だった。あれは吉田ママが、安城さんとは死んでも同じアパートに住みたくないと言い出したからだ。お人好しの君は誰かを見捨てたりはしない。安城さんはみんなに認められたかったんだと思う。君がいなくなれば、元通りになるとでも考えたのだろうか。わたしたちが君の後さえ追わなければ、君は傷心することも自殺未遂することもなかった。何もかもわたしたちのせいだ。だから夢を追うのは、君を追うのは止めたのだ。君が無事に回復したと主任から聞いたとき、まるで踏み外したはずの階段がひょいと足元に戻ってきたようだった。君が幼少期から大事にしているというミヒャエル・エンデ『はてしない物語』の一文にあった。まさに君が亡くなったと聞いたとき、階段を踏み外したときのように背筋が凍って真っ白になった。生きていると主任に知らされるまでの時間は言い表しようがない長い地獄だった。奇跡だよ、君。踏み外したはずの階段が足元に戻ってくるなんてこと、一生に一度もあるもんか。しかし、わたしにはあった。わたしたちにはあったんだ、そんなことが。酷い人たちだと思っているだろう。あんまりじゃないかと思っているだろう。君、わたしは十年間、幾度も神に許しを請うた。でも、謝る相手を間違えていた。一体、わたしが神になんの悪事を働いたというんだ。本当にすまなかった。この通りだ。わたしたちは、いや、わたしは君の背中に感銘を受けるべきじゃなかった。君の隣に立ち、君と共に歩くべきだったのだ。

 久しぶりに晴れたもんだから、この俯きがちな心にも自然の恵みを与えてやろうと散歩へ出掛けてきた。土を踏むのもしばらくぶりで、なんだかおっかなかったから、君と病院近郊の公園へ外出したときを思い起こして芝生の上に寝転がってみた。大地に顔を近づけると前の晩に降った雨の影響で、土の香りが強烈だった。君と突風に煽られた土埃を顔面に浴びて、大笑いしたことがあったね。わたしはあの日のことを思い出して、気味悪く一人でにやにやしていた。優しい気持ちに包まれ、ゴロンと寝返りを打ったり、恥ずかし気もなく大の字になって空を見上げた。君の存在はいつもわたしの魂を潤してくれる。しかし、いい思い出はそう続かない。後悔と罪悪感にたちまち追いやられる。
 わたしは芝生に寝転がり、土や雨の香りを嗅ぎながら君をこの世に引き留めたものはなんだったのか考えた。君を生かしたものはなんだったのだろう? 誰だって最後の最後には命綱に手を伸ばすもの。それが意識的であれ、無意識的であれ、不意に手が出るものだろう? 君にもつかまる綱があったはずだ。じゃなきゃ、もっと深く、確実に手首を切ったはず。空想に浸っていると、安城さんの顔が浮かんだ。あの人はここぞというとき脳裏に影を落とす。わたしは君を思うのと同じくらい、安城さんのことを思うようだ。正確に言えば、安城さんは君の命綱を断つことはできなかった。君が死の直前に抱いた希望のようなものはなんだったのか、わたしは遂に訊けなかった。
 しかし安城さん、ああ、あの人の眼は確かだ。わたしが一心にしがみついていた命綱を見つけたんだ。用心深くひた隠してきたというのに。まったく情けない話、わたしには文学への憧れがあった。その恋心のような憧れがわたしをこの世に引き留めていた。怒りを、孤独を、絶望を我が身に抱き寄せて親しくしようと心構えできたのも文学があってこそ。作家になろうって魂胆はなかった。人生そのものが文学だと胸を張っていたのだ。紙面に印刷された文字だけが文学ではない、と。わたしはそれでなんとか人生に意味を見出し、やってこられた。安城さんは、わたしの命綱を見つけた。実にいやらしい笑みで、あの人はこう言った。
「あんたは利口だよ。自分が物書きになれないことくらいは、ちゃんと解っているんだからねえ」
 わたしは舌を抜かれたように声が出なかった。急に心臓の鼓動が速くなり、そのまま胸から飛び出してしまいそうだった。手指も小刻みに震え、わたしはそれをポケットに隠して笑った。大笑いさ。涙まで流して大笑いしたのだ。君には洗いざらい話してしまいたい。安城さんに冷笑された後、わたしは洗面所にあった固形石鹼を食べた。陰毛のような短い毛が付いた石鹼にかじりついては飲み、飲んでは吐いて、またかじりついた。あんなもの食べられたものじゃないけど、気が動転していた。固形石鹼を食べなければ死ぬと思ったのだ。だから、自殺を図る気で食べたわけじゃない。わたしは生きたかった。安城さんはいい眼を持っている。そうだろう?

 レンドルミンをまとめて四錠飲み、三十分置きに頓服をしたが間に合わなかった。眠りにつくより先に目覚まし時計が鳴った。一日三錠以上は飲まないと誓っていたのに、どうしようもなかった。服用後はすぐに明かりを消して布団に入る。けど、一向に眠りに落ちない。夢遊病者みたいに歩き回り、時々は冷蔵庫を漁り、夜食を探す。そして三時間後に目覚ましが鳴るのだ。どうしたって暗い気持ちになる。君も、人間は一日八時間の睡眠をとり、昼間に活動して、夜は就寝すべき生きものだと考えるだろうか。太陽の下に一日一度は出るべきだと? その点については、わたしもまったく同感なんだ。その貧相な思考のおかげでひどく窮屈だ。わたしは最近の月を気に入っている。本心をいえば眠ることに囚われず、月明かりの下を歩きたい。勿論、そうする晩もある。けど、そんな夜行性みたいな生活は矯正すべきだと脳が拒絶する。わたしがそうしたいと願っているにもかかわらず、脳は大概反対のことを言う。わたしが自由な思考を取得した生きものであれば固定観念にがんじがらめになることもなく、個として確立した聡明な人間であれば眠れないといって塞ぎ込んだりもしなかったろう。薬なんかもってのほか。しかし、現実世界でわたしは自分は無力だと消魂しているから、とっとと諦めて服従する。何故眠れない、と自責し、運命を恨み、病的に気にしだす。そうなると眠るなんて不可能。布団のなかで七時間でも八時間でもジタバタするだけだ。
 しかし君、こうして言葉にして話せるようになったことで、さほど悲観的でなくなったといえる。君が退院した直後はどんなふうだったろうか。想像するに歓喜したのは半日程度だったと察する。安城さんがどうして入退院を九年間も繰り返すのか、君も痛感したはずだ。わたしの場合、母がうずくまって動けなくなることが多々あった。何処が痛いというわけではない。病棟でも馴染み深い光景だった。母は気丈に振舞いはしたけど、時折、凄まじい重圧に屈服し、出口のない迷宮に囚われてしまっていた。わたしが家に戻ったことが引き金となったのだ。瘦せた娘の姿を嘆き、母は打ち萎れた。わたしは一家の嬉々たる未来を奪ったようだった。須藤さんなら外界の人間が立ち上がれなくなった場合─そんなもん、わたしたちにはよくあることよ、と明るく放置しただろう。わたしもそうできたら楽だった。しかし外界にいるのだから、ちゃんと普通の人間らしく背をさするくらいはした。母から哀しみを取り除いてやることはできない。ひどく心配はしたけど、あまり近寄るとわたしまで引きずり込まれそうだった。主治医の忠告通り、距離を測らなければならない。冷たく映ったろうけど、背をさすった後はその場から離れた。母は片膝に手を添え、ゆっくりと時間をかけて立ち上がった。わたしたちは妙に他人行儀でギクシャクしていた。久しぶりに会った母は猛烈に老け込み、ずっと小さくなっていた。父は今のわたしくらい口を開かなかった。父が口を開くとき、それは酒を飲むときだった。毎夜、耳の頭まで真っ赤になり、おぼつかない足取りで狭い廊下を壁にぶつかりながら歩いた。あちこちに頭や肘をぶつけて転倒するものだから、よく流血していた。翌朝、壁に血がこびりついていても誰も驚かなかった。そして毎夜、わたしの部屋の扉を叩くのだ。どれほどわたしがそれを嫌っているか知りもしないから何時であろうと平気でやる。
「まさか寝たわけじゃないだろう」
 と決まり文句を言い、父は部屋の電気をつけた。
「狸寝入りしているのはバレてるぞ。お前は精神疾患者なんだから、深夜に起きていることくらいお見通しだ」
 わたしは寝ぼけた演技をし、ごそごそと布団から顔を出した。グラスに注いだ酒の匂いは気持ちのいいものだけど、泥酔した人間の酒臭さはたまらない。わたしは鼻を曲げて顔をしかめた。
「おお可愛い娘の顔を拝めたぞ」
 と父は笑い、
「お前がいてくれて幸せだよ」
 と涙した。ああ君、親の涙ほど胸をえぐられるものはない。我が家は精神病院より酷い状況だった。彼らはどうしようもないくらいわたしを溺愛していて、わたしはそれに応えようがなかった。わたしは悲鳴をあげるのを堪え、苦渋の思いで彼らに背を向けた。何日も何週間も部屋に閉じこもった。みんな、ひどく気疲れしていた。一家全員、急死してもおかしくなかった。散歩は良い気晴らしになったし、外出する口実にもなったけど、両親はわたしが一人になるのを心よく思わなかった。彼らは主治医や主任の代役を務める気で、外には出るべきじゃない、と人間であることを否定するようなあの恐ろしい言葉をあっさり口にした。精神病院に戻らないようにと注意深く距離を測り、やってきたはずが、もしやこのまま悪気もなく監禁されてしまうのではと不安に駆られ、再び烈しい動悸が始まった。それで本当に出られなくなってしまった。母はくたくたになった手鞄を握りしめ、
「ちょっと買い物に行くけど何処にも行かないで、部屋にいなさいね」
 と消え入りそうな声で言い、扉の閉まる音が漏れないように、とても静かに出ていった。ああ君、わたしも両親もお互いを人間だとは思えなくなっていた。両親はわたしに微笑むのだ。
「あんたが死ぬまで部屋にいることになってもいい」
 わたしが陽を浴びたいと切望しても、そう頑張らなくてよい、と言うのだ。両親にとってわたしは内臓、骨、薄皮を被っただけの抜け殻。何を言っても上の空。一人の自殺未遂が何人もの魂を殺し、誰も人ではなくしてしまった。あれから十年経った。あのときと比較すれば、今はとても良い場所にいる。両親もよく笑ってくれるようになった。わたしが一人でいても前ほど心配はしない。わたしも彼らの心配はあまりしなくなった。また魂のようなものを感じ取れるようになったのだ。魂とは、つまり光だ。今の両親の瞳には光が宿っている。両親もわたしの内面に光のようなものを感じてくれているのだろう。ようやく人として見てもらえるまでになった。病人ではなく、独立した一人の人間、彼らとは別々の思考を持つ者として。だから前ほど嘆いてはいない。眠れない。ただそれだけなんだ。

《続きは単行本でお楽しみください!》



『pray human』 崔実 講談社

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