三月●日

文字数 6,640文字

1日1冊、3年で1,000冊の本を読み、月産25万字を執筆し続ける小説家・斜線堂有紀。


謎めいた日常はどのようなものなのか――

その一端が今ここに明かされる。


毎月第一・第三月曜日、夕方17時に更新!

夕暮れどきを彩る漆黒の光・”オールナイト”読書日記が、本日も始まる。

前回の日記はこちら


三月●日

 ガンガントンネルことMRIに入ってから一週間ほど結果を待つタームに入った。


 その間私が何をしていたかというと、適度に仕事をしつつぐだっ……としていた。そわそわしてまるで手に付かないというわけじゃない、でも集中も出来ない……。もし万が一大変な病気だった時の為に心残りを無くそうと思って私がやったのは、鯛焼きを買うことだった。おやつにするにはカロリーが高いな……不健康かもしれない……と思ってあんまり食べなかったのだが、不健康なものが身体にあるんだから食べてもいいだろう、鯛焼き。久しぶりに食べた鯛焼きは美味しかった。あんこの甘さが沁みた。それからこの一週間は、毎日鯛焼きを食べた


 結果を待っている間に、肺にある謎の影についても診断してもらった。こちらはどうやら肺気胸が治った跡らしい。去年、肺から変な音が出て息苦しいという症状が出て、喘息の診断が下りたことがあったのだが、どうやら本当は気胸だったようだ。自覚症状はあったものの知らない間に治っていてくれたことは嬉しい。ただ、こちらも再発の危険があるようで、しばらくは定期的に検診を受けることになった。


 別に病院に出入りしているから……というわけじゃないのだが、薬に関する本を買った


 というわけでバリー・マイヤー『ペイン・キラー アメリカ全土を中毒の渦に突き落とす、悪魔の処方薬』を読む


 ──36時間のうちに、9人の死体が数百メートル圏内で発見された。最年長は42歳、最年少は24歳。一見共通点の無い彼らの死因は同じ、オピオイドの過剰摂取だった。この衝撃の入りから始まる、長い闘争を追ったドキュメンタリーである。この問題の重要な点は、主軸となっているオピオイド系麻薬製鎮痛剤──オキシコンチンが、それ自体が違法薬物ではなく医者から処方される処方薬である点であった。


 問題の始まりは今から二十年ほど前。パーデュー・ファーマ社という会社がオキシコンチンを発明したことが発端だった。当時のアメリカでは(今もであろうが)慢性的な疼痛に悩まされる患者が多くいた。痛みは個人の感じ方であり、モルヒネなどの強い薬を処方されるくらいなら患者は耐えるべき、という風潮が強かったからだ。そこに、新たな薬・オキシコンチンが開発される。日頃から患者の嘆きを聞いてきた医師達は彼らの為にオキシコンチンを処方し、パーデュー社は「オキシコンチンは依存性が低く、乱用の危険性が低い。患者の苦しみを和らげるのに最高の薬」だとして大々的に売り出した。


 実際のオキシコンチンは依存性が高く、適切な運用をしなければ中毒死してしまうドラッグだ。だが、パーデュー社はそこには全く触れなかった。結果、多くの医師がオキシコンチンを処方し、ディーラーは処方されたものを転売したり処方箋自体を偽装したりして、年若い依存患者達に薬を流していった。これが、冒頭に記したような大量死を引き起こしていく。


 パーデュー社はこのような流れを把握しながら何もしなかった。それどころか、乱用されることによるオキシコンチンの需要の高まりに目が眩み、どんどんオキシコンチンの流通に精を出していく。オキシコンチンによる死者が相次いで出ているのにもかかわらず、オキシコンチンを無料で体験できるクーポン券までばらまいてこの薬の存在を知らしめるのだ。DEAやアメリカ司法は、どうにかしてパーデュー社と戦っていくのだが……


 パーデュー社の悪辣なやり方は当然糾弾されるべきなのだが、この問題は悪の会社を倒して終わり──という単純なものではない。乱用されると死を広げるオピオイドだが、痛みに苦しむ患者達を救う薬でもある。本書の中には鎌状赤血球貧血を患う男性の例が出てくる。彼は発作が起きる度に病院に行き、何時間も待ってからようやく数錠の薬を貰える状況に悩んでいた。彼の苦しみを正しく理解した医師がオピオイドを常備薬として処方してくれたことで終わる。オピオイドの処方を躊躇うことは、彼のような患者を見捨てることに繋がってしまう。


 必要とする人間だけが適切に薬を用いればいいのだが、そう綺麗事は言っていられない。トリップすることが出来る薬剤であれば、必ず乱用する人間が出てくる。悩ましい問題である。私が痛みなく検査や治療が出来るのも薬の進歩のお陰だ。私が適切な処方を受けられるのは、適切な判断を下してもらえたからだ。


 こういった問題は絶え間なく起き続けるのだろう。その中で、出来る限り医療の谷間に人が落ちないことを願うばかりだ



三月☆日

 小説推理2022年4月号に『ある女王の死』が掲載された。<伝える>シリーズ、第三話である。書簡体、異言語コミュニケーションときて、今回はとてもオーソドックスなダイイングメッセージを題材にとった。ただし、今回は一見意味の分からないダイイングメッセージが、その人の人生を追っていくことで紐解かれるような物語にした。一言で言えば映画の『スラムドッグ$ミリオネア』みたいなやつである。


 主人公の榛遵葉は、債務者にチェスの勝負を挑み、その勝負次第で支払いの猶予を決める変わったルールの下に生きる金貸しである。何者かに刺された彼女は、最後の力を振り絞ってとあるチェスの盤面を残した。一体彼女は何故この盤面を再現したのか? ヤミ金の女王とも呼ばれる非情な彼女が生きてきた八十年余りの人生を追いながら、遵葉の最後の一手を紐解いていく


 今まで書いたことのない短篇にしようと思って書き出し、その通りのものになったと思うので、よかったら読んでみてほしい。考えてみると、小説推理では他では書けない挑戦的なものばかり書いているような気がする。<伝える>という縛りが結果的にこの自由さを生み出しているんだというのが、なんだか面白い


 はてさて、三月二十七日発売の『回樹』の最後のゲラをやっていると、陸秋槎『ガーンズバック変換』が届いた。大好きな言語学SF「色のない緑」が収録されているSF短篇集ということで、前々から楽しみにしていた一冊である


 表題作の「ガーンズバック変換」は、ネットへのアクセスを『視覚的に』遮断された香川県に住む女子高生と、そんな縛りを持たない大阪に住む女子高生の交流を描いたサイバーパンク小説だ。香川県に住む高校生はみんな、ネットに通じるもの──スマホやパソコンの画面が見えなくなる眼鏡をかけさせられる。当然ながら、この設定の元になっているのは香川県の「ゲーム対策条例」である。物議を醸したこの条例を使って新たなディストピアを描き出すのには妙なおかしみがあって、当然ながら面白い。


 だが、小説を書く人間として一番刺さったのは、冒頭の「サンクチュアリ」である。陸秋槎自身はこれを自虐ネタに溢れた私小説と評しているが、だからこそこの物語はこんなにも創作者の心をざわつかせるものに仕上がったのだろう


 物語の筋はシンプルだ。売れない作家である<わたし>は売れっ子作家グリンネルのゴーストライターの仕事を引き受けることになる。バイオレンスな作風で人気シリーズを送り出していた彼の突然の断筆。単に執筆に飽きがきたのか……? と思ったが、グリンネルのハマっていた<最善主義>なるものを知った時、わたしは彼に何が起きたのかを知る──。


 ネタバレになってしまいそうなので端的に書くが、私がこの小説に惹かれたのは、これが創作者の暴力性に焦点を当てたものだからだろう。紙の上での悪徳を肯定する立場だからこそ、この物語には胸をざわつかせられる。グリンネルの中にあるものは深い絶望だったのか、それとも絶対の安寧だったのだろうか。


 「開かれた世界から有限宇宙へ」もお気に入りの短篇だ。よりリアルな表現を求める天才的なゲームデザイナーが、ソーシャルゲーム上の世界の矛盾の解決を依頼してくるという物語なのだが、ゲーム上の都合でしかないものに科学的な説明をでっちあげていく過程がなんとも面白い。このネタで連作を作ってほしいと思ってしまうくらいだ。期待通り、端から端までたっぷり楽しめる贅沢な短篇集だった


三月/日

 検査の結果を聞きにいく時のお供はフェルディナント・フォン・シーラッハ『珈琲と煙草』だった


 これは『テロ』『刑罰』などを著したシーラッハの観察記録断片集である。四十八本の断章からなるこの一冊は、エッセイも小説も観察記録も全部ごちゃごちゃに混ざっている。シーラッハの手帳をそのまま持ってきました、と言われても納得してしまいそうなくらいだ。人の日常を垣間見れるのは楽しいので、この本もその愉悦がある。青春そのものの日々を回顧したものもあれば、なんと言っていいか分からない事件について綴られたものもある。夫を毒殺しながらもその品行方正さと余裕から愛され、早々に仮釈放を得て幸せになった女の例。あまりにも軽い理由で殺された人々の例。あるいは、何を意図しているのか私ではわからないものもあった。ある成功した女性歌手の話だ。彼女は父親に電話をかけ、自分が合唱団の指導者としての仕事をししているところを見に来てくれるよう頼む。父親はいつなのかを尋ね、彼女は「金曜日よ」と答える。すると彼は「土曜日の方がいいな。駐車スペースが見つけやすい」と答える。


 どういう意味なんだろうか。ジョークなのか、娘の出番にさして興味のない父親が描きたいのか、単純にこれは観察記録でしかないのか


 この雑然とした感じも、なんだか面白い。ただ、全ての文章がシーラッハ特有の冷静な目を通して書かれているので、温度感だけは一貫している。このエッセイを読んで、私の好きな映画監督および好きな映画がシーラッハと共通していることを知った。ああ、確かにシーラッハはそうだろう、と私は思う。


 ドナルド・ホール『死ぬより老いるのが心配だ 80を過ぎた詩人のエッセイ』煙草繋がりでこれも読んだ。ヘビースモーカーな詩人の書いたエッセイ集である。彼のヘビースモーカーっぷりを表す名言にこんなものがある。「喫煙にはひとつ利点がある。それは、息をひきとる際に『どうしてなんだろう』と考えずにすむことだ」……これだけで、ドナルド・ホールのことが好きになるだろう


 検査結果待ちというナーバスな気分が手に取らせたのもあるかもしれない。死を目前にした詩人が何を考えるのかに興味があった。あとは単純に、詩人とはどんな生活をしているのだろうとも思った。


 ドナルド・ホールの詩はよく知らない私でも、軽妙なユーモアとハッとするような言葉選びで綴られる日々は楽しい。特に好きだったエピソードは、彼が老体に鞭打って朗読会を行った時のエピソードだ。新作の詩を読み終えた瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれ、観客は総出でスタンディングオベーションをした。ドナルドは感動し、これは素晴らしい傑作が書けたのだと意気揚々に発表する。だが、いざ発表した詩はけちょんけちょんに酷評されてしまい、彼は気づきたくない事実に向き合わされる。即ち、老体の彼が頑張って朗読をしたからこそ、もっというなら、ドナルド・ホールが死にかけに見えたからこそ、その詩は凡作でありながらも評価されたのだということに……


 彼は詩人である自分の価値について極めて冷静な視線を向けるタイプで、過度な賞賛にも浮かれない。それはある意味で年の功なのかもしれない。彼の中での詩人の価値は名声ではなく、永続性にあるのだ。どれだけ時間が経っても忘れられず、愛され続けること。記憶されること。(とはいえ、彼は自分へのアンチ論評をわざわざ見せてきた友人に対し「殺し屋を一人雇うか……」と悪趣味なジョークを考えていたりするので、完全に同時代の名声に対して興味がないわけではない。自分の講義に学生が興味なさげなのもそこそこ嫌なのだ)


 老いは喪失の儀式だ、と語るドナルド・ホールは沢山の死に触れている。病で亡くなった妻、手榴弾を胸に抱き自殺した友人。そして、目前に迫っているだろう自身の死を見つめる。


 「この世にハッピーエンドというものはない。幸せだと思うのは、幸せが終わっていないからだ。わたしは80代まで生きながらえ、ものを書き、身体に障害があり、たいていは独りでいるが、奇妙なくらいに楽しい。そこにあるのは一本の道だけだ。」


 八十五歳のドナルド・ホールがこんなにも豊かな考えを巡らし、才知とユーモアを忘れないで生きていられるなら、何が何でも長生きしたくなってしまう。そう思った。


 さて、結果である。待合室で二時間待たされた時点で、私は大分落ち着いていた。何故なら、人間ドックの結果を持って行った時は、受付の人が顔色を変えて奥に引っ込み、医師と何やら相談した後で「すいませんが、閉院後に来てください。今日中に……診療時間外でも見ますので。お医者さんも全員残りますから」と言われたからだ。検査結果が悪すぎるが故の嫌なVIP待遇だった。私が一番不安を覚えたのは、この有志残業宣言を聞いた時だったかもしれない。


 MRIで撮影されたらしい体内には、なんか大きな影があった。はっきり映し出されすぎて、どうぶつの森の魚影に似ていた。ゲーム内の池の鯉くらいのサイズだ。良性腫瘍だが、これほど大きくなるとなんとかしなくちゃいけないらしい。病名はとある有名な医療漫画の中でも、物凄く有名かつ珍しい症例だった。(その為、病気を説明する時に私は「あの漫画のアレです」と答えるようにしている。国民的漫画とは便利だ)


 癌ではないことにとりあえずほっとしたものの、取ったら体重減りそうだなと思うくらいのサイズなので、色々と覚悟した。


 だが、手術が嫌すぎる私に嫌な具合で呼応したのか、この腫瘍は取らないことになった。というか、取れなかった。どうやらこの腫瘍は生涯で取れる回数が決まっているらしい上に無限湧きするタイプのものらしく、今取ったところで再発する上に摘出も難しくなっていくのだそうだ。私はソシャゲの周回を思い出した。あれも段々素材が落ちづらくなっていくからな……。


 じゃあどうすればいいのかということで、薬を飲むことになった。医学の進歩は素晴らしいので、薬を飲んでいれば腫瘍の成長が止められるのだという。腹水を抜いて薬を飲み、時を止めることで逃げ切りを図る戦法である。正直、そんなものでどうにかなるのならお安いご用だった。


 というわけで、人間ドックに行かなければ気づくことのなかった腫瘍の為に、私は毎日薬を飲むことになった。あそこでCTスキャンを取りまくっていなければ──友人の血尿に怯えていなければ──私はこの絶対に飲み忘れてはいけない薬を飲まずに日々を過ごしていたのだと思うと、なんだか不思議な気分である。(ちなみに、全く気がつかなかった場合いずれ腫瘍が破裂し、癒着した臓器にダメージを与えていたらしい。激痛で運び込まれることになっただろうそのルートを考えると震えがくる)後でまたMRIを取って、薬が効いているかを調べて経過観察を行う予定だ。


 正直なところ、すぐさま命にかかわるものではないと分かってからは気持ちが楽になって、薬を毎日飲むのは面倒だなと思う余裕すら出てきた。我ながら本当によくない患者である。これからも医学の進歩や偶然に救われたりして、なんだかんだこの腫瘍摘出しないで百歳まで生きちゃったな……と思えるようになりたいものである。


安心しました。


次回の更新は、4月3日(月)17時を予定しています。

Written by 斜線堂有紀 

小説家。2016年、第23回電撃小説大賞にて“メディアワークス文庫賞”を受賞。受賞作『キネマ探偵カレイドミステリー』でデビュー。著作に『詐欺師は天使の顔をして』(講談社)、『恋に至る病』(メディアワークス文庫)、『ゴールデンタイムの消費期限』(祥伝社)などがある。2021年、『楽園とは探偵の不在なり』(早川書房)が本格ミステリ大賞にノミネートされ、注目を集める気鋭の書き手。

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