山崎の戦い完全ガイド①

文字数 1,790文字

日本の歴史に残る有名な合戦を活写&深堀りして大好評の矢野隆さんの「戦百景」シリーズ

第6弾は、明智光秀と羽柴秀吉の天下を分けた一戦を描いた『戦百景 山崎の戦い』です!


「戦百景」シリーズとは…

第1弾『戦百景 長篠の戦い』は「細谷正充賞」を受賞!

第2弾『戦百景 桶狭間の戦い』

第3弾『関ヶ原の戦い』

第4弾『川中島の戦い』

第5弾『本能寺の変』

と、有名な合戦を深堀りしてリアルタイムで描く、矢野隆さんの人気シリーズ!


刊行を記念して、矢野隆さんにコメントをいただきました!


これから順次記事をあげていきますので、お楽しみに!

敵は山崎にあり!/ 矢野 隆



 戦という物は、発端が曖昧なものである。


  一対一の喧嘩ではないから、様々な思惑が複雑に絡み合い、勝敗についても明確でないことのほうが多い。


 桶狭間や長篠のように、一方の勢力が侵攻し、もう一方がそれを退けるような戦では、発端や決着が明瞭ではあるが、侵攻を受けた側が一定のモチベーションを保てているかといえば、そうともいえない。侵攻を受けた者は被害者であり、戦おうという明確な意思があって弓を取った訳ではないのだから、自然とそうなってしまう。


 その点今回の“山崎の戦い”には、はっきりとした発端と明確な勝敗が存在する。 


 “本能寺の変によって殺された織田信長の仇討ち”


 それが、一方の当事者、羽柴秀吉の目的であった。対する明智光秀にとっては、織田信長を殺した後の天下を手にするための大戦という目的がある。


 信長が本能寺で殺されなければ、この戦は無かった。この一戦は、信長亡き後の天下を担う者を決めるための決戦だったのである。


 文字通りの天王山なのだ。


 このエッセイを読まれている歴史ファンならば周知の事実であろうが、スポーツ等の勝負事において、勝敗を決める要となる局面などを“天王山”と称するのは、この山崎の戦いに端を欲している。山崎の地の要衝、天王山を制した方が、この戦に勝利するという故事から、天王山という言葉は生まれた。


「信長の仇は俺が討つ!」


 秀吉はその一心で京にむかってひた走る。


「信長亡き後の天下は己が統べる!」


 主君殺しという大罪を犯した光秀は、その想いで秀吉を迎え撃つ。


 織田家の双璧とまでいわれた二人の武将は、山崎の地で激突する。


 前作『本能寺の変』から続く因縁が、今作において終焉を迎える。秀吉と光秀の直接対決を、是非とも楽しんでいただきたい。


▲天王山からの眺望 写真/アフロ
織田信長を斃した明智光秀と、中国大返しを果たした羽柴秀吉。

天下を賭けた二人の決戦の真相に、シリーズ史上最大の深掘りで迫る!

1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変で織田信長が横死すると、収まりかけていた天下の趨勢が大きく動き始める。備中高松城で毛利方の城主・清水宗治を攻めていた羽柴秀吉は、軍師・黒田官兵衛の助言に従い毛利家と和睦。電光石火の早業で畿内に取って返した。世に言う「中国大返し」。他方、信長を斃した明智光秀は、頼みとしていた縁戚の細川藤孝・忠興父子や寄騎だった中川清秀、高山右近、筒井順慶らを味方に引き入れられず、劣勢のまま秀吉軍を迎え撃つことになった。信長三男・三七信孝と丹羽秀長を加えて4万に膨れ上がった秀吉軍に対し、武田元明、京極高次などわずかな加勢にとどまった明智軍は1万余。そして天下人を決めるであろう運命の6月13日、京への入り口にあたり隘路でもある山城国・山崎を決戦の地に選んだ光秀は、天王山を占拠していた秀吉軍とついに激突を……。

矢野隆(やの・たかし)

1976年福岡県生まれ。2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞。その後、『無頼無頼!』『兇』『勝負!』など、ニューウェーブ時代小説と呼ばれる作品を手がける。また、『戦国BASARA3 伊達政宗の章』『NARUTO-ナルト‐シカマル新伝』といった、ゲームやコミックのノベライズ作品も執筆して注目される。また2021年から始まった「戦百景」シリーズ(本書を含む)は、第4回細谷正充賞を受賞するなど高い評価を得ている。他の著書に『清正を破った男』『生きる故』『我が名は秀秋』『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』『大ぼら吹きの城』『朝嵐』『至誠の残滓』『源匣記 獲生伝』『とんちき 耕書堂青春譜』『さみだれ』『戦神の裔』『琉球建国記』などがある。

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