幻視人

文字数 1,043文字

 子供の頃から学校の行き帰りなど、道すがら様々な物語を妄想し、幻視していた。校庭でウルトラマンが怪獣と戦ったり。自分が科特隊の隊員だったり。
 さて、『月夜に溺れる』である。
 舞台は横浜、川崎周辺。それだけ決まっていた。ストリートビューで、ざっと何カ所か当たりを付けておいて、特に考えもなく、川崎の臨港工業地帯をゆっくりと見てまわった。
 いわゆるロケハンだ。舞台、現場となる街を立体的に目視し、人の流れや路地の空気を感じると、そこに見合った場面が、人が、物語が浮かんでくる。
 川崎市の臨港部は、大小の工場と住宅が混在する地域だ。道は広く整備されているが、夜になると人の姿は少ないだろう。
 私はそこで、夜、人気のない工場や路地を駆け抜ける黒い影を幻視した。逃げる影と追う警察。その影を追うように、街を歩くうちに一つの物語が徐々にできあがっていった。
 横浜駅を降りて、北へ少し歩くと、派新田間川に突き当たる。帷子川の分流である新田間川のさらに分流で、その上を首都高速神奈川2号三ツ沢線の高架が、蓋をするように覆っている。都市の中にあるコンクリートで固められた人工の川だ。橋の中央から水面を眺める。川の水は緑がかり、綺麗とは言えないが、ゴミが浮いているわけでもない。
 ここで幻視したのは、川面に浮かぶ死体だった。見上げると首都高の高架が底を見せ、強い圧迫感を覚えた。なぜここに死体が? そんなことを思いながら何度も水面と高架を見比べるうちに、物語より先に犯罪の構図が浮かび上がってきた。被害者や被害者の肉親、犯人、共犯者、捜査員たちの姿が次々と浮かび上がり、目の前の街を動き回ってゆく。
 そして最後に、横浜、川崎の街を颯爽と飛び回る女性捜査官の姿を幻視した。くよくよ悩まず、恋も仕事もまず行動。そのせいで失敗も多いのだが、清濁併せ持った人脈を活かした捜査能力は抜群の彼女だ。
 というわけで、 行ってみなければなにができあがるかわからない。そんな風任せ、運任せの過程が楽しかったりする。もし現地を訪れてなにも思い浮かばなかったら? そんな心配はしない。物語のない街などないのだから。



長沢樹(ながさわ・いつき)
1969年、新潟県生まれ。2011年、『消失グラデーション』で第31回横溝正史ミステリ大賞を受賞。近著に『St.ルーピーズ』『ダークナンバー』『イン・ザ・ダスト』などがある。

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