記憶のなかのニュータウン

文字数 1,120文字

『ニュータウンクロニクル』のモデルである多摩ニュータウンにわたしが住んでいたのは、十五歳から二十三歳までの八年間である。それまでは八王子の西の端にある、民間業者が開発したやはり新興団地に住まっていた。団地とはいえ一戸建てが整然と並ぶ住宅地で車の行き来も少なく、同年代の子どもも多くて住み心地は悪くなかった。
 とはいえ山を削り、人工的に造られた住宅地は、生活に必要最小限のものしかなくて、いわゆる「町」の匂いはいっさいしなかった。商店街はひとつだけ。パチンコ店や居酒屋などは一軒もなく、駄菓子屋すらない。健全といえば健全な住環境だったが、はたして町として「生きていた」のかははなはだ疑問である。それでも住民は多かったし、それなりに活気に満ちたものではあった。
 町内会主催の夏祭り。配られる商品券を握りしめて、友だちと夜店をひやかして歩いた。放課後は、そこらじゅうにいた同級生の家で遊んだ。同級生の家には専業主婦のお母さんがいて、美味しい手作りのおやつを出してくれたものだ。確か生まれて初めてバナナセーキを飲んだのも友だちのおうちである。「世の中にこんな美味しいものがあるのか」とおおいに驚いたことを覚えている。公園もたくさんあって、家で遊ぶのに飽きるとみんなで外へ遊びに行った。まさに健全を絵にかいたような暮らしぶりだった。
 だが現在の団地は高齢化が進み、数少なかった商店のほとんどがいまやシャッターを下ろし、まさにゴーストタウンの様相を呈している。駅から遠いぶん、多摩ニュータウンよりも過疎化が進行しているのであろう。
 けれどわたしにとっては懐かしい故郷の町だ。小、中学生時代を過ごした、まさに子ども時代の思い出が詰まった場所なのである。
 いまでもたまにその団地の夢を見る。不思議なもので、多摩ニュータウンの夢は見ないのに、である。きっと一番多感な時期を過ごした場所であるからこそ、記憶に深く刻み込まれているのだろう。わたしの原風景として、きっと一生その光景はこころのなかから消え失せはしないのだろうと思う。



中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)
1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。出版社に勤務しながら、劇作家として活躍。2007年「ミチユキ→キサラギ」で第3回仙台劇のまち戯曲賞大賞を受賞。2012年「春昼遊戯」で第4回泉鏡花記念金沢戯曲大賞優秀賞を受賞。2013年に『お父さんと伊藤さん』(応募時タイトル「柿の木、枇杷も木」)で第8回小説現代長編新人賞を受賞し、小説家としてデビュー。近著に『働く女子に明日は来る!』がある。

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