『新装版 海も暮れきる』吉村昭/「詩人」として(岩倉文也)

文字数 2,235文字

次に読む本を教えてくれる、『読書標識』。月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は講談社文庫から新装版が出ている吉本昭『海も暮れきる』を紹介してくれました。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

今年は一年を通してなんとなしに体調の優れない日が多く、ベッドに横臥してよく死について考えた。考えた、というのは或いは正確ではないのかもしれない。ただぼんやりと死が身近に感じられる一年だった。


もしぼくがいま死ねば、今際の思いは「なにも分からなかった」になるだろう。なにも分からないまま死ぬのは嫌だな、と思う。


人はきっと、確信さえ持てれば死ねてしまうのだ。だからぼくは、そのどこにあるかも分からぬ確信を求めて、今日も書物のページを捲ってゆく。


『新装版 海も暮れきる』が描くのは、「咳をしても一人」などの自由律俳句で知られる俳人・尾崎放哉の死までの八ヵ月の日々の模様である。帝大を卒業し、一流企業に就職したものの酒癖の悪さによって辞職に追い込まれた放哉は、妻とも別れてひとり放浪の生活に入る。一燈園、常称院、須磨寺、常高寺といった各地の寺院での下働きを経、やがて放哉は瀬戸内海に浮かぶ小豆島を安住の地と定め、そこで死を迎えた。本作の舞台となるのがこの小豆島である。


所でぼくは、詩人の評伝、もしくは伝記といったものは対象となる詩人の負の側面が描かれていればいるほど優れていると思っている。これはぼくの勘なのであるが、詩というのは決して美しく澄んだ心根から生まれてくるものではない。詩とは自身の内にある世俗的で醜いどろどろとした感情に拮抗するような形で発生する。だから評伝で詩人の明らかに迷惑なふるまいや常軌を逸した言動の記録などを読むと、ぼくはすっかり安心してしまうのだ。


そういった観点から読むと、本作ほど徹底して詩人という存在の実質に迫った作品は珍しいと言える。もちろん本作は正確な意味での評伝や伝記ではなく、実際の放哉の人生や書簡を基にしたフィクションなのではあるが、放哉が病により衰弱してゆく様子や、それに伴う心境の変化などが生々しく描かれている。

机の上に置かれた十円紙幣が、眼にとまった。どうせ長くはない命だ、酒以外に自分の気持をいやしてくれるものはなにもない、と、思った。死にたかった。体中に、憤りがつきあげてきた。(中略)自分の周囲にいる者が、一人残らず冷酷な人間に思え腹立たしかった。なぜ自分のような人間を助けてくれることをせず、いじめようとするのか。

無一文であり、俳句仲間や島の知人からの施しを受けなければ生きてはゆけぬ放哉は、しかし相手から少しでも冷たく扱われるとたちまちいじけきって、施しで得た金で酒をかっくらい暴れてしまう。かと思えばちょっとした相手のやさしさに涙をながし心底から感謝の念を抱く。さらに悪いことには、日増しに悪化してゆく肺病への恐怖が、そうした放哉の不安定さを加速させてゆく。


安住の地と決めてやってきた島での生活も、決して穏やかなものではなかった。毎日のように金の無心の手紙を知人には出さねばならず、病気が良くなる気配もない。


作者はひたすら放哉の「俗」を描き出す。別れた妻への執着、金への執着、己の命への執着を描き出す。そこでは「世を捨てた流浪の俳人」といった神秘的なベールは一切剥ぎ取られ、壊れゆく身体をもった赤裸の人間が投げ出される。


けれど、いや、だからこそ、そうした生活を通して詠まれる放哉の俳句は、しだいに不思議な冴えを見せるようになる。

放哉は、句をまとめて俳誌「層雲」に送ることを繰り返していたが、自分の気持が冴えた形で表出されるようになっているのを感じていた。病勢が悪化してゆくのに、句が生色を増してゆく。自分の内部から雑なものがそぎ落されているような気がした。


   咳をしても一人

   なんと丸い月が出たよ窓

   (中略)

   とつぷり暮れて足を洗つて居る

   墓のうらに廻る

   赤ん坊ヒトばんで死んでしまつた

衰弱が激しくなり、遂には寝たきりとなってしまっても、放哉は親族や友人を島へ呼ぶことはせず、あくまで「ひとりで死にたい」と言いつづける。きっとそれが放哉にとって、詩人として譲ることのできぬ最後の一線だったのだ。『尾崎放哉全句集』(ちくま文庫)に収録された最晩年の書簡でも、病院への入院を勧める友人に対し「何卒『詩人』として、死なしてもらひたひ……」と懇願している。


詩人が詩人として生き、死ぬとはどういうことなのか。本作はその実態を苛酷なまでに正確な筆致であぶり出す。どんなに透明ですぐれた詩を書く詩人でも霞を食って生きている訳はなく、世俗にまみれた社会で、崩壊する身体を、不安定な心を、死の瞬間まで引きずって生きる。少し考えれば当然で、だが誰もが目を背けたい真実を語る本作はそれゆえに貴重であり、それゆえにわれわれの魂を、深い処でなぐさめてくれる。

『新装版 海も暮れきる』吉村昭(講談社)
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