第8話 編集者・磯川との異種格闘技戦のゴングが鳴ろうとしている

文字数 3,101文字

「一つ、お願いがあります。僕なりに『阿鼻叫喚』を刊行するとしたらどうするかを考えてきたので、一応、つき合って貰ってもいいですか?」
 磯川が言いながら、ゲラをテーブルに置いた。
 ゲラには、赤ペンや鉛筆でびっしりとチェックが入っていた。
「これ……わざわざやってくれたんですか?」
 日向は驚きを隠せず言った。
「せっかちなものですから」
 磯川が眼を細めた。
 日向はゲラを読み進めた。
 
 この表現、最高です。この展開、僕は好きです。ここの主人公のセリフ、斬新です。この比喩、噴き出してしまいました。
 
 磯川が鉛筆で入れてくれている感想から、彼の「阿鼻叫喚」への愛情が伝わってきた。

「ビックリマークや語尾の『っ』に鉛筆で『?』が入っているのはどういう意味ですか?」
 日向は疑問を口にした。
「ビックリマークとみなさんが呼んでいるマークの正式名称は、エクスクラメーションマークといいます。因(ちな)みに語尾の『っ』は促音です」
 磯川が淡々とした口調で説明した。
「エクスクラ……なんとかっていうのと促音に、なにか問題があるんですか?」
「いえ、作家さんが意図して使う表現であれば、差別表現以外は問題ありません。日向さんがエクスクラメーションマークと促音を多用するのは、その場面を臨場感あるものにしたいからですよね?」
「まあ、ほかの人の小説を読んでいて、怒りや驚きのセリフにリアリティがないというか感情が伝わってこないというか……そんなふうに感じることが多いので。だから、どうしてもエクスクラ……ビックリマークや促音を数多く使ってしまうんです」
 エクスクラメーションマークや促音が少ないほうが、すっきり美しい文章になるのはわかる。
 だが、日向は磯川が言うように臨場感を大切にしたかった。
「この表現も同じ理由ですよね?」
 磯川はゲラを捲(めく)りながら訊ねてきた。
「ここです」
 磯川が鉛筆で「?」マークがついている会話文を人差し指で押さえた。
 
「はふふぇへふはふぁい……ふぉえふぁいひまふ……ひゅうひへふはふぁい」
 助けてください……お願いします……許してください……
 星野は、口の中に丸めた靴下を突っ込まれた土佐犬フェイスの命乞いを心で訳した。

「靴下を口に詰め込まれている男のセリフですが、ほかの作家さんは普通に書きます。たとえば、靴下を口の中に詰め込まれた状態の発音が聞き取りづらいということは地の文でも説明できますが、日向さんはそれをやらずにセリフで表現しています。作家として読者に稚拙(ちせつ)な印象を与えてしまうリスクを背負ってまで滑稽(こっけい)なセリフに拘(こだわ)ったのも、臨場感を優先した結果ですよね?」
 磯川の質問に、日向は驚きを隠せなかった。
 日向の作風を理解してくれているとは思っていたが、想像以上だった。
 
 ――面白かったけど、セリフはやり過ぎじゃない?
 ――なんか、漫画みたいな感じがする。
 ――笑っちゃったけどさ、文章が下手に思われるからちゃんと書いたほうがいいよ。

 日向は「阿鼻叫喚」が完成したときに、本好きの親しい友人に原稿を読ませて感想を聞いた。
 磯川のように、土佐犬フェイスの男のセリフに関して肯定的な感想をくれた者はいなかった。
「はい。俺に言わせれば、丸めた靴下を口の中に突っ込まれている状態で、助けてください、お願いします、と普通に発音できている登場人物のほうが滑稽です。じっさい、自分の口の中に靴下を突っ込んで喋(しゃべ)ってみたのでたしかです」
 日向はきっぱりと言った。
 自分の文章を美化しようとしているのではなく、本音だった。
「それでいいと思いますよ。因みに、土佐犬フェイスの男という表現を土佐犬のような顔をした男と書かなかったのはなぜですか? いままでは会話文ですが、今度は地の文です。地の文はドラマでたとえればナレーションです。ドラマの登場人物のセリフで造語や略語を使っても、ナレーションでは例外を除いて正しい言葉を使います。日向さんの意図を教えてください。それとも、地の文という意識がなくて書いたのですか?」
 磯川のレンズ越しの眼が鋭くなった。
 磯川に試されている……というより、日向の作家性をたしかめようとしている。
 信念の暴走か、それとも、本能のまま書いた結果としての暴走かを……。
 日向は無言でスマートフォンを取り出し、LINEアプリを開き文面を打ち込み磯川に送信した。
「LINE、読んでみてください」
 
 大輔は大雨洪水注意報並みにびしょ濡れになった女の陰部を、「ラ・カンパネラ」を弾くピアニストさながらの指使いで愛撫した。

「この文章の意図は、大輔(だいすけ)という登場人物がいかに軽薄で女たらしかを読者に印象付けるためです。それともう一つは、土佐犬フェイスもこれも地の文でこういう書きかたをする作家はいないので、免疫がない読者に強烈なインパクトを与えることができるのかなって。つまり、確信犯です」
 タレントの売り出しと同じだ。
 爆発的に売れるタレントを作るには、過去にいないタイプを探すのが鉄則だ。
「なら、大丈夫です。さて、そろそろ本題に入りましょうか」
 磯川が無表情に言った。
「本題?」
 日向は訝(いぶか)しげに訊ねた。
「はい。ウチでデビューするに当たって、日向さんに確認したいことがあります」
「ちょっと待ってください。さっき言いましたよね? 俺は『未来文学新人賞』で……」
「文芸第二部でデビューしてしまえば、エクスクラメーションマークと子音はすべてカットされ、『はふふぇへふはふぁい』と土佐犬フェイスはノーマルな文章に直されてしまいます。辛くない韓国料理を、誰が食べたいですか? でも、文芸第三部ならある条件さえ満たせば、大きな手直しを入れずに『阿鼻叫喚』をベストセラーにする自信があります」
 畳みかけるように磯川が言った。
「ある条件って、なんですか?」
 日向の心は、ふたたび揺れ始めていた。
「阿鼻叫喚」のリアリティと臨場感を求めた日向の文章の「毒」を、磯川は理解して受け入れてくれた。
 文芸第二部の編集者が、磯川と同じように「毒」を受け入れてくれるとは思えない。
「日向さんに確認したいことがあるって、言いましたよね?」
 日向は頷いた。
「日向さんは、ベストセラー作家になれる可能性はあるが直木賞作家にはなれないAと、直木賞作家になれる可能性はあるがベストセラー作家にはなれないBと、どっちを選びますか?」
「え……どういう意味ですか?」
 日向は質問を返した。
「日向さんの作風では、直木賞を始めとする主要文学賞を取ることは……いや、候補に上がることもないでしょう。ですが、ベストセラー作家にはなれます。作風を変えれば文学賞の候補には上がっても、ベストセラー作家になるのは厳しいでしょうね」
 磯川が抑揚のない口調で言った。
「両方を狙える作家には、なれないということですか?」
 間を置かず日向は訊ねた。
「皆無とは言いませんが、その可能性は極めて低いでしょう」
 磯川がにべもなく言った。
「磯川さんは、直木賞を狙うなら俺に個性を殺せと言いたいんですか?」
 日向は磯川を見据えた。
「逆です。ベストセラー作家になるために、直木賞に背を向ける勇気はありますか? と訊ねているんです。イエスなら、僕と文芸第三部は全面協力しますよ」
 磯川が言いながら、五センチのホームズ像を日向に差し出してきた。

(次回につづく)

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