着物熱と大正令嬢

文字数 1,269文字

 濃紫に白薔薇を描いた着物、アールデコ風の蝶の染め帯、白地に矢絣の御召……いずれも桐簞笥に大事にしまってある、私の着物たちである。
 明治から昭和初期にかけての着物が好きで、一時期、そうとうな熱量で入れあげていた。そうした引力があの時代の着物にはある。
 きっかけは、京都に住んでいたころ、近所の骨董店で買った着物と帯である。矢絣御召と、臙脂色の地に椿を刺繡した帯。御召という着物をそのときはじめて手に取った。しばし言葉を失うほど美しかった。ぎゅっと目が詰まった重みのある縮緬で、上品な光沢とハリがあり、しなやかさを感じるいっぽう、凜とした風格もある。いっぺんに虜になった。沼に足を踏み入れた瞬間だった。
 つぎに買った着物も覚えている。青地に銀の市松模様の夏御召。濃い青と鈍く輝く銀色が、夏の海そのもののような着物だった。このときにはもうすっかり、沼に溺れていた。
 明治時代の着物は、抑制が効いている。暗く濃い、渋い色合いの地に、描かれる模様も控えめである。しかし明治も後半になると、西洋の空気を取り込み、だんだんと華やかさが増してゆく。そして大正時代に到り、くびきから解かれたように鮮やかで独創的な着物文化が華麗に花開くのである。
 いったい、着物に西洋の油絵風タッチで花を描こうと思いついたひとは誰なのか。薔薇に音符、レコード、はては天使まで、着物の柄になっている。なんでも取り入れてしまうおおらかさ、あるいは貪欲さに驚く。
『花菱夫妻の退魔帖』の舞台は大正九年。主人公の鈴子は裕福な華族令嬢である。こうなると、彼女が贅を尽くした着物を身にまとって登場するのは必然となる。蝶や薔薇の着物、藤柄の紋紗の羽織、百合の染め帯、等々。新緑の時季には緑色を中心に、藤、杜若といった時季には紫を、梅雨入り前には青色を……といったふうに、季節の移り変わりをコーディネートの色合いに反映させている。なにをどう組み合わせるのか考えるのは、とても楽しかった。
 大正九年は春先までいわゆる西班牙(スペイン風邪)が猛威をふるった年で、世界戦争後の不景気にも見舞われている。けっして楽な時代ではないが、鈴子の着物姿は華やかで眩しく、清々しい。それはこの物語にとって彼女が光であり、一陣の風である象徴でもある。着物という視点からも、この物語を楽しんでいただければ嬉しい。



白川紺子(しらかわ・こうこ)
三重県出身。同志社大学文学部卒業。2011年に「サカナ日和」で第154回Cobalt短編小説新人賞に入選後、`12年「嘘つきな五月女王」でロマン大賞を受賞。同作を改題・改稿した『嘘つきなレディ~五月祭の求婚~』で`13年にデビュー。著書に『後宮の烏』シリーズ、『下鴨アンティーク』シリーズ、近著に『京都くれなゐ荘奇譚(二) 春に呪えば恋は逝く』がある。

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