〈4月12日〉 砥上裕將

文字数 1,156文字

「年をとると、春になって、桜を見ることができるというのが、どのくらい有り難いことなのかよく分かるよ」
 と、母はこちらに小さな背中を向けながら言った。
 はあ、なるほどそういうものなのか、と聞き流した言葉だったが、なぜだか桜を見る度に、思い出すようになった。
 二十代の頃の僕にとって、桜はただ描くための画題でしかなかった。
 それから少なくない月日が流れて、二十代が終わり、桜を描けるようになり、桜を描きたいという情熱が消え去ると、やっと桜を眺められるようになってきた。
 桜を分析し見つめるのではなく、ただその木の下に(たたず)み眺める。一つ一つの花を細かく見つめ、スケッチをする時のように形を調べ、枝ぶりや花の重さや揺れ方を見るのではなく、ただ遠くにあるものとして眺める。
 そうすると、自分が桜を描くために費やした時間や、情熱や、そのすべての瞬間が胸に迫るように立ち現れるようになった。
 長い時間の中にちりばめられた幾つものエピソードが、一瞬で桜と共に胸の内側から(よみがえ)って来た。不思議なことだけれど、それでいて、僕は自分の人生で一番新しい時間の中にある桜を見ていたのだ。
 終わりと始まりが綺麗に結ばれるようなそんな感覚を、僕は桜の木の下で感じていた。すると言葉にし難い妙に清らかな感覚が、いまを生きているのだなあという実感とともに心に現れてきた。
 
 桜の花が風に揺れた時だった。
 あれが「春になって、桜を見る」ということだったのだろうか。
 母が言っていた「有り難いこと」というのは、積み重なって来た人生が、一瞬にして立ち現れてくるあの瞬間のことなのだろうか。
 無数の花々が、春の穏やかな風と、桜の背景に映る水色の空と、これまで経てきた数限りない出来事と一緒に目の中に飛び込んでくるとき、桜はただ花を眺めること以上の意味を持って、胸に迫ってくるものなのかも知れない。
 今年は去年と同じように桜を眺めることは難しくなってしまった。けれども春になると思うことはいつも同じだ。
 自室の汚れた窓に映る遠い桜を見ていても、春になると、幾つものことを思い返す。
 思い返すことで、春の中にいて、自分もまた巡りくる春と四季と自然の一部なのだと感じられる。
 そして、時を重ねて来たこと、ただ単に生きていることにすら、言葉に出来ないほど深く感謝している自分に気付く。




砥上裕將(とがみ・ひろまさ)
1984年生まれ。福岡県出身、水墨画家。『線は、僕を描く』で第59回メフィスト賞を受賞しデビュー。

【近著】

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