『ホーム・ラン』スティーヴン・ミルハウザー/あなたを誘う光(千葉集)

文字数 2,136文字

本を読むことは旅することに似ています。

この「読書標識」は旅するアナタを迷わせないためにある書評です。

今回は千葉集さんが、スティーヴン・ミルハウザー『ホーム・ラン』について語ってくれました。

千葉集

ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。

平凡で退屈な現実にとつぜん走った亀裂。その裂け目から覗く幻想の光明をいちど垣間見てしまえば、人はもう戻れません。


短篇小説の名手として知られるジョイス・キャロル・オーツによれば短篇とは「(英語で)一万語以下で、作者の想像力が膨張されていくのではなく、圧縮されている」物語だそうで、本短編集『ホーム・ラン』には精巧に圧縮された人造宝石のごとき輝きが、それもあやうい蠱惑を秘めた輝きが並べられています。


最初の一篇「ミラクル・ポリッシュ」は、まさに輝きについてのお話です。生活に倦み疲れ、ペシミスティックな眼でしか世界を見られない男が、さえない訪問セールスマンから研磨剤を購入します。その研磨剤を鏡に塗ってみたところ、そこにはいつもの自分――でありながら、自信と希望に満ちた姿が映し出されていたのです。同じくくたびれた妻を鏡の前に立たせてみると、この上なく生気に溢れた姿に。


かれらは鏡のなかで美男美女になったわけではありません。身体的特徴にはなんの変化もない。ただ、現実の自分とは正反対の雰囲気の自分がそこに映っていた。ただそれだけで、彼らの気分と生活と人生は一変してしまいます。まさに光の魔法です。


でも(時折ミルハウザー自身が示唆するように)光はかならずしも影を払うものではなく、むしろ影をはっきりと現してしまうものです。「ミラクル・ポリッシュ」の主人公も、光にあてられたことでむしろ影に囚われてしまう。


光への誘惑がより危険な形で表出するのは「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」です。


郊外のとある小さな町で起こった「町の存続を脅かす出来事」、それは住民たちにおける自殺・心中の大流行でした。特に死ぬ理由もない善良な老若男女が浮かされたように、競うようにして、自死していきます。本篇はその事件に関する調査報告という形で淡々と記されていき、そしてこのような文章で締めくくられます。

そしてもしかすると、私たちの町で起きていることも、ただ単にそういうことなのかもしれない。覚えのある、それ自体は無害な思いのちらつきが、抑えられずに膨らむまま放置された結果、自制せぬことの暗い術を、私たちの町の住民が育ててしまっただけのことではないか。顔をそむける前にその瞬間、遠い姿が手招きするのを、私たちもまた見たのであり、黒い翼が脳のなかでばたばた羽ばたくのを、私たちも聞いたのだ。


(『ホーム・ラン』−「私たちの町で生じた最近の混乱に関する報告」71P)

裂け目からの昏い誘惑が、技巧的かつ印象的に語られているのが「アルカディア」。


閑静な森に設けられた静養所〈アルカディア〉。本篇はその施設のパンフレットの体裁をとります。そこで紹介されているのは、自然豊かな場所で楽しめるアクティビティや、風光明媚な名所、栄養満点の食事メニュー、どん底の状態から”移行”したひとびとの体験談……。


一見すると、なんの変哲もないレジャー施設の紹介文です。いかにもデトックスやリフレッシュに最適そう。


しかし、パンフレットを丹念に読み進めていくとどうもきな臭い。陽気でハッピーなムードに、得体の知れない不穏さが潜んでいる。映画『ミッドサマー』前半部のような空気感といえばいいでしょうか。みんな笑顔なのだけど、その笑顔の裏で世界の裂け目があなたを手招いています。

 

裂け目は常にダークなものとはかぎりません。本短編集はバラエティ豊かな品揃えを用意しています。特に絶妙なのがこれ、本作の表題作「ホーム・ラン」。


大リーグのある強打者の放った打球が球場を飛び出し、大気圏を突き抜け、果ては銀河系まで超えてしまい、それと並行して打ったバッターの試合後の歩みが語られていくアイデア掌編です。


語り口の選択がすばらしいですね。アナウンサーによる実況というスタイルで、作中の実時間では少なくとも十数年は経っているはずなのに、「ホームランボールの行方を熱狂しながらリアルタイムに追うあの十数秒」というナラティブにその時間感覚をみごとに落としこんでいます。ページ数にしてわずか四ページに宇宙スケールの壮大さと人一人の人生を封じた、小さな宝石のような逸品です。


本短篇集に収録されているどの短篇もそれぞれ物語の魅力が凝らされています。こうした輝きにならば身を委ねてもいいかな、とおもえてしまえるほどに。


もしかしたら、ミルハウザーこそが、裂け目の向こう側で手招きしているものの正体なのかもしれませんね。その光に触れてしまったら、もう帰ってはこれません。お覚悟を。

『ホーム・ラン』スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸 訳(白水社)
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