『第七官界彷徨』尾崎翠/見知らぬ花の花束の(岩倉文也)

文字数 2,282文字

次に読む本を教えてくれる、『読書標識』。月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回は『第七官界彷徨』(尾崎翠)について語ってくれました。

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。

Twitter:@fumiya_iwakura

西條八十が戦前に作詞した歌謡曲を聞いていると、モダンなものって永遠にモダンなんだなと思える。たとえば一九二九年に発売された「東京行進曲」などを聞くと、「ジャズ」「リキュル」「ダンサァ」「ラッシュアワー」「シネマ」「デパート」といった単語が頻出する。これらは当時、東京という大都市におけるモダンな生活を象徴する、魅力あふれる言葉だったのだろう。


現代では当たり前となり、もうそれを聞いても何も感じなくなってしまった言葉、モノ、コト。けれど、かつて人々がそうしたものに抱いていた新鮮な感覚、あるいは憧憬は、作品となることで永遠に生きつづける。モダンの真の意味とは恐らくそこにあるのだ。われわれの退屈極まりない日常、言語生活に、一抹の清涼な風を送ってくれる。それは過去から吹いてくる。昔の人のあこがれが、今のぼくらを少しだけ、生きやすくしてくれる。


尾崎翠の『第七官界彷徨』をモダニズム小説と呼んでよいのかは分からないけど、一九三一年に発表された本作が今の読者に与えるのは、過去も現在もないといった、一種無時間的な浮遊感である。


主人子の小野町子は、赤いちぢれ毛をもった詩人志望の少女である。しかもただの詩人志望ではない。町子は、「人間の第七官にひびくような詩」を書きたいと願っている。「第七官」とは、普通に考えれば五官と第六感の先にある新たな感覚器官のことを指しているのだろうが、町子にもその正体はおろか、どんな形のものなのかさえ分かってはいないのだ。


そんな町子は「漠然としたひとつの気分」から一助、二助という二人の兄、そして従兄の三五郎と東京のおんぼろ平屋で奇妙な共同生活を送ることになる。この兄というのが曲者で、一助は分裂心理なる著者の創造した独自の心理学の研究をしており、かたや二助はこやしの調合や蘚(こけ)の恋愛心理の研究に没頭している。三五郎はと言うと音楽学校への進学を目指す浪人生であり、調律の狂ったピアノを叩いたりコミックオペラを歌ったりして日々を過ごしているのである。


さて、ともすればボリス・ヴィアンばりの幻想小説になってしまいそうな本作ではあるが、そうした一癖も二癖もある個性的な登場人物との生活を送りながら町子が探し求める「第七官」とはなんなのか、もうすこし詳しく探ってみたい欲望にぼくは駆られる。


まずは本文中から「第七官」に関する記述を集めてみよう。

広々とした霧のかかった心理界が第七官の世界というものではないのであろうか。


音楽と臭気とは私に思わせた。第七官というのは、二つ以上の感覚がかさなってよびおこすこの哀感ではないか。


第七官というのは、いま私の感じているこの心理ではないであろうか。私は仰向いて空をながめているのに、私の心理は俯向いて井戸をのぞいている感じなのだ。


蘚の花粉とうで栗の粉とは、これはまったく同じ色をしている!(中略)私のさがしている私の詩の境地は、このような、こまかい粉の世界ではなかったのか。

こうして読んでみると、「第七官」とは二つ以上の感覚が重なり合って呼び起される、霧でありかつ粉でもあるような哀感の世界、ということになるだろうか。またそこには、空を見ているのに井戸を覗きこんでいるといった、上下逆転の感覚も含まれている。


思えば、この小説には嗅覚や聴覚を刺激する描写が多かったことに気がつく。かれらの住む平屋には常にこやしや香水のにおいが充満し、また音楽も絶えることがない。文章だけを見ても、突如二助の書いた漢字とカタカナのみの論文が挿入されるなど、読者の視覚をも幻惑してくる。そしてそれらをより助長しているのは、作中に最後まで漂う曖昧な恋の気分である。

よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

というのが本作の冒頭であるが、この恋がいったいどのようなものであったのか、結末まで読んでもどこかぼんやりとしている。たしかに三者三様の恋の模様が描かれはするものの、なにか劇的な展開を迎えるわけでもなく、すべては取り留めのない雰囲気へと解消され、空気中を所在なく移ろうばかり。


されどこの気の抜けた、それでいて鋭利な皮膚感覚に支えられた本作の作品世界こそが、まるごと未知の「第七官」を暗示しているとは言えまいか。


われわれが本作から読み取るのは、古くさい日本の姿ではない。ましてや幻想的な遠くの世界でもありえない。本作が置かれているのは、その狭間の世界である。


まるで駅のベンチに置き忘れられた見知らぬ花の花束のような本作からは、いまだ嗅いだことのない涼やかな匂いが香っている。


妖しい香りに誘われて、ついそれに手を伸ばしたとき、「第七官界」への道はわれわれの前に開かれるのである。

『第七官界彷徨』尾崎翠(河出書房新社)
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