〈4月4日〉 吉川トリコ

文字数 1,148文字

知らない道を歩く


 どこか遠くへ行きたい。
 いつも焦れるように思いながら暮らしている。
 そうかといってお金もないし、仕事もないし、遠くになんてそうそう気軽に行けるもんでもない。それにもしかしたら、私が焦がれている〝遠く〟って物理的な距離の〝遠く〟ではないのかもしれない――なんてこのごろは考えている。パリにいてもソウルにいてもマラケシュにいても、あらかじめGoogleマップにしるしをつけておいた観光スポットやショップをめぐり、ガイドブックに書いてあったとおりのおすすめメニューを注文する。まるきりiPhone奴隷。それってほんとに"遠く"なんだろうか。
 四月の最初の土曜日、ほしい本があったので都心にある大型書店まで運動不足を解消するため散歩がてら出向いたら、不要不急だの外出自粛だのあれだけテレビで騒いでいるのもなんのそのといった様子の人出で、まあそんなことを言ったら私だってこうしてのこのこ街まで出てきているわけだからおたがいさまなんだけど、さすがにちょっと怖くなって人のいないほう、人のいないほうへと進んでいたらいつのまにか人気のないオフィス街に入り込んでいた。
 まだ少し風が冷たくて、買ったきりどこにも着ていくあてのなかった春物のスカートをばっさばっさと捌きながら、普段めったなことでは近づかない一角を通り抜ける。外壁にモザイクタイルで社名の書かれた渋ビルを見つけて写真を撮り、純喫茶のおもてに貼りだされた日に焼けたメニュー表を、異国の地のメニューを覗くみたいな好奇心と驚嘆でもってしげしげと眺める。コーヒー360円。オムライス630円。まだ陽も高いというのにひっそりと営業するベルギービールの店。コロナ騒ぎが終息したら飲みにこよう。
 なんてことのないオフィス街だとばかり思っていたけれど、よく知っているつもりだった人の知らない一面を見せられたみたいだった。こんなことぐらいで旅の中にいるような高揚感を得られるなんてずいぶんお手軽だけれど、私の中の世界地図が拡張された気がする。iPhoneではたどりつけない新大陸を発見したのだ! ……とか言いながらiPhoneがなかったら生きていけないんだけど、それはそれとして、明日も私は知らない道を歩く。


吉川トリコ(よしかわ・とりこ)
1977年生まれ。2004年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記 Rose/Bleu』『女優の娘』『ベルサイユのゆり』などがある。

【近著】

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