あの人気芸人が小説を執筆! 『アブノーマル』(ニシダ)

文字数 9,965文字

お笑い芸人たちがエンタメの地図を大きく塗り変え、小説の世界にも進出しつつある昨今――気鋭の若手芸人・ニシダさん(ラランド)が短編小説を執筆!

才能あふれるこの注目作の試し読みを大公開いたします!



初出:「小説現代」2022年12月号

『アブノーマル』


コンビとしては順調のはずなのに。

笑いの種になってるはずなのに。

こんなにも、誰かにもっと理解されたい。

  これをコンビ愛と呼べるのか サンマリノから考えるコンビの関係

  2022年7月19日 00:08


  七月十四日(木)放送『2022上半期ブレイク芸能人勢揃い!! ドッキリ適性調査』録画にて視聴。ラテ欄を見たときから、この番組はどちらに転ぶのだろうかと期待半分不安半分と感じていた。今年の上半期ブレイクタレントに昨今のバラエティーではあまり見なくなったようなドッキリを仕掛け適性を見る三時間特番。よく言えば古典的、悪く言えば古臭いドッキリ(私自身は古い人間であって肌に合うといえば合うのだが)ばかり。けれど痛みを伴うなんとやらに関するお達しのせいなのか、熱湯やカラシ、ワサビなどを使用したお馴染みのドッキリは終始出てこず。〇〇年代のテレビ大好きの私からすれば、少し寂しいものも感じつつ。今やテレビでは見ない日はないと言っても大袈裟ではない、飛ぶ鳥を落とす勢いのしぽぽちゃんへのドッキリがブーブークッションだったのがなんともお粗末。それであればカラシやらワサビが見たかったなぁ…なんて(笑)。製作陣に演出の意図を小一時間問い詰めてやりたい。




二〇二二年七月二十二日 金曜日



 目を覚ますと、とうに昼を過ぎていた。枕元に置いてある目覚まし時計は動いていない。電池切れになったまま、置きっぱなしになっている。出待ちの列に並んでいたサラリーマン風の男性がくれたプレゼント。二年以上前に出た事務所ライブでくれた。その日も学級会のネタをやった。去年末の賞レース決勝の時の学級会よりもネタ時間は長く、ボケ数は少ない。古田がキャラ付けのためと言って伊達メガネをかけていた頃だ。今はもうやめてしまったけれど、当時は劇場に来る女の子にメガネをかけた姿はそこそこ人気だった。そのメガネは最近外を歩く時の変装用に使われているようだ。


 いつも起きるたびに電池を買い忘れたことに気がつく。特に寝坊した時は激しく後悔し、自責の念に苛まれるけれど、自分の中でどうにも優先順位が上がらない。だから時計の針はいまだに動かない。今日は仕事が夕方からだ。YouTubeの撮影だった。


 スマートフォンを使っている途中に寝てしまったらしかった。ベッドから落ち、床に転がるスマートフォンから僕の笑い声が聞こえた。


 三ヵ月ほど前から始まった生放送のラジオ番組。その違法アップロードされたものがYouTubeで流れている。話しているのは自分なのに、案外何を話していたか覚えていないもので、新鮮だった。身体を起こしてもやることがない。寝起きの頭をぼんやりとさせたままで聞いていた。


 古田が初めて地下アイドルのライブに行った話。僕は大笑いしている。聞いたファンは皆、サンマリノはコンビ仲が良いと思うのだろうか。芸人というのは、仕事なのか仕事じゃないのか線引きがきっと分かりづらい。これは仕事で話しているのだから、楽しそうに話す。それだけのことだった。けれどラジオの本番が終わってしまえば、会話などほとんどないに等しい。

 僕の感じていることと、ファンからの見え方に齟齬が存在する。それを意識するだけで血の流れが澱んでいくようだった。


 仰向けからうつ伏せに身体を半回転させ、腕を伸ばしてフローリングに落ちたスマートフォンを探す。頭はまだ枕に乗せたまま床を手探りにした。指紋が微細な埃を絡めとる。しばらくしてスマートフォンを探り当てた。ちょうどベッドと床の隙間に半分突っ込まれた状態だった。


 熱を持ったスマートフォンは電池残量がわずかになっている。最近電池の減りが極端に早い。この前石畳の道に落として画面にヒビが入ってからだ。ヒビ割れ防止のフィルムを貼っていたのに、あまり効果はなかったようだ。そのヒビから電気が漏れ出しているのではないかと僕は少し疑っている。


 充電ケーブルを差し込む。スマートフォンは安心したみたいに右手の中で小さく震えて、充電し始めた。


 違法アップロードの僕らのラジオ。二人写った写真が再生画面に使われている。コメント欄には違法アップロードなのを知ってか知らずか、三十件ほどのコメントが書き込まれていた。


『なんかサンマリノは二人とも、絶妙に面白さが足りてないんだよなぁ』というコメントに、

『は?』

『お前は、友達がいないんだろうなぁ』

 という返信が書かれている。


 違法アップロードされたラジオのコメント欄での言い争いを見るのが僕は少し好きな気がした。愚かだからだ。人間というのは一人一人声も話し方も違っているはずなのに、コメント欄の文章を眺めると全員が似たような没個性になっているのも面白かった。


『古田さんもアイドルとかハマるんだ なんかショックだわ』

『作家?の笑い声うるさすぎ』皆好き勝手に書いている。

『今回も面白かった~アップロードありがとうございます。古田くんが国見をイジってるけど、互いに理解しあっているサンマリノって本当に素敵だなって思う。解散逆ドッキリでも思ったけど、本当に最高のコンビ愛』コメントの最後には涙を流す黄色い顔の絵文字が添えられている。

 コンビ愛という言葉に引っかかってしまった。あのブログにも現れた言葉。同じ番組を見ているはずなのに、こうも感想が変わってしまうのか。僕を正しく見てくれている人は誰なのだろう。このコメントの主か、あのブログの筆者か、それとも古田なのか。


 急に色々考えたからか、眠気は覚めた。ベッドから起き上がりテレビをつけて、最近買ったYogiboに寝そべった。ローテーブルには昨日飲んだ缶チューハイの空き缶が置いたままだった。テレビからはニュースが流れている。男性アナウンサーの落ち着いたトーンの声を聞いている間に、眠気は再びやってきて、脳みそは回転速度を落としていった。僕はまた場所を変えて眠った。


 アラームもなしに目が開き、それと同時に意識が覚醒した。十六時前。テレビはまだ付いていた。仕事に間に合うか、ギリギリの時間だった。


 等身大のクッションに身体が搦め取られたように沈みこんで上手く起き上がることが出来ない。転がるようにして床に降りて、僕は家を出た。脱ぎ散らかされたズボンをそのまま穿いて干されていたTシャツを着た。


 YouTubeを撮りに事務所に向かう。大通りに出てすぐにタクシーに乗った。YouTubeの撮影には間に合った。けれどスマホを家に忘れた。




  前置きはさておいて、表題の件である。番組の一番の盛り上がりは疑う余地なく、サンマリノへの解散逆ドッキリであろう。知らない人のために(この記事を読んでいる人にサンマリノを知らない人はいないとは思うけれど)紹介すると、サンマリノは昨年M‐1の決勝初進出。芸歴八年目の若手漫才師だ。M‐1ではかなり爪痕を残した方だろう。台本なのかアドリブなのか観客には分からない、綱渡りのような漫才で、私も年末には彼らにだけ触れた記事を二本書いた。二人ともキャラ立ちが良く、シュッとしていてテレビ向きだ。


  今回のドッキリの概要をおさらいすると、ボケの国見はドッキリとしてツッコミの古田に解散したいと告げる。売れ始めて芸人が本当にやりたいことと違う気がしてきた。テレビではなく俳優として舞台に立ちたい。舞台俳優になるために解散したい。これが国見の解散ドッキリとしての言い分だ。対して古田は逆ドッキリとしてあっさり解散を受け入れる。何度注意しても遅刻する。ネタを飛ばす。仕事を舐めてる。今まで二人で頑張って来て、ここまでやって来たのに解散したいっていうならそうしよう。お前がこんなやつだとは思わなかった。そう吐き捨てて古田は楽屋を後にする。そして次の仕事のネタ番組の収録で国見にネタバラシ、というのが一連の流れだ。Twitter等でパブリックサーチをして見るに、感想の多くが好意的でサンマリノのコンビ愛に感動したというようなものが多く見られた。実際そういう描かれ方だったし、そういった意見が多いのは当然だろう。


  しかし、私からすれば、本当にそれだけの感想で良いのだろうか、そう思えてならない。ネタバラシでお互い涙を流している青春映画のような美しさに騙されてはいないだろうか。以下はあくまで筆者の個人的な推測なので不快に思われる方はブラウザバック推奨。




二〇二二年七月二十三日 土曜日



 タクシーの中、スマートフォンの小さな画面に映る記事を読み終えて、ヘッドレストに頭を預ける。掛けられた白いレース生地のカバーが滑ってズレた。散髪したての短く刈り込んだ髪がスパイクみたいに食い込んでいるのがわかる。


 車酔いにはいまだに慣れることがない。こめかみのあたりが何重もの輪ゴムで締め付けられるように緩く痛む。血の巡っていない脳に不必要な情報が入らないよう、目を閉じていた。


 目を瞑っていると、徐々に痛みと不快感は眠気に置き換わっていく。意識と無意識の中間地点で、そのどちらとも釣り合いが取れずにしばらく車の揺れだけを感じて過ごした。


 車内に取り付けられたモニターから聞き覚えのある声が聞こえた。最近どこかで聞いた声。会話したはずだったけれど、顔が思い浮かばない。誰の声なのか、気がかりで耐えきれず目を開くと眼球に膜が張ったように視界が白く滲んだ。ピントが合い始める頃にはもう次のCMの映像に切り替わってしまっていた。声の主は誰だったのか分からずじまいでモヤモヤする。


 隣を見てみると古田は開いたノートパソコンを膝に置いて、難しそうな顔で液晶画面を睨んでいた。しばらく宙を睨んでは、またパソコンに視線を戻してキーボードを打つ。自分の世界に没入して集中しきっているというよりは、あえて僕を無視しているように思われた。


 他人から自らに向けられた目を気にして一つ一つの所作が全て芝居じみている。関節からピンと張ったピアノ線で誰かに操られているみたいだ。


 古田とは十年来の友人だった。けれど友人関係はここ数年で終わりを迎え、ビジネスパートナーとしての関係に改まった。


 会話がない時間は不仲の証明ではなくなった。古田との会話は今では仕事として扱われるようになった。


 タクシーが到着してドアが開く。運転手のほんのわずかな手の動きにドアの開閉が操られるのをいつも不可解に感じてしまう。助手席で息を殺して座っていたマネージャーが金を払ってくれる。


 最近僕たちに付いてくれるようになった高林くんはまだ社会人になって日が浅いらしく、万引きGメンにいの一番に目をつけられそうな立ち居振る舞いで一生懸命に頼りなく働いていた。


 僕が先に外へ出る。トランクに積んだスーツカバーを古田のも一緒に取り出し、手渡す。ありがとう。そう一言だけ古田はつぶやく。今日はまだ一度も、いや今日どころか久しく古田と目があっていないような気がした。


 テレビ局の入り口には、検温用の顔が映る立て看板みたいな機械と消毒用のアルコールの入った容器が並んでいる。スーツカバーとリュック、スマートフォンを手に持っていたから、どうやって手の消毒を済ませれば良いのか分からず、短く戸惑い、腹立たしかった。誰も見ている人がいないので、誤魔化してアルコール消毒は無視して通った。


 楽屋に向かう廊下の途中、通りかかった自販機でコーラが買いたくなった。両手はまだ塞がったまま。


 自販機の前に立ち止まる。ポケットの小銭を取りたかったけれど、荷物を床には置きたくない。スーツカバーの持ち手を肘のあたりまでずらし右手を自由にして、リュックを前に抱くようにしてポケットを探った。けれどいくら探しても指先に小銭の感触はない。


 手間取っている間に古田も、そして高林くんも楽屋に入っていくのが、廊下の先の遠くの方で小さく見えた。


 楽屋に入ると、畳の上でスーツに着替える途中の薄いインナーだけになった姿の古田が、

「学級会のネタな。短いバージョン」とだけ言った。

 姿見に映った自分だけを見ていた。わかった。そう一言だけ答えた。それ以上は、話したかったとしても話すべきことが思いつかなかった。



 ネタ番組の収録。客は入っていなかった。だだっ広い冷たいスタジオの一角に豪奢なハリボテ背景がポツンと立ててある。


 沢山のカメラの前でネタをやる。ネタをやるというよりは台本のセリフを読み上げるだけといった感覚だった。観客がいないからそう思うのだろうか。スタッフは皆、疲弊しきっているようで笑う気力もなさそうに見えた。同じネタを二度収録した。僕がセリフの途中で嚙んだからだった。スタジオの外に出るまでの短い間に、古田はスタッフの一人が履いているスニーカーをやたらと褒めそやした。いかに珍しいものか周りにいる大勢に説明していた。古田はスニーカーを集めるのが昔から好きだった。


「お前はまだ高校の時の上履き履いてるもんな」

 興味を持てず、退屈しながら聞いていた僕に古田は急に話を振って来た。そこまで貧しくないわ。そう僕は言った。


「そこまでってなんだよ。貧しいのは認めてんのかよ」スタジオの大きな空洞に笑い声が響いた。大勢のスタッフに見送られて、マネージャーと僕と古田だけスタジオを出る。廊下に出てから楽屋に入るまで、そしてその後別れるまで古田と会話はなかった。


 明日のスケジュールを確認する高林くんも僕に向けて話をすることはほとんどなかった気がした。明日僕の仕事はコンビでの一現場のみで、古田はそれ以外にも個人の仕事が入っていたから、説明の分量に差があったことでそう思われただけなのかもしれない。


 古田は先に楽屋を出て行った。テレビ局の楽屋には窓がなく、独居房みたいだった。古田に遅れて一人楽屋を出て、玄関に近づくにつれ、少しずつ外の景色が見えるようになっていって時間が知覚できるようになった。


 日の長い夏の夕方の暖色は蒸し暑い夜の闇に変わり、テレビ局の巨大なビルの光に俗っぽく照らされている。


 タクシーチケットが支給されるときを除いて、帰りはいつも電車に乗る。同世代の平均月収を超える金が手に入るようになった。けれど月末になるといつも金がなかった。消費者金融からの借金も減ってはいない。今日タクシーに乗ると給料日までもたなくなる。


 一般人に顔を指されることも多くなってきた。けれど話しかけられるのも写真を撮ってとお願いされるのも嫌いではなかった。そもそも芸人になるような人間がそれを嫌いなはずがないと僕は思っている。古田が目深に帽子を被り、いつでもタクシーを使うようになったのが理解出来なかった。


 駅に向かって歩く。PASMOはこの前の営業先の岡山で失くしてきたから切符を買った。電車に乗る。電車はそんなに混んではいなかった。


 なんとなく周囲を見渡す。車両の隅っこ、優先席の向かいにある座席のないスペース。車椅子の絵が描かれているところで窓にもたれかかるようにして立った。


 スマートフォンを手に取る。Twitterを開く。タクシーで読んでいたブログ記事のところで操作を中断したままになっていた。もう一度記事を読む。


 何故「がい」がひらがなで表記されているのだろう。嫌だとか不快だとかは思わなかった。

 ブックマークに追加してスマートフォンをポケットにしまった。周囲をまた見回すけれど、僕のことを芸能人として認識している人はいなかった。




  今回の番組、そして今までの国見の出演番組を見るに、彼は“発達障がい”だと私は考えている。

  たびたび聞く遅刻の多さも発達障がいから来るものなのだろう。四月に放送されたドミノを並べる番組企画で見せた異常な集中力。これもそういった特性から来るものだ。まず間違いないと思われる。そういった国見の特性を考慮すれば、あのドッキリは美談に出来る話なのか。私には疑問である。古田の言葉は、もちろんドッキリであると分かった上であっても、彼が受け入れられるものだろうか?そういった特性含め彼を受け入れてやるのが本当の愛だと私は思うのだ。まずは然るべき医療機関で検査を受けて、周囲の理解を得るのが良いのではないだろうか。診断が出れば自らを正しく認識できる。国見の今後の芸能界での活躍を祈っている。




二〇二二年七月二十四日 日曜日



 今日の仕事はコンビでの雑誌取材が一つ入っているだけだった。


 僕はスマートフォンでまた、ブログを読んだ。


 ブックマークしてあったブログ。僕はこういう言われ方を受け入れることはないにしろ自覚がないというわけでもなかった。『障害』とまではっきりとではないけれど、他人に指摘されることも多かった。


 仲間内、たとえば高校生のころに友人から言われるとか、芸人仲間で酒を飲んでいる時に言われるとか、そういう場面場面で指摘されることがあった。そういう時に使われる言葉はネット文化の中から生まれて、若い人から一般的に使うようになる。単語の意味は分からなくても、侮蔑に近い意味があるということだけは何となく分かった。僕は僕が普通で生きているから自分ではよく分からない。他人から言われるたびに少しずつ、「自分は普通ではない」という自覚が芽生えていった。


 ネットに転がっているチェックリストを見たこともあった。遅刻が多いとか忘れ物が多いとかしゃべりすぎてしまうとか、当てはまる事項が多いのも事実だった。子どもの頃から通知表には落ち着きがないと書かれることも頻繁にあった。


 けれど僕自身の自己判断と他人から断定されるのとではまるで違う。思えば僕にそういう言い方をしなかったのは古田だけだ。高校の頃からずっとそうだった。だからコンビを組んだのかもしれない。


『然るべき医療機関』と書いてあるけれど、それはどういったものを指しているのだろう。病院なのか、心理カウンセラーのような人たちのことだろうか。

「発達障がい 医療機関」と調べた。誰もいない自室だったけれどコソコソと、リビングではなくトイレで便座に座って調べた。


 検索結果を見ると沢山の病院が表示された。東京都の福祉保健局のサイトが一番信頼出来そうだったので開いてみる。発達障害に関するPDFの資料が沢山あったけれど、文字が多かったので読まなかった。僕は長い文章を読むのが苦手だった。


 とにかく発達障害を診てくれる病院は沢山あることだけはたしかだった。誰に見られるわけでもないけれど、検索履歴は全て消しておいた。




二〇二二年七月二十五日 月曜日


 給料日が来た。朝九時入りの仕事に、僕は八時四十五分に目覚めた。テレビ番組のスタジオ収録だった。大勢のスタッフや共演者のいる仕事だ。


 目覚めた瞬間、心臓が凍るような気分だった。仕事で必要になるものは全てリビングから玄関の動線の床に置くことにしている。服を着替え、必要なもの全てを床から拾いあげ、リュックを背負って家を出た。大通りでタクシーを拾おうとしたけれど、財布に金が入っていないことを思い出した。急いでコンビニに寄ってATMで金を下ろした。


 口座には六十万円弱の金が振り込まれていた。キャッシュカードを読み込む時間が長く感じられる。二万円をおろし、扉の開いた窪みからお札を二枚取り出し、店を飛び出してタクシーを探す。目白通りの反対車線には何台もタクシーが走っている。


 赤信号の車の連なり、数十メートル先にタクシーが見えた。空車、そしてVACANTという赤い潰れた文字が表示されている。信号が青に変わり、徐々に車が流れ出した。タクシーが近づいてくる。


 あのー、すみません。声を掛けられ振り向いた。コンビニ袋を持った若い可愛らしい女性だった。


「すみません。声かけて。違ったら申し訳ないんですけど、サンマリノの国見さんですか?」

 タイミングが悪いなとは思ったけれど、僕には無視することは出来なかった。

「はい、そうです」

「やっぱり。いつもラジオとかYouTubeとかチェックしてます~、めちゃ応援してます」

「あぁ、ありがとうございます」

 後ろの車道をやたらと気にしながら僕は話した。

「もしよろしかったら写真とか撮ってもらっても良いですか」

「えぇ、もちろん。撮りましょう。マスク一瞬だけ外しますか」

「あっ、ありがとうございます」

 女の子は自撮りで写真を撮った。スマホの中の僕の顔は、顔を綺麗に加工してくれるアプリのせいなのか青白く、人間らしくない不器用な笑顔だった。

「こんなところですみませんでした、今からお仕事ですか」

「はい。今からテレビ局で」

「そうなんですねー、お仕事頑張ってください。応援してますー」

「はい、応援してください」

 僕がそう言うと、彼女は僕から離れてコンビニの入り口に立っていた金髪の男の元に小走りで寄っていった。


 道路に目線を戻すと赤信号になってまた車が並んでいた。タクシーは僕を通り過ぎたところの二十メートルほど先に停車している。


 タクシーまで走った。横に着いたところで、空車の表示は賃走に変わっていることに気が付いた。


 スーツを着た若い短髪の男が後部座席で汗を拭いていた。


 次の空車のタクシーが僕のところに来るまで三分は掛かった。もう九時になる頃だった。古田、高林くん、そしてその上に付いているマネージャーの佐々木さんがいるグループLINEに、

「申し訳ありません。朝起きれませんでした。遅刻します」

 と、信号待ちのタクシーの車内でメッセージを送り、すぐにスマートフォンを画面を下にして座席に置いた。返信を見るのが怖かった。


 道が混んでいなければ二十分掛からない。九時入りの仕事ということは十時三十分頃に撮り始めるだろうから、問題はきっとないはずだと自分自身に言い聞かせていた。頭の中に無数の自分の考えが声になって響いた。


 タクシーの運転手が話しかける声が聞こえず、何度も話しかけられてからやっと気が付いたようだった。


 あらかじめ運転手には急いでいるので高速を使ってくれと伝えていた。都心環状線が事故渋滞で混んでいるから、とまでは僕には聞こえたけれどそれ以降は分からなかった。知らない道路と地名だったし、中年の運転手の囁くような低い声は、プラスチックのボードに阻まれていた。とにかく早い方でお願いしますと答えた。



 スマートフォンを裏返して見るとLINEのグループトークにメッセージが来ていた。

「何時くらいになりそうですか?」

 佐々木さんからだった。

 佐々木さんは四十歳くらいの女性のマネージャーで、落ち着いた人だった。僕もサンマリノも怒られたことは一度もなかった。テレビに出始めた頃から僕らに付いてくれている。

「二十分くらいで着くと思います。本当にすみません。」

 そう返した。

 既読の数は三つになっていて、全員が僕の遅刻を認識している。タクシーはなかなか動かず、僕は小刻みに足を震わせたり、太ももを握り拳で叩くことしか出来なかった。



 九時三十分。テレビ局の前でタクシーを降りた。


 急いでテレビ局に入るとソファーが置いてある玄関先のスペースで高林くんが待っていた。

 高林くんは僕と目が合うと、立ち上がり手に持っていた入館証を僕に手渡した。


 楽屋に入ると着替えとメイクを終わらせた古田がノートパソコンに向かっていた。僕が遅刻を謝ると古田は、

「良い良い、今日は収録に間に合ってるだけ良い」

 そう答えた。僕の方は見ていなかった。怒られなかったのは意外だった。けれど怒られないということが最も辛い責め苦のように感じられた。楽屋に佐々木さんはいなかった。

 収録は予想通り十時三十分に開始されると楽屋に置いてある台本の表紙に書かれていた。着替えを済ませてメイクルームに行くと、先輩芸人がメイクをしていた。

「お前、遅刻したんやって」

「はい、本当にすみません」

「別に俺はええけど、さっき古田が喫煙所でキレとったで」

「えぇ、楽屋でさっき謝ったとき全然怒ってなかったですけど」

「そうか、ほんならまぁええか。それより遅刻のおもろい理由考えときや。どうせイジられるんやから」

 そう言ってメイクの終わった先輩は立ち去っていった。




気になる続きは、「小説現代」2022年12月号でお楽しみください!

ニシダ

1994年7月24日生まれ。山口県出身。上智大学在学中に相方のサーヤと出会い、お笑いコンビ「ラランド」を結成。ツッコミを担当するほか、ソロで多数執筆業を抱えている。

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