単なる迷惑行為/グレゴリー・ケズナジャット

文字数 2,540文字

文芸誌「群像」では、毎月数名の方にエッセイをご寄稿いただいています。

そのなかから今回は、2022年5月号に掲載されたグレゴリー・ケズナジャットさんのエッセイをお届けします!

単なる迷惑行為


 女性は僕と同じく二十代前半か、それとももう少し年下か、おそらく学生と呼ばれる年齢範囲には入るだろうが、実際に学生かどうか、自分には知りようがない。容貌もこれという特徴はなく、何せ身体全体は厚いコートに覆われており、顔の下半分もマフラーに隠れていて、もし女性がそのまま通勤者の流れとともに動いていれば、自分の視線はそこに留まることなく先へ進んだのだろう。


 改札から逬る人波は押し寄せ、狭い通路でさらに濃縮し、出口の方向に流れ込んでいく。地上へ上がる階段がその先にあり、無数の背中が徐々に浮き上がり、視野から消えていく。


 そこで女性は座り込む。


 躓く、のではなく、崩れ落ちる、のでもない、優雅な動作で回れ右をし、真ん中辺りの段に素早く腰をかける。どこから取り出したのか携帯が片手に現れる。女性は目の前までそれを持ち上げ、退屈そうな表情で見るともなしに画面を眺める。


 ひどく自然な仕草だ。たとえばカフェの一角や、電車の席で、同じ光景を目の当たりにすれば意識することはなかっただろう。そのありきたりのワンシーンを切り取り、通勤ラッシュに移植すると、あまりにも場面とずれていて、見る側が当惑するのも無理はない。辺りの戸惑いは数十メートル離れた僕にも伝播してくる。


 みんな急いでいるのになぜ邪魔するのか。主張でもあるのか。単なる迷惑行為じゃないか。


 近くの誰かが舌打ちをしながら、そういうふうに注意したのではないかと思われるが、音はこちらまで届かないのでそれは勝手な想像に過ぎない。


 無視されたのか、言葉が伝わらなかったのか、または最初からあまりにも非常識な行為と判断し、見て見ぬふりをするのが最善だと辺りの集団意識で決まったのか、いずれにせよ人波は再び動き出し、中州を囲う河川のように、女性の前で左右の二流に分かれ、女性の先でまた合流していく。女性は申し訳なさそうな素振りもなく、かといって別に勝ち誇ったような表情でもなく、あたかも周りの人が存在しないかのように、ただ階段の真ん中に鎮座するだけである。


 僕も流れに身を任せ、女性と眼を合わせずに通り過ぎて階段を上っていく。


 大学院に入る前の冬だった。日本に来て三年目で、入学までの残り半年は、名古屋にある友人の実家に居候させてもらい、英会話学校のバイトで学費を貯めていた。その傍ら小説と、近代文学に関する概説書や参考書を手当たり次第に読み、入学に向けて少しでも「国文学」研究の土台を固めようとしていた。その日も、栄の書店で本を買い、行きつけのカフェで勉強する予定だった。


 カフェに着くと大通りを見晴らす二階の席に陣取り、鞄から出した本とノートをテーブルの上で拡げた。確か、白樺派だの、耽美派だの、近代文学史をくっきりと区別してくれるキーワードを暗記していたところだった。しかしいくら年表を眺めても、勉強に身が入らず、階段で見た光景を振り払えなかった。


 なぜ女性の行動に執着していたのか。今となって顧れば、当時読んでいた作家たちに感化され、平凡な日常にいきなり出現したフシギに、無理矢理にでも深淵性を投影して、意味を探るような性になっていただけという可能性を否めない。ところが通勤者の流れにぽっかりと空いたそのアポリアを探っても、自分には意味が見出せなかった。


 頭に引っかかった情景を理解できなくても、せめて言葉にして出したかった。テーブルの上のノートに鉛筆を当て、指先で適切な表現を探した。


 初めて日本語で文章を書いたわけではない。高校生の頃から様々な授業でレポートや作文を書いてきたし、研究ノートも日本語でつけていた。繰り返し教え込まれた通り、明確で、模範的な文体で、伝えたいことを分かりやすく書いてきた。第二言語の作文を習う際、まずは円滑なコミュニケーションが重視される。いかに書けば意味が通じるのか、相手にしてもらえるのか、たとえ誰にも読まれることのない文章でも、そういった不安は常に脳裏にあり、「分からない」と言われないよう、ネイティブ以上に常識に合わせて文章を書く。第二言語で「分からない」と言われるのは、特別な重みがあるからだ。


 しかし分からないことを分からないまま、穴の空いた状態で模索していく文章には、別の姿勢がいる。別の文体がいる。そして何より、読者に信頼を託す必要がある。ルールを破っても、言いたいことが判然としなくても、それでも非常識と即断せずに、虚心に付き合ってくれる、という希望を込めて。


 辞書を片手に小一時間をかけて、辛うじて半ページほどのものを書き上げた。具体的にどのような文章になったかは、もはや記憶になく、それから十年余りの度重なる転居で、その紙切れはどこかへと消えた。自分の表現力の乏しさに呆れたのは憶えている。書きたいことが書き切れないという歯痒さも。そもそも何が書きたいかと訊かれても、英語でも日本語でも、当時は返答する言葉がなかった。


 その歯痒さとは別に、妙な快感も伴った。解決できそうにないパズルに挑むときのように。その光景から明快な意味は引き出せなかったし、意図していた文章も出来上がらなかった。しばらくの間、表現と向き合った、それだけだった。ページの上に撒き散らされた言葉は、その過程の副産物だった。


 その意味で、初めて日本語で書いた小説になったと思う。

グレゴリー・ケズナジャット

作家、1984年生まれ。近刊に『鴨川ランナー』。

2022年11月号「群像」に、中篇「開墾地」が掲載されています。

『鴨川ランナー』(著:グレゴリー・ケズナジャット)

日本と世界の狭間で生まれた中篇2本。


「鴨川ランナー」……外国から京都に仕事に来た青年の日常や、周囲の扱い方に対する違和感、その中で生きる不安や葛藤などを、「きみ」という二人称を用いた独特の文章で内省的に描く。京都文学賞受賞作。

「異言」……福井の英会話教室を突如やめる羽目になった主人公は、ある日同僚の紹介で結婚式の牧師役のバイトを紹介されるが……。


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