『失われたいくつかの物の目録』J・シャランスキー/喪失という名の創造(千葉集)

文字数 1,434文字

その詩的なタイトルの通り、現在では失われてしまったさまざまな事物に関しての短い文章がつづられています。


ただし、語り方は一様でありません。最初の一篇である「ツアナキ島」では、著者である「私」が波の下に沈んでしまった平和な島とその島を”発見”した西洋との交わりについて、いかにもジャーナリスティックな視線で記述します。ところが、火事で消失し後に公園として転用されたドイツの領主館を舞台にした「フォン・ベーア家の城」では、極めて個人的な著者自身の子ども時代の思い出が語られていくのです。かとおもえば、隠遁した元官僚が狂気的な情熱をもって編纂した私家版百科事典を題材にした「森の百科事典」ではその元官僚を語り手に据え、小説的な技巧でもって書く。


エッセイともフィクションともつかない、これらの不思議な物語のあつまりはなんなのか。


著者はいいます。

すべての本と同じように、本書もまた、何ものかを生き延びさせたい、過ぎ去ったものを甦らせ、忘れられたものを呼び覚まし、言葉を失くしたものに語らせ、なおざりにされたものを追悼したいという願いによって原動力を得ている。(p.25)

過去というと、なぜだか完結して読み尽くされたもののようなイメージを抱きがちです。わたしたちは過去のすべてを知っているような気がしている。未知や未見は未来に属する事柄なのだとおもいこんでいる。


しかし、古代ギリシャのひとはいいました。「未知を知ることはできるのはそれを思い出しているからだ」と。


過去にこそ未知の知識がある。未踏の土地がある。わたしたちに知られなかったものどもを名指し、蘇らせ、姿形を与えること。それこそシャランスキー流の追悼であり、喪なのです。本書のあきらかなリスペクト先であるヴァルター・ベンヤミン曰く、「過去はある秘められた索引をとともなっており、その索引によって過去は救済へと向かう」。思い出すことによって初めて垣間見るイメージを、わたしたちは過去の余白に果てしなく書き込んでいきます。


ある映画において、再生されているときに捉えられなかった表情や景色が一時停止されて初めて認識されるように、連続的な時間が破壊されてしまったからこそ見出せるものもあるのでしょう。そして、それをえぐり出すための技法もある。


おそらく、この本は、本というよりある種の儀式に近い。だから多様な様式の祝詞があり、呼び覚まされるものにふさわしい形の語りで物語られていくのです。


葬儀のような本だと思えば、黒を基調とした装丁と内部に施されたあるビジュアル的なしかけ(とても印象的なのでぜひその目でたしかめてください)もなるほど、非常にマジカルです。


しかし一方で、本の形をしていなければいけない理由もあります。

「図書館とは世界の出来事の真の舞台だからである」(p.43)。

本あるいは文字とは例外なく、すでに語られたものです。連続の断たれた過去そのものです。読者はそれを読むことによって知り得なかった歴史を追想できる。自分だけの余白を手にいれることができる。


失われたいくつかのものについての物語から、未知をみつけましょう。破壊されつくされた廃墟に新たな家を建てましょう。そういう方法でしか、描きえない未来もありますよ。

『失われたいくつかの物の目録』ユーディット・シャランスキー/細井直子(河出書房新社)

千葉集

ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。

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