澤田瞳子・虚構と真実のあわい 「宮尾登美子」

文字数 1,718文字




 宮尾登美子の作品は恐ろしい。私がそう気づいたのは、二十歳もすぎてからだった。

 中学生の頃、初めて『一絃の琴』を手に取ったときは、そんなことは微塵も感じなかった。主人公たちの土佐一絃琴への思いにただただ打たれ、聞いたこともないその琴の音色を思い描くだけで精いっぱいだった。

 高校生活三年間とほぼ時を同じくして朝日新聞日曜版に『クレオパトラ』が連載された折も、毎週それを楽しみに読んだにもかかわらず、やっぱりその恐ろしさは分からなかった。ただその前後に読んだ『櫂』や『陽暉楼』、『序の舞』とは一線を画した古代ロマンに圧倒され、その煌びやかさに幻惑された。

 だが大学三回生のある日である。私は久々に『櫂』を手に取って、あっと息を飲んだ。

 この作品の冒頭、毎年夏の始めにやってくる楊梅売りから主人公一家が楊梅を買うシーンは、季節の初物を巡る晴れがましさも添って、宮尾作品屈指の「美味しそうな」場面。ほんの半日で傷んでしまう繊細な果実に、塩を馴染ませ、争うようにみなが口に含む描写のいささか過剰なまでの生々しさに、突如、未知のものが肌身に迫る驚きを感じたのである。

 いや、『櫂』だけではない。思い返せば宮尾登美子の作品にはみな、読み手の懐にすっと入り込む感覚の近さがある。読者と作品の距離感を喪失させ、物語で情景で言葉でもって読み手を絡め取る熱量は、一つは出身地の高知を主な舞台とした筆者の土俗性に依拠しているだろう。しかし我々が宮尾作品に絡め取られる最大の理由は、そこに活写されているのがみな、嫉妬もし怠けもする偽らざる生の人間だからなのではあるまいか。

 たとえば『一絃の琴』の主人公である苗は、躾の厳しい祖母に育てられた礼節も道理も弁えた女性。だが一絃琴の師匠の死後、その身の回りの世話をしていた女性から腹に亡き師の子がいると打ち明けられると、苗は「早うこの場から逃げなければ」との気持ちに急かされ、突然、その場から駆け出してしまう。しかもそれがただ逃げるだけではなく、
 ――肩にかかった美代の指を一本ずつ剥がしてから走り出していた。
 というのだから、恐ろしい。主人公の心に潜む醜さとともに、それを遠慮なく掘り起こす作者の冷徹なまなざしに思わず震えあがるほどだ。

 一絃琴の伝授に精魂傾ける苗は、周囲が跡目と認める高弟を退けるため、親類の仲立ちを得て、養子を取る。幾ら琴の道を守り通すためとはいえ、音才の有無も知れぬ赤子を養い、跡取りとして育て上げようというのは、有体に言って無謀な賭けであろう。だがすべての感情をわが物として飲み下し、頑ななまでに我を通す主人公の偽りなき姿こそ、まさに宮尾作品の真骨頂。人間の賢さ愚かさを分け隔てなく記すその筆は、安易な感傷なぞ退ける険しさがある。

 ところで先ほど私は、『櫂』の冒頭を「美味しそうな」場面と記したが、宮尾作品にはそれ以外にも多くの食べ物の描写がある。『一絃の琴』に登場する鯛のそぼろのおにぎり、『序の舞』のほっしん(炒り粔籹)に祇園祭の日に食べる砂糖がけ白玉、『楊梅の熟れる頃』の「正ちゃん食堂」の多彩な総菜としめ鯖を混ぜたごもくずし……。

 しかしながらこれは決して、ただの美食の描写ではない。エネルギッシュな土佐の光景や、登場人物への冷徹なまでのまなざし同様、これらの色どり豊かな食べ物の数々は、読者の味覚をまっすぐに刺激し、作品と読み手の垣根を取り払う。そしてはたと気づくと、我々読者は感性の奥深くまで踏み込んできた宮尾作品に切りつけられ、虚構と真実のあわいでもはや取返しのつかぬ深い傷を負う。これほどに痛みを伴う読書体験ほど恐ろしく、またかけがえのないものはない。

 宮尾登美子が主な舞台として描いた明治・大正期ははるかに過ぎ去り、日本はまた新たな時代へと進もうとしている。だが彼女の作品の中にかつての土佐の光景は永遠に刻まれ、そこに描かれる人々の生々しさはいまだ我々の胸を打つ。つくづく、恐ろしい作家である。

「小説現代特別編集二〇一九年五月号」より

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