どんな船よりもさまざまな異国へ/高野麻衣

文字数 3,232文字

2020年に発出された緊急事態宣言下、人々の命や健康を守るため、経済や行動の自由は制限され、異様な空気が社会全体を覆いました。

その影響を受けなかったものは、およそ世界にひとつもなかったのではないでしょうか。

そんな中で、「物語」や「エンターテインメント」の役割やあり方は、どのように変わったのでしょうか。


2020年4月1日以降の各1日をテーマに、treeで連載した100名の作家による100作の掌編企画『Day to Day』の書籍版発売を記念し、「緊急事態と物語/real and narrative;2020-2021」というテーマで、気鋭の論者に分析していただきました。

高野麻衣(たかの・まい)


文筆家。上智大学文学部史学科卒業。音楽雑誌編集を経て、2009年より現職。

クラシック音楽とマンガ・アニメを中心に、映画、舞台、アートなどカルチャーと歴史、人物について執筆・講演。「闘うプリンセス」など女性についてのコラムにも定評があり、2012年『花園magazine』を創刊した。

著書に『フランス的クラシック生活』(PHP新書)、『マンガと音楽の甘い関係』(太田出版)など。そのほか、書籍やメディア作品の原作・企画構成・監修を多数手がける。

どんな船よりもさまざまな異国へ

わたしたちを運んでくれる書物


エミリ・ディキンスン

Emily Dickinson (1830-86)  食野雅子 訳

 小さな小さな港町に生まれ育ったにもかかわらず、私は文化における「地域格差」という概念を知らない子どもだった。インターネットのない1990年代にもかかわらず、である。


 故郷にはオペラハウスも美術館もミニシアターの映画館もなかったけれど、大きくて美しい市立図書館があった。そして、幼い頃から絶え間なく本を与え続けてくれた母と、それに育まれた「物語」があったからだ。


 物語の中で、私はロンドンの探偵やフランス王妃やニューヨークのストリートキッズのボスになることができた。宇宙空間を漂う天使や、コソボの従軍記者にだってなれた。好きな物語を見つけると図書館で関連書籍を読みつくし、同じ都市や時代の映画を集め、雑誌の切り抜きを集めてはスクラップブックを作った。マンガの中で流れる音楽を聴きたくなれば、レコード店へ急行し、物語の世界を再現した。


 とにかく、物語さえあれば、と私は本気で思っていた。24時間365日、学校へ行く間も惜しいほど楽しかった。世界は知りたいことであふれていた。実際、没頭しすぎて学校をサボったことも多々あった。壮大なファンタジーや余韻に震える大河小説を読み終えたあとで、むざむざ日常へ戻ることなどできるだろうか。私はそんな物語の続きを生きたいし、書きたいのだ。



 2020年の春、浴びるように読書をしながら思い出していたのは、そんな途方もなく贅沢な少女時代だった。世界規模の巣ごもり生活の中、おなじように立ち止まって、かつての自分を振り返った人は多かったのではないだろうか。あなたは何冊の本を読んだだろう。当時、さまざまな「チャレンジ」がSNSのタイムラインを席巻したが、ブックカバーチャレンジなど本にまつわるそれは、どこか懐かしく、心あたたまった。女性誌などで広くカルチャーを紹介している私は、自宅で愉しめる本やCD――いずれも「もう売れない」と言われてきたものたち――の需要がかつてなく高まっていくことに、少し高揚すらしていた。


 一方で同時期、音楽や演劇の興行は先の見えない苦境に喘いでいた。2020年のライブ・エンターテインメントの市場規模は、前年の7割減まで落ち込んだという。親しい関係者たちと励まし合う日々が続いたが、それでもあきらめている人はひとりもおらず、多くのホールやミュージシャンがステージのオンライン配信に取り組んだのが印象的だった。とりわけ迅速だったのは、ベルリン・フィルなど配信事業に先鞭をつけていたヨーロッパの団体たち。日本でも、びわ湖ホールがワーグナーの楽劇『神々の黄昏』を無観客ライブ配信、1万人がオペラを同時視聴したことなどが話題になった。「文化に携わる人々の情熱を知り、支援し、SNSでともに分かち合う」というエンタメの新しい可能性を教えてくれた、それ自体が物語だった。


 日本のエンタメ業界で2020年を象徴するのは、なんといっても『鬼滅の刃』のヒットだが、作品評価とは別次元で、大きな要因の一つがタイミングだった。映画館は比較的早期に再開されたが、アメリカ本国の状況を受け、ハリウッド大作の多くはいまも公開延期が続いている。いつもはジャンプアニメ/マンガと無縁だった人たちも、時間を忘れ没入できる、大評判の「物語」を欲していたに違いない。フィクションが、いかに人々に必要とされているか。勇気を与えるか。それを象徴するような社会現象だ。


 動画配信サービスも浸透し、サブスクの映像作品を次から次へ鑑賞するという近年の流れが一気に加速した。『愛の不時着』などがヒットしたNetflixは2020年1~3月期に1577万人、4~6月期に1009万人の会員数増加を記録したという。ディズニーは6月、自社の配信サービス「Disney+」をスタートし、劇場公開予定だった大作を独占配信した。問題点もあるだろうが、良質な作品がどんどんサブスク解禁をはじめ、入手困難だった名作を見直すことができたり、新しい世代に発見されたりする点は恩恵だ。なにより、かつての私のような地方生まれの子どもたちも、外国に暮らす人も、さまざまな事情で家から出られない人も、同じ環境で同じ物語を分かちあえる。


 お気に入りの部屋着やおつまみを用意して、物語に没入できるリモート鑑賞。着飾って劇場へ出かける日々があたりまえに戻っても、豊かな家時間の一部として定着していくだろう。どんな状況でも――むしろ苦境にあるほど人は、フィクションなしには生きられないのだから。



 1年前、日常が断ち切られて、最初の混乱が治まった頃から、刻々と変化してゆくカルチャーを観測してきた。表現者の多くが立ち止まり、思索し、そこから生まれた名曲も多かった。きっと今後も増えていくだろう。


 それでも、私の落ちつく場所はやっぱり、本が与えてくれる「物語」だ。SNSを濁流のように覆い尽くした怒りの感情に疲弊し、なにが正しいのかわからなくなったとき、最初にしたのが長編小説を読むことだった。ホワイトハート時代から大好きだった「十二国記」シリーズの新刊4冊。2019年末の発売日に購入しながら、忙しさで寝かせていたそれを一晩で読み終えたとき、自分の心の根っこの部分にしっかりとした芯が甦っているのを感じた。過激であることは難しくない。憤慨することは、熟慮するよりずっと簡単だ。世間が熱狂の中にあると、人は無意識に流されそうになる。しかし、そういうとき留まって考え、書きつづけることこそが私の「勇気」なのだと。


 『Day to Day』を読みながら、私はまた、もはや懐かしい1年前にタイムトリップしていた。作家たちの筆致も空気感も見事にバラバラで、まるであの頃のタイムラインみたいだった。少しずつ日常を取り戻していく4月、5月、6月の物語に、「絶対忘れない」と誓ったベランダの風を思い出した。物語の強さ。そして、途方もない自由と孤独を。


 もちろん、取り戻したいものもある。音楽のあとで湧き上がる歓声。感動を分かちあう握手やハグ。大切な仲間と、思い切り笑いながら囲む食卓。そして、はじめての土地で知らない言葉に囲まれ、世界の広さと素晴らしさを何度でも確認する旅の日々。


 いつか本当の異国と再会するそのときまで、わたしは今日も書物で旅をする。

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