『ガラスの動物園』テネシー・ウィリアムズ/その蝋燭を消してくれ(岩倉文也)

文字数 2,084文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

月曜更新担当は作家の岩倉文也さんです。

今回はテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』(新潮社)をご紹介していただきました!

書き手:岩倉文也

詩人。1998年福島生まれ。2017年、毎日歌壇賞の最優秀作品に選出。2018年「ユリイカの新人」受賞。また、同年『詩と思想』読者投稿欄最優秀作品にも選出される。代表作に『傾いた夜空の下で』(青土社)、『あの夏ぼくは天使を見た』(KADOKAWA)等。最新単行本は『終わりつづけるぼくらのための』(星海社FICTIONS)。

Twitter:@fumiya_iwakura

最近二年ぶりで映画を観に行った。脚本・坂元裕二の『花束みたいな恋をした』である。ぼくは最初、「何者にもなれなかったサブカル好きな男女の話」と聞いていたので、そういった物語を期待して観に行ったのであるが、そしてそういった要素もあるにはあったが、作品の本質は全く別のところにあった。一言でいうとそれは「追憶」である。コロナ禍以前の世界への、十年代カルチャーへの、無邪気でいられた自分への、追憶の視線。追憶という括弧にくくられることによって、ありふれた恋が、その破綻が、なにか象徴的な次元にまで高められ、ぼくのような捻くれた人間の心をさえ、強く揺さぶるのである。


しかし追憶と言えば、思い出す作品がひとつある。それはテネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』である。本作は作者自らが「追憶の劇」と銘打っており、扱われる内容は親子間の葛藤や、また儚い恋の顛末でありつつ、全編を通してどこか朧な、幻想的な雰囲気に満たされた不思議な作品である。


主な登場人物は三人。過去の栄光を懐かしむばかりの母・アマンダ。脚が悪く、極度に内気で自分の世界に閉じこもる姉・ローラ。倉庫に職を持つ詩人で、現在の生活に不満を抱き夜ごと映画館に通いつめる弟・トム。この三人に、劇の後半で登場する青年・ジムを加えた四人が役の全てである。


この作品の最も顕著な特徴と言えば、それはトムの立ち位置だろう。トムは本作の語り手であり、彼の追憶という形で劇は進行する。だからトムは、従来の劇の約束事には縛られない。トムは劇の冒頭、煙草を吹かしながらいきなり観客に語りかける。

トム  そう、ぼくは種も仕掛けもちゃんと用意してあります。だが手品師とはまるで正反対。手品師は真実と見せかけた幻想を作り出しますが、ぼくは楽しい幻想に装われた真実をお見せします。

(中略)

この劇は追憶の世界です。

追憶の劇だから、舞台はほの暗く、センチメンタルであって、リアリスティックではありません。

追憶の世界ではすべてが音楽に誘われて浮かんでくるように思われます。だからいま、舞台の袖でヴァイオリンがはじまったわけです。

こうした趣向だけ見れば、寺山修司監督・脚本の映画『書を捨てよ町へ出よう』を思い出す人もいるかもしれない。こちらでも冒頭、主人公の青年が観客に向かって語りかけてくる。だが寺山修司における実験的、挑発的な語りと、『ガラスの動物園』におけるそれは本質を異にする。前者において目指されているのは作品と観客の間に横たわる境界の解体であり、後者においてはむしろ、それを強化する働きを担っている。つまり全ては終わってしまった出来事であり、もういかなる手段をもってしても改変不能であるという、時間的な隔たりを強化する方向である。過去は変えられない──。そのことが、演劇の決まりごとに反して自由に振る舞うトムを通して、痛切に実感させられる。トムは観客に語りかけることはできても、自らの過去には指一本触れられない。彼は追憶の中においては、ただ無力な登場人物のひとりとして、劇の成り行きを見守るほかないのである。


ではトムは、何故そうまでして追憶の劇を演じるのだろう。それはひとえに、姉のローラのためである。ガラス細工の動物たちを愛し、最後にはその脆く美しい動物と共に、しずかに損なわれてしまうローラ。これにはテネシー・ウィリアムズ本人の経験が強く影響している。本書の解説にも記されている通り、テネシーにはローズという姉がいた。しかしその姉は精神病院への入退院を繰り返した後、テネシーが家を離れている間にロボトミー手術を施され廃人同然となってしまう。


そうした作者の癒しがたい傷は、しかし決して悲劇的な形で演出されるわけではない。全ては追憶のベールに包まれ、抒情的な音楽と、幻想的な照明によって彩られる。


どんな痛みも、追憶の中では美しい。それが救いであるのか、或いはただの祈りにすぎないのか──。

トム  そのろうそくを吹き消してくれ、ローラ──そして、さようなら……

舞台は溶暗し、答えは蝋燭とともに消えてしまった。
『ガラスの動物園』テネシー・ウィリアムズ/小田島雄志訳(新潮文庫)
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