『コックファイター』(C.ウィルフォード)/ニワトリ達のファイトクラブ(千葉集)

文字数 1,844文字

本を読むことは旅することに似ています。

この「読書標識」は旅するアナタを迷わせないためにある書評です。

今回は千葉集さんが異色の「闘鶏」文学『コックファイター』について書いてくれました。

ファイト・クラブ規則第一条、ファイト・クラブについて口にしてはならない。

――チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』(池田真紀子・訳)

闘鶏ほど男らしい競技は存在しません。なぜって、Cock(※米国で男性器を指すスラング) で Fight するのですから。


誤解しないでください。下ネタを書きたいのではありませんよ? いや仮に書きたいのだとしても、違いますよ? ちゃんとワケがありますよ? ほら、バリ語にも雄鶏と男性器の両方を指す単語があります。それに雄鶏を男性性のシンボルとみなす文化は世界じゅうにあるわけで……。


さて、『コックファイター』の主人公フランクは奇妙なハンデを自らに課しています。しゃべらないのです。とある事情で、二年半以上も誰とも口をきかない「沈黙の誓い」を守りつづけています。


口は外部へ言語を発信できる唯一の孔です。口を閉ざすという選択は、みずからを社会から切りはなす行為でもあります。とはいえ、フランクは地の文ではかなり饒舌で、行く先々で知人友人ライバルたちとの社交を欠かしません。


しかし、闘鶏というサークルから離れ、婚約者のメリー・エリザベスの前に来ると、とたんに断絶が生じます。メリー・エリザベスは「闘鶏なんて道徳的にも法的にも間違っている。そんな子どもじみたことは辞めて」と懇願しますが、フランクは聞く耳を持ちません。どころか、「この国の女ってのは、なぜ男をありのまま受け入れないで、自分の父親やほかの誰かのイメージに当てはめたがるんだ?」などとぼやきます。


誰かの父親のコピーにはなりたくない。子どものままでいたい。そんな素朴なだだっ子は、舞台となる七〇年代(改訂前は六〇年代)にすでに滅びつつあったアメリカの闘鶏文化にも通じます。


ノスタルジーは男らしさの主要素である、と作家のグレイソン・ペリーはいいます。かつてワシントン、ジェファーソン、ハミルトンといった建国の父たちも愛好した闘鶏は、その”古き良き”時代の記憶の眠る南部諸州のアンダーグラウンドで生き延びます。フランクたちは南部連盟ルールで戦い、いわゆるディープサウスを南部連盟選手権で巡り、南部連盟トーナメントの表彰する最優秀闘鶏家賞のメダルを夢見ます。南部は、古典的な男性的価値観と同様に、南北戦争から昨今のBLM運動に至るまで絶えず「変化」に抑圧されつづけてきた(と一部の人はおもっている)地域ですから、これもまた闘鶏の懐古的側面とは親和性が高い。


フランクはいいます。

「闘鶏家以外にはガキっぽく聞こえるだろうが、俺たちにとってこの賞を授かることは、世界で最もタフなスポーツのひとつで成しうる究極の達成なんだ」


「闘鶏はイカサマできない唯一のスポーツであり、おそらくこの国に残された最後のフェアな競技だ」

彼にとってアメリカはイカサマに溢れたアンフェアな国であり、男らしくタフであることに対して何の褒賞もくれないのです。理想を実現できる場所は闘鶏場だけ。


フランクは闘鶏にどこまでもピュアに殉じます。口約束の賭けで負けてもスパッと精算し、リング内では審判や規則をリスペクトします。評論家の滝本誠が『白鯨』を引き合いに「闘鶏全書だ」と評した闘鶏知識の細かさも、かれのパッションの表れでしょう。その信仰が、閉じた世界を強固にします。


”本物の男”は世間に理解されないものであり、世間に理解されないからこそ闘鶏は”本物の男”のスポーツたりうる――「なぜなら、そこには明らかに雄鶏たちしかいないからだ。男たちしかいないからだ。」(クリフォード・ギアツ「Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight」より私訳)


不安で孤立した男たちによる、ホモソーシャルでアンダーグラウンドな秘密クラブ。沈黙の誓い。肉体から切り離されたおちんちん(男性性と呼ぶべきでは?)。これらの倒錯は約三十年後に、より破滅的な形で『ファイト・クラブ』へ継承されることでしょう。出版から半世紀以上を経過してもなおアクチュアルな一冊です。

扶桑社『コックファイター』チャールズ・ウィルフォード/齋藤浩太(訳)
千葉集

ライター。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。

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