◆No.1 大友王国を震撼させた大乱
文字数 1,783文字
豊後を震撼させた、あの〈二階崩れの変〉から六年。
大友家に再び大事件が起こります。
皆さんご存知、〈小原鑑元の乱〉です。
(普通、知らないだろ)
この内戦は、鎌倉時代に関東から移り住んだ大友家の一門衆である〈同紋衆〉と、土着の大友家臣である〈他紋衆〉との間で起こった内戦で、「氏姓の争い」とも呼ばれています。両者の間には、300年以上にわたる確執があったのですね。
この大乱で不思議なのは、南関城に約二万もの大軍が集結しながら、一週間ほどであっさりと乱が終結している点です。記録によると戦死者は鑑元側が120数名、大友側が192名とされています。大規模叛乱にしては少なすぎないでしょうか。
「二万」という数自体に誇張があるのかも知れません。
でも反証もないので本当だとすると、なぜそれほどの大叛乱が起きたのに、比較的少ない戦死者だけで、あっという間に終結したのか、疑問に思われませんか。
そう。これにはきっと、深い事情があったに違いない!
そう確信した私は(単純だな)、小原鑑元という人物に関心を持ち、調べ始めました。
調べると、驚くべきことに……あまり資料がありませんでした。
(当たり前だろ)
資料がなければ、自分で考えるしかない。作家魂が疼いて仕方ありません。
(最初からそのつもりだろ)
物語では、この大乱の〈早期終結〉の謎を描きました。
この物語の結末については「悲しすぎる」「切なすぎる」といったご感想をいただきました。私もそう思います。でも、実は史実に従っているんです。
いかにフィクション9割の私の歴史小説でも(開き直るな)、戦の勝敗や人の生死までは変えませんので、最初から決まっている結末だったのです。
この作品では不思議なことが、執筆後に二つ分かりました。
肥後の飢饉、脇役の田北家の所領争いは、物語を面白くし、登場人物に自然な行動を取らせるための私の創作だったのですが、郷土史家の方によるとどうも史実だったらしいのです。
▲復元された大友氏館跡庭園(読者提供)(大分市)
■主な登場人物
吉弘賀兵衛(鎮信)(よしひろ・かへえ(しげのぶ)):重臣吉弘家の長子で、大友義鎮の近習。義鎮派。18歳。
小原鑑元(神五郎)(おばら・あきもと(じんごろう)):大友第二の宿将。肥後方分。他紋衆。宗亀派。
杏:鑑元の娘。16歳。
八幡丸:鑑元の嫡男。8歳。
田原民部(たわら・みんぶ):近習頭。義鎮の義弟で腹心。後の紹忍。25歳。
大友義鎮(おおとも・よししげ):大友家当主。後の宗麟。26歳。
田原宗亀(たわら・そうき):田原宗家の惣領。大友家中の最高実力者。
大津山修理亮(おおつやま・しゅりのすけ):肥後山之上衆の若き当主。
小井出掃部(こいで・かもん):小原家家老。
角隈石宗(つのくま・せきそう):大友軍師。
志賀道輝(しが・どうき):大友重臣。加判衆の一人。宗亀派。
田北鑑生(たきた・あきなり):大友重臣。筆頭加判衆。宗亀派。
仲屋:府内の豪商。おかみが取り仕切る。
戸次鑑連(べっき・あきつら):「鬼」と渾名される大友家最高の将。後の立花道雪