プログラマー視点で読む『偶然の聖地』

文字数 3,520文字

宮内悠介・著『偶然の聖地』。現役大学生でプログラマーでもある朝樹卓さんが、プログラマー視点で読み解きます!


プログラマー視点で読む『偶然の聖地』
闇鍋のような様々な要素が盛り込まれた小説


「あなたは、なぜ山を登るのか?」この問いに、登山家であるジョージ・マロリーは【そこに山があるから】と答えた。この言葉は登山家の信念を端的に示した言葉として広く知られている。では、もし目指すべき山の所在が不明だったとしたら──?

それを描いたのが、本作『偶然の聖地』だ。

山登りではなく、山探しがテーマになるとはどういうことか。

まずは、あらすじを紹介しよう。

地図になく、検索でも見つからないイシュクト山。

時空がかかった疾患により説明不能なバグが相次ぐ世界で、

「偶然の聖地」を目指す理由(わけ)ありの4組の旅人たち。

秋のあとに訪れる短い春「旅春」、世界を修復(デバック)する「世界医」。

国、ジェンダー、S N S――ボーダーなき時代に鬼才・宮内悠介が描く物語という旅。

-『偶然の聖地』文庫版あらすじより


このあらすじだけでは、まだ一体何が何やらといった感じだろう。だがそれもそのはず、この小説は闇鍋のように、SF、プログラミング、ビデオゲーム、オカルト、宇宙論、地政学、トラベルガイド、マンガ、私小説、と様々な要素・ジャンルが盛り込まれ、最終的にまるで偶然かのように、一つの物語へと昇華されているのだ。


「主人公である怜威(れい)は、19歳の夏休み、行方不明となった祖父を探すため、消息を絶ったとされるイシュクト山を目指す旅へ出る」というところからストーリーは始まる。だが冒頭にも書いたようにこの小説は、山登りではなく、山探しが主題になる。なぜならこのイシュクト山という山は、その正確な場所はおろか行き方すら誰にも分からないのだ。そのため通常の冒険小説とはひと癖もふた癖も違う【道程】を辿ることになる。

半ば伝説と化したイシュクト山は、その手がかりもデマや与太話の類が多く、序盤から行き詰まることとなり、主人公たちはまるで場所すら分からない山そのものに翻弄されているかのような気持ちになる。


またこれは本作の構造自体にも言えることで、作中で起こる現象が【ニュートリノ】や【不確定性原理】、【量子重力理論】といった、実際に大学の宇宙論で習うような単語を用いて補完される本格SF的なムーブをしたり、そうかと思えば本文中にある(『ヒューイット・D・シモンズ回顧録』の序章、「ソフトウェア・テストの終焉」より抜粋)といういかにもな引用が全て架空だったりする。このように主人公たち同様、読者である我々も読めば読むほど虚構と現実の境界線が曖昧になり、作者から翻弄されている感覚を味わうことになる。


SF×プログラミングから生まれる新たな物語


本作の大きな魅力の一つはプログラミング概念により、既存のSFにはない新たな設定をいくつも生み出している点だ。

例えば、序盤の白眉に「解体子葬」という描写がある。【解体子(デストラクタ)】とは、【オブジェクト指向】のプログラミング言語においてメモリの空きを作るために後処理をする関数だ。

分かりやすく説明すると、体育館でバレーボールの試合をする場合、コートやボールが必要になる。だが試合が終わると、一転してコートやボールは次に体育館を使う人たちにとって邪魔でしかない。だからこそ後片付けが必要なのだが、プログラミングにおいてその後片付けを一手に担ってくれるのが【解体子(デストラクタ)】だ。このたとえの場合、体育館がメモリで、バレーボールはプログラムである。ちなみに【オブジェクト指向】はそうしたプログラムの集合体で、たとえに合わせるなら、たくさんのスポーツを一度に開催させるオリンピックみたいなものだと思ってもらえれば、理解しやすいのではないか。

解体子葬は、その【解体子(デストラクタ)】の仕組みを人間の葬儀に用いたもので、故人が残した痕跡や、関わった人々の記憶といった、存在そのものが世界から全て抹消される。既存とは真逆とも言える価値観を持つ架空の葬儀だが、それがプログラミングという現代技術により説明されていくことで、いつの間にか説得力を持って納得させてしまうのは、さすが宮内氏だ。


他にもSFとプログラミングの親和性は高く、解体子葬の他にもいくつか新しい概念が本作には登場する。例えばあらすじにも出てきた「旅春」というワード、これは作品世界で起こる説明不可能な出来事を表す宮内氏の創作用語で、プログラミングでいうところのバグだ。「食べなれた馴染みのカレーの味が変化する」というものから、「ラヴクラフトの生んだ神話生物が怜威と幼馴染のジョンが乗っている飛行機に絡みつく」というものまで、全てが旅春の一つなのだ。ここまで懐の深い概念に対し、覚えやすく、なおかつ腑に落ちるネーミングをつけてしまうセンスはさすがだ。


本作におけるマクガフィンとも言える、イシュクト山も当然、旅春の一つであり、最後に残された特Aランクのバグだと語られる。そしてまたバグである旅春を直すデバッガー「世界医」も登場して……と、この設定だけでもワクワクさせられる。もちろんこれらを活かした作劇も見事で、特に世界医が一堂に集結するシーンは、さながら『グラップラー刃牙』における最大トーナメントの参加者紹介に近い高揚感すら感じさせる。

ここまであげた特徴だけで、もう既に本作が面白そうに感じないだろうか。実際、ここまでにあげた一見ごちゃ混ぜのようにも見える様々な要素は、巧みに交通整理され、情報過多を感じさせず、読者を次へ次へと進ませる。だが本作を読み始めた人に、まず印象として大きく残るのは別の部分だろう。なぜか。それは本作のあまりに多すぎる註釈のためだ。


▲『偶然の聖地』宮内悠介・著 講談社文庫 P10~11

この画像のように、文の上下のスペースを利用して、文章一つにこれでもかと註釈が引かれていて、その数は全て数えると300を超える。では一体何を説明しているのか。


いくつか例を挙げると、


【ヤク】− 高い標高に生息するウシ目ウシ科ウシ属の動物。一度見てみたい。


【ナッシュビル】− なぜここにしたのか全然思い出せない。


という少しふざけたようなものから、


【熱海】− 妻の運転で伊東を訪ねた際、熱海で迷ってぐるぐると市内を回り続けることになった。この一件は「エンドレス・アタミ」として夫婦のあいだで記憶された。


【空を飛ぶ飛行機にちゃんと影がついている】− 初期『ファイナルファンタジー』のプログラマーであるナーシャ・ジベリ氏の逸話がモデル。空を飛ぶ飛行機に影をつけたいという要望があり、無理だと思われた翌日にはもう影がついていたという伝説がある。しかし思うのだけれど、スプライトという機能を使えば正味七、八分でできる作業のような気がする。


といったようなものまで、註釈とは名ばかりで、内容的にはエッセイやツイートと言った方が正しいものばかりだ。特に【空を飛ぶ飛行機〜】の項はゲーム好きの読者であればニヤリとさせられること間違いなしだろう。作者の経験や思考が本作を細部まで意味付けしていく。


だがもう一歩踏み込んでいうと、ツイートとは書いたもののその実、この手法はプログラムにおけるコメントアウトだ。コメントアウトとは、プログラムの作者が、自分の書いたコードがどのような目的でどのような働きをするかを、プログラムそのものには影響のない形でメモした物のこと。つまりプログラミングを本文、コメントアウトを註釈と見立てると本作は、特異な経歴を持つ著者だから生まれた新時代の実験小説だと言えるのだ。(もちろん後書きにあるよう『なんとなく、クリスタル』からの影響が大きいのも確かだろう。)


ちなみにプログラミングや宇宙論なんて分からないという方も、例に挙げた調子で300以上もある註釈が丁寧に解説してくれているので、戸惑わず読み進められるはずだ。もちろん気になった単語があれば、そこから学びを深め、再度、山探しに挑むのも良いだろう。(特に宇宙論の単語なんかは、 YouTubeの『宇宙やばいラジオ』が分かりやすくてオススメ。)

元が月1連載であるため、細かく章が区切られていて、自分のペースで読み進めやすいのも本作の良さだ。

またこの書評の中で【】内に書かれている言葉も、全て作中で註釈の付いている言葉なので、それぞれどういった説明がされているか、気になった方はぜひ本作を手に取りイシュクト山を探す旅に出かけてほしい。


朝樹卓

高校時代に情報システム専攻、現在は慶應義塾大学在学中。趣味はゲーム音楽と読書(漫画含む)。

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色