〈6月16日〉 木内昇

文字数 1,411文字

土蔵の梅酒


 庭の梅が実をつけたら、梅酒を作ること。この古家を借りる、それが条件だった。母屋とは別に土蔵があり、代々ここに住む者は毎年梅酒を蔵に納めるのが習いだ、と大家は有無を言わせなかった。どんな所以があるか知れぬが、三十路の独身男には面倒極まりない作業である。入居を諦めかけるも激安の賃料に目がくらみ、年に一度の辛抱だと条件を呑んだ。
 六月頭に青梅を収穫する。水洗いして竹串でヘタをとり、氷砂糖と交互に瓶に詰め、ホワイトリカーを注ぐ。ここまでは存外楽だが、蔵に置いてしばらくは黴が出ないか見にいかねばならんのが鬱陶しい。
 蔵は小窓がひとつあるきりで薄暗い。その暗がりに、時折かつての住人たちが姿を見せる。最初に髷の男がふわりと湧いたときには悲鳴をあげたが、住んで五年も経つとすっかり慣れた。「この蔵で彰義隊の残党も匿ったぜ」と嘯くこの男は、
「わっちゃ古酒で漬けたよ。そのほうがうめぇのに」
 と、必ず難癖をつける。試しに男が作った「慶応二年」と札にある甕を覗くと飴様のドロドロだったから、ふんと鼻であしらった。
 もんぺ姿の婆さんも口うるさい。ヘタのとり方が雑だ、砂糖が多すぎる、とまくし立てる。
「偉そうに言うが、婆さんが住んだ間の四年ばかし甕がないぜ。漬けるのをサボったろう」
 腹立ち紛れに言ってやると、
「焼酎も砂糖も闇市でだって手に入らないんだ。仕方ないだろっ」
 えらい剣幕でやり返された。
 海老茶の袴に束髪の娘も現れる。十八で軍人のもとに嫁すまで、ここに住んだ。夫が露西亜で戦死してからは苦労の連続で、幸せだった娘時分が忘れがたいのだ、と。穏やかに話せるのはこの娘だけだったが、今年に限って平素は口さがない連中まで妙に優しく接してくる。
「わっちの頃にゃ、コロリと麻疹が流行って難儀だったよ」
 髷の男は眉を八の字にした。
「食糧があるだけ幸せだよ。うちの息子は南方に片足置いてきちまったけど、飢えよりはいいって言ってたもの」
 婆さんまで、撫でるような声を出す。
「なんだよ、薄気味悪ぃ」
 粋がってはみるが、心許ない。
 蔵に日参して二週間。暦を見ると六月十六日だ。あとは寝かせときゃいい、と瓶に「令和二年」と貼り付けたとき、娘が現れた。
「今年もいい梅酒に育ちそうですね」
 娘は、他の住人のような慰めは口にしない。
「まぁな」
 答えて立ち上がる。蔵戸を潜りしな、
「なぁ、娘」
 背を向けたまま言った。
「俺は来年も梅酒を作れるかな」
 しばし沈黙が漂った。
「梅の木はまた来年も実をつけてくれますもの。それに人の営みは、そう容易く潰えません」
 強い声だった。振り向くとそこにはもう、娘の姿はなかった。
 表に出て空を仰ぐ。
「今年はやけに澄んでやがんな」
 ひとりごちて、大きく伸びをする。




木内昇(きうち・のぼり)
1967年東京都生まれ。『茗荷谷の猫』で話題になり早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞を受賞。2011年に『漂砂のうたう』で直木賞を受賞、‘13年に刊行した『櫛挽道守』は中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、親鸞賞を受賞した。著書には『占』『火影に咲く』『光炎の人』などがある。

【近著】

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