〈5月27日〉 麻見和史

文字数 1,349文字

ゆらめく人影


 相棒は昼食を買いに出かけている。
 車の中から、如月塔子は前方の民家に目を向けた。
 一昨日、東京都でも緊急事態宣言が解除された。だが静かな公園に隣接するこの住宅街には、ほとんど人通りがなかった。
 塔子たちの目的は、捜査対象者の居場所をつかむことだ。強盗傷害の被疑者である男は、知人の留守宅に潜んでいるのではないか。それを確認する必要があった。
 張り込みを続けるうち、おや、と塔子は思った。アパートの花壇にドロップの缶が置いてある。車を降りて近づいていくと、うしろから声をかけられた。
「すみません、それ、私のです」
 振り返ると若い女性が立っていた。青いカーディガンにふわりとしたフレアスカート、背中には茶色いリュックサックが見えている。
「あ、ごめんなさい」塔子は軽く頭を下げた。「忘れ物だったんですね」
「いえ、それ、カメラなんです」
「これがカメラ?」
「針穴写真ってご存じですか。昨日から私、あの公園の近くを撮影していて……」
 彼女は写真を見せてくれた。やや暗いモノクロ写真で、木炭デッサンのような味わいがある。路上に人影が写っていたが、なぜかぼんやりして輪郭がはっきりしなかった。
「誰もいないから自分を撮ったんです」彼女は目を細めた。「露光時間が長いので、ゆっくり動いたものはそんなふうに写るんですよ。姿がゆらめいて幻想的でしょう?」
「あの……ほかの写真も見せていただけませんか」
 昨日の夕方撮影したという写真を、塔子は確認していった。そのうち決定的な一枚を発見した。民家の窓に人影がある。何度も外を窺ったのだろう、ぶれた像になっていた。
「やっぱりあの家に!」塔子は警察手帳を呈示した。「警視庁捜査一課の如月といいます。ご協力に感謝します」
 女性は手帳を見て驚いていたが、じきに気を取り直したようだ。
「こんなときに、刑事さんも大変ですね」彼女は小声で言った。「毎日、息苦しくて気が滅入ります。早く元どおりになるといいんですけど」
 そうですね、とうなずきながら、塔子はもう一度写真を見つめた。人通りのない街の風景は、ひどく寂しく感じられる。
 ──そういえば、あの人は針穴写真を知っているんだろうか。
 カメラ好きの先輩刑事の顔が、頭に浮かんできた。
 ひとけのない街の片隅で、塔子は報告の電話をかけ始めた。
 世の中がどんな状況であっても、冷静に、確実に捜査を進めなくてはならない。それが刑事の役目なのだと、塔子は自分に言い聞かせていた。


麻見和史(あさみ・かずし)
1965年千葉県生まれ。立教大学文学部卒業。2006年に『ヴェサリウスの柩』で第16回鮎川哲也賞を受賞し、デビュー。新人刑事・如月塔子の活躍を描く『石の繭 警視庁殺人分析班』が人気を集め、シリーズ化。本シリーズは『石の繭』『水晶の鼓動』『蝶の力学』がWOWOWでテレビドラマ化されている。また、2016年に『特捜7 銃弾』が、2018年に『警視庁文書捜査官』が『未解決の女 警視庁文書捜査官』としてテレビドラマ化された。今後さらなる活躍が期待されるミステリー界の気鋭。

【近著】

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み