『長い一日』はなぜ読む人を幸せにするのか。 滝口悠生さんインタビュー

文字数 5,074文字

小説家の夫と妻は、住み慣れた家からの引っ越しを考え始めた…。そこから始まる、大きなことは起こらないけれどもかけがえのない日常が綴られる長編小説『長い一日』。「読んでいる時間が幸せ」といった静かな反響を呼び続けて、このたび重版になりました。読む人の懐かしい記憶を引き出す不思議な手触りの小説はどのように書かれたのか。4つの質問に著者・滝口さんが答えます。

日記から小説へ 


最初の章のタイトルは「二〇一七年八月一六日」。この『長い一日』は、日記エッセイとして連載が始まったのに途中で小説になったという作品ですが、書き手の滝口さんの気持ちはどのように切り替わっていったのですか?


滝口 エッセイの連載だったので、身辺雑記的なことをどういうスタイルで書いたらおもしろいかなと考えて、「日記」という書法を試してみようと思いました。


でも連載三回目で近所のしわしわの犬のことを書くことにしたときに、自分ではなく妻の視点をとって書く方がいいなと思ってそうしたところ、文章が少し小説っぽくなりました。妻の視点に立つと、「私」と称していた自分は「夫」になって、書き手ではなく登場人物のようになる。たぶんそこが大きなわかれめで、一度小説っぽくなるとどんどんそちらに引っ張られて、それきりエッセイには戻らなかった。


でもいまから思うと、この作品をそんな風に差し向けたのは第二回で書いた不染鉄(ふせんてつ)という画家の展覧会で見た、不思議な絵と文章だったんじゃないかという気がしています。不染鉄さんは自分の描いた絵の画面に日記や随筆みたいな文章を書き込んでしまうひとで、その大胆さというか、作品の枠組みや格に頓着しないスタイルがかっこいいなあと思って、知らず知らず影響を受けたのかもしれません。


エッセイの場合は、書き手と文章の位置関係がある程度安定している感覚があるのですが、小説の場合はもっと不安定というか、書き手の自分は書かれる文章から遠く離れている感覚があります。これはもうエッセイでなくて小説だな、という感じは連載の四回目とか五回目くらい、結構早くからあったのですが、それで困るというよりはこの連載どうなるんだろうと楽しむような気持ちでした。作品がきれいな円環に閉じるのではなく、最初の地点からどんどん離れて思いがけない軌道を描くようなことになればいいな、と思っていました。それでこそ連載という前途未定の方法で書く甲斐があるのでは、と。ちゃんと完結して、本にもなってよかった。


スーパーマーケット小説 


好きなスーパーマーケットのことに二章も割いている、「スーパーマーケット小説」でもありますよね。


滝口 僕はオオゼキというスーパーマーケットが好きなのですが、作中で話が少しスーパーの話に及んだら、作中の「夫」にオオゼキの話を語ってもらわないわけにはいかなくなって、約20ページにわたってスーパーオオゼキの魅力を説明しています。


物語の進行上絶対に必要な話というわけではないので、さすがに書き過ぎじゃないか、みたいなことも考えなくはないのですが、そういうバランス感覚みたいなものは年々希薄になっていて、そんなことより作中の誰かがなにかについて語りたいときに、書き手がちゃんとその話を聞くことが大事だと思っています。話の進行とか分量的なバランスとかは書き手の都合ですが、そんなことよりも小説の当事者は作中にいるひとたちであり、彼らが語ることによって小説は先に進んでいくものだと思います。だからオオゼキが好きなひとは好きなだけオオゼキの話をしたらいい。書き手はそれに何時間でも付き合いますよ、という気持ちです。


いやあんたがオオゼキについて書きたいだけだろ、と思われるかもしれないですが、というかまあそうと言えばそうなのですが、書き手の僕は好きなことを好きなように書けるわけじゃなくて、あくまでそれは作中の「滝口」、作中の「夫」が語りたいことだったということなのです。「そういう体」みたいなことなのですが、この作品ではその「体」が大事で、その「体」だから語れることがある。そしてそれは別に書き手に都合のよい「体」ではなくて、語る側にとっての語りやすさなのです。僕がオオゼキについて好き勝手に語ったら、あんな分量では収まらないと思います。

愛着を感じるもの


スーパーもそうですが、有形無形のものへの「愛着」が、この小説のひとつのテーマのように感じます。滝口さんにとって「愛着」とは?


滝口 不在のものへの想像力。既にいないひとや、過ぎた時間や場所、あるいはいまは離れていてそばにいないひとや場所に思いを向けるときに働く感情や、その不在や隔たりを確認する心の動きが、僕が愛着と書いているものだと思います。


いまそばにいるひとやものに対しても愛着を感じることは当然ありますが、どこかで「やがてなくなってしまう」という、不在を先取りするみたいな哀しみとか寂しさを感じるときに、「愛着」と呼びたい感情がわく気がします。


小説は、「ない」ものとか「ない」事柄を表現できるものだと思うので、小説を書くときに「愛着」という感情はとても重要だと思っています。


「長い一日」というタイトルの理由は?


滝口 昔からたまに日記を書いてみてはあまり長続きしないのですが、書いていておもしろいことのひとつは、ある一日の出来事を書き記すことで、別の日の出来事が自然と思い出されて、それが今日の日付と結びつけられることです。書くうちになにかを思い出し、それを書くとまた別のことを思い出す。今日という一日には、今日だけでなくそうやっていろんな一日の出来事が混ざっていて、書けば書くほど、思い出せば思い出すほど一日についての記述は長くなる。この連載もそういうおもしろさを含むものになればいいなと思ってつけたタイトルです。結局日記でもエッセイでもなく小説になったわけですが、その点を除けば当初の目論見からそう外れていない作品になったと思うし、計画性が皆無だったわりにはなかなかいいタイトルをつけられたと思っています。

(2021年9月 編集部によるメール・インタビュー)

滝口悠生(たきぐち・ゆうしょう) 1982年、東京都生まれ。2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞しデビュー。2015年、『愛と人生』で野間文芸新人賞受賞。2016年、「死んでいない者」で芥川賞受賞。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『高架線』『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』がある。  

講談社 定価:2475円(税込)

装幀:佐々木暁 装画:松井一平

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