第27回
文字数 2,633文字
「密は避けよ」「旅には出よ」と政府の旗揚げゲームめいた指示に踊る2020年・秋。
連休には各地が観光客で賑わうニュース映像が踊り、空気は変わってきたのかもしれません。
観光もいいけど、でもボクらはやっぱりひきこもり。
そうは思いませんか?
脳内とネットでは饒舌な「ひきこもり」の代弁者・カレー沢薫がお届けする、困難な時代のサバイブ術!
ひきこもり生活のメリットは、社会や他人とあまり関わらなくていいという点だが、逆にそこがデメリットでもある。
まず、ひきこもりを志す時点でコミュ力が低いというのに、社会や他人と接しないことで、ますます社会性やコミュニケーション能力が右肩下がりになり、ついでに骨盤も歪む。
社会や他人と関わらないで生活が出来ているならそれでいいじゃないかと思うかもしれないが、いつもは良くてもいざという時に詰む。
何せ最近のコロナ禍で「外に出るな、他人と接触するな」という、今まで経験した事のない号令が世界的に出されたぐらいだ。
逆に「全員外に出て三人組をつくれ」というトラウマ号令が出る可能性だって十分にある。
今回はたまたま「ひきこもれ」という方針だったからひきこもりには無影響であったが、その逆が起こったらひきこもりは即死であり、「家から出るぐらいなら死を選ぶ」という殉死が相次ぐだろう。
つまり「ひきこもり」になることで、社会や地域、他人との連携が不可欠な事態になった時、困ることは明白であり、最悪命を落としかねないのだ。
また、社会や他人と関わりたくなくてひきこもりになったのに、いざそうなってみると、社会や他人と関わりがないことがストレスになってしまったという、何をやっても幸せになれないタイプもいる。
ひきこもりになる人間はおそらく、社会にいるとき「疎外感」を感じていたと思うが、たとえ社会から逃れることができても疎外感から逃れることはできず、むしろ一層増してくる。
私も、会社という社会から逃れて無職のひきこもりになったことにより、「みんなが俺を置いてランチに行く」みたいな集団の中の孤立から逃れることはできた。
ちなみに、みんなとランチに行きたいわけではない。むしろそんなことをしていたらソシャゲの体力が溢れてしまう。
誘われたら誘われたで、「俺の1本満足バーをかじりながら脳死周回というプレシャスタイムを奪うんじゃねえ」とご立腹なのはわかっている。
余談だが田舎の人間は大体自家用車で通勤しているので、昼食時に「便所飯」ではなく車に籠城する「車飯」をすることが可能だ。これは都会の人間より一歩先んじている点だろう。
だが、それだけ一人でいたいと思っていても「誘われなかった」という事実は心に暗い影を落とすのだ。「孤独」や「寂しさ」というものが人類にとっていかに脅威かわかる。
私も会社を辞めて自由を手に入れたはずなのだが、家の前が不幸にも「公園」なのである。
公園利用者にとっては公園の前に私が住んでいる方が不幸だろうが、私も不幸なのだ。
何故なら、自室の窓から公園で遊ぶ子どもと、子どもが遊んでいる間、井戸端会議をしているママ友の集まりが見えるからである。
それを見るたびに、「これが社会性だ」と言われているような気分になるのだ。
私にその輪に入ることはできない。入ることがあるとすれば、何らかの理由でジョーカーのコスプレで腕をぐるぐる回しながら突っ込んで行くときぐらいのものだろう。
もちろん外に出て立ち話など全くしたくないのだが、何故か羨ましさと疎外感を感じずにいられない。
そして疎外感は「このままでいいのだろうか」という焦りにつながる。
実際、経済的自由を手に入れセミリタイアをした人でも、この疎外感に勝てずに結局社会復帰してしまう人も多いらしい。
永遠の休みを手に入れ、毎日遊んで暮らそうとしても、遊んでくれる友達の多くは労働という名のマゾ行為に没頭しているのである。
生物的に見れば一日8時間、週5で労働している方がどう見ても変態なのだが、みんながそうしているのを見ると、自分の方が異常に思えてきてしまうのだ。
みんなが全裸だと、全裸にガーターベルトとハイヒールだけ履いている自分が急に恥ずかしくなり、心もとなくなるのと同じである。
特に日本人は「みんなと同じ」であることに安心感を得る国民性である。よって自由より「みんなと同じ」という安心感のために、結局不自由な社会の中に戻っていく者も多いという。
私も会社員時代はもちろん辛かったが、「普通の人のように週5で会社に行っている」ことが、自分を支える大きな自信であったことは確かであり、それを失った時は「いよいよだな」という気がした。
しかし、多くのセミリタイア民、無職、ひきこもりが口をそろえて言うのは「それも1年ぐらいで慣れる」ということである。
最初は、みんなが働いている平日昼間に自分はブラブラしていて良いのかと罪悪感があり、日中外に出られなかったりするそうだが、一年ぐらい経てば、平気でテスト期間中の中学生のように、平日昼間のフードコートに出没できるようになるという。
結局、どこに行っても孤独や疎外感から逃れることはできない。ならばひきこもったことにより増した疎外感より、得た自由を謳歌した方が良いだろう。
もしひきこもりを始めたばかりで、どうにも孤独で落ち着かず、自分はひきこもりに向いていないのかもしれないと思っている人でも、1年は続けてみよう。
新しく入った会社にすぐ慣れないように、ひきこもりも慣れるまでの時間が必要なのである。
逆に「1年で手遅れになる」とも言える。
これも会社と同様、「慣れるまで頑張ってみる」というのも大事だが「早めにやめる」という決断も時には重要である。
カレー沢薫
漫画家・コラムニスト。長州出身の維新派。漫画作品に『クレムリン』『アンモラルカスタマイズZ』『ニコニコはんしょくアクマ』『やわらかい。課長 起田総司』『ヤリへん』『猫工船』『きみにかわれるまえに』。エッセイに『負ける技術』『もっと負ける技術』『負ける言葉365』『猥談ひとり旅』『非リア王』など。現在「モーニング」で『ひとりでしにたい』連載中&第1巻発売中。最新刊『きみにかわれるまえに』(日本文芸社)も発売中。