『十五匹の犬』アンドレ・アレクシス/イヌよ、イヌたちよ。(千葉集)

文字数 1,472文字

次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』。

木曜更新担当は作家の千葉集さんです。

知性を与えられた犬たちの物語『十五匹の犬』について語っていただきました。

書き手:千葉集

作家。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

きまぐれな神が動物病院に収容されていた十五匹のイヌたちにヒト並みの知性を与える。わたしたちははるか以前からそうした小説を知っている。ブルガーコフの「犬の心臓」やオラフ・ステープルドンの『シリウス』、あるいはロン・カリー・ジュニアの「神を食べた犬のインタビュー」。それらはすべて、ヒトについての物語だ。そして、本作も。


知性を授けられたイヌたちは病院を脱出し、自分たちの群れをつくる。かれらは降って湧いた「思考」という概念に戸惑いながらも、獲得した言語で会話を交わし、あるものは夜毎に鳴き声で詩をつむぐ。ところが、旧来的なイヌとしての生活に戻ろうとする反動派がクーデターを起こし、知性を擁護するイヌたちを追い出して強権的な体制を築く。ディズニー的な陽気さえたたえていたイヌたちのコミュニティが、一夜にして暗転する。


カメラはここから主として三匹のイヌに絞られる。群れを追放されたのち、詩作しながら放浪するプリンス。反動派が支配する群れの最下層の弱者として抑圧を受けるビーグル犬のベンジー。プリンスと同じく群れを離れてニラという女性に飼われることになるプードルのマジヌーン。


本作においてイヌたちに与えられた知性は、とりわけ言語に紐付けられる。言語によってイヌたちはさまざまなあたらしい結びつきを得ていく。たとえばマジヌーンはニラから人間のことばを教わり、それを駆使して彼女と意思疎通を図りながら、人間的な文化や概念を学んでいく。


一方でマジヌーンはこうも言う。「いいか、人間は自分たちがいった言葉が持つ意味通りのことを意図しているとはかぎらない。気をつけないといけない」。イヌの運命をもてあそぶ神々は酒場で談笑する人間たちを眺めながら、「自分の話した言葉が相手に本当に通じているか、まったくわかっていないのに、お互いに理解してしまう」と愉快がる。


マジヌーンとニラの共同生活を通じて浮かびあがるのは、相互理解の道具としての言語の不完全さだ。作中では(ときおり擬人化の罠にはまりはするものの)イヌの世界とヒトの世界は一貫して峻別される。マジヌーンにとってニラは終始不可解な存在に映るし、ニラはニラでイヌ的な認識で世界を捉えつづけるマジヌーンにいらだつ。ことばがわかるからこそ、いっそう断絶が際立ってしまう。


それでもふたりはことばや態度の端々から断片を拾いあい、互いの異質さを混じりあわせていく。


イヌについて語る物語は、常にヒトについての物語に帰着する。なぜならイヌを語るということはヒトを語ることだから。ヒトの物語とはイヌの物語でもあるから。


イヌは家畜として人間社会に適うように改造されてきた。ヒト側の文化もイヌという存在に影響されてきた部分がある。理解したりされたりしてくれなくとも、応答してくれる可能性のある誰かが隣にいる。それは、お互いにとって幸福なことだと信じたい。

『十五匹の犬』アンドレ・アレクシス/金原瑞人・田中亜希子 訳(東宣出版)
★こちらの記事もおすすめ

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

背景色
  • 生成り
  • 水色