『地獄の楽しみ方』/京極夏彦

文字数 9,136文字

2019年、「学校では教えてくれない本物の知恵を伝える白熱授業」と題して京極夏彦さんが聴講生50名を対象に特別授業を行いました。そのときの、若い方からミドル、そしてリタイア後の生き方を考えている方まで、なるほどと思う含蓄のあるお話を元に書籍化!

京極夏彦さんの『地獄の楽しみ方』の内容紹介&試し読みです!

京極 夏彦(キョウゴク ナツヒコ)

’94年『姑獲鳥の夏』でデビュー。’96年『魍魎の匣』で日本推理作家協会賞受賞。この二作を含む「百鬼夜行シリーズ」で人気を博す。’97年『嗤う伊右衛門』で泉鏡花文学賞、2003年『覘き小平次』で山本周五郎賞、’04年『後巷説百物語』で直木賞、’11年『西巷説百物語』で柴田錬三郎賞を受賞。’16年遠野文化賞、’19年埼玉文化賞受賞。

はじめに


 皆さん、こんにちは。

 知っている人は知っているんだろうと思いますが、僕は小説を書くことを仕事にしています。しかも、書いているのは通俗娯楽小説です。難しい内容のものではありません。読んで楽しむだけの小説を書いて生活している人間です。つまり、このように壇上でお話をするのは専門外のことなんです。本職ではありませんから、あまり上手にしゃべれないかもしれません。それをまず最初に覚えておいてください。


 僕がこれから話すことは、役に立つことではありません。


 ただし、役に立てることはできます。よく「学校の勉強なんか実社会では役に立たないじゃん」というようなことを言う人がいますよね。でも、それは役に立たないのではなくて、役に立てることができないというだけです。


 たとえば、スマートフォンのアプリケーションを合理的に使うノウハウを教えてもらったとしましょう。これは、現状大変役に立つ知識なのでしょう。


 しかし、スマートフォンの普及率が著しく低い、というより電波がない、砂漠の真ん中やジャングルの奥地でそれを教わったとしても、役には立ちませんね。そもそもスマートフォンが使えないんですから。


 でも、スマートフォンのアプリケーションを合理的に使用するノウハウを、単なる便利マニュアルとして受け取るのではなく、そこから、それがなぜ合理的なのか、そして、合理的とはどういうことなのかを学び取ったとしたらどうでしょう。


 合理という概念が抽出できたなら、スマートフォンやアプリケーションといった個々の要素もまた、置換可能な概念となるでしょう。そこに別な何かを代入して考えられたなら、ジャングルや砂漠でも有効に使えるノウハウとなるかもしれません。


 スマートフォンもアプリケーションも関係なく、そのノウハウをほかの何かに役立てることができるということですね。


 世の中には、役に立ちそうな、それらしいことを言う人はいっぱいいますね。


 みんな、良いことを言います。それを聞いて、「ああその通りだな、これは役に立つな、いいことを聞いたな」と思うこともあるでしょう。


 でも、だいたい役には立ちません。


 まあ、役に立つんだと強く思い込んでいれば、役に立つような気にもなるのでしょうし、中には本当に役に立つこともあるんでしょう。でもそれはお話が役に立ったのではなくて、聞いた人に役に立てる能力があったんだ、ということですね。ただ鵜吞みにして妄信しているだけでは、何も役に立てることはできません。


 逆に、どんなつまらない、くだらない話でも、役に立てようと思えば役に立つものです。


 学校で教わることは、だいたい役に立てることができるはずです。全く必要のない知識を何年もかけて子どもに教えるようなバカなことを国家が何十年もし続けるようなことは、普通しないですからね。まあどんなに教え方が悪くても、学び方が上手なら何とかなるものです。


 ですから、僕がこれから話すことをそのまま聞いて、「ああ、役に立つな」なんて思わないでください。役に立てるにはどうしたらいいかを考えてください。


京極夏彦

もくじ


第1部 言葉の罠にはまらないために


はじめに  8


言葉は人類最大の発明である  12

「過去」と「未来」は言葉で作られた  15

言葉はデジタル、だから不完全  19

人は言葉の欠けを勝手に埋める  26

SNSが炎上するわけ  37

日本語のすぐれたところ  43

すべての読書は誤読である  54

あらゆる争いは言葉の行き違いから起きる  57

「勝った」「負けた」も言葉の魔術  61

人間は自分がなりたいものになる  67

スポーツも勉強も勝ち負けではない  70

世の中にいいことなんてないでも面白がろうと思えば面白い  76


第2部 地獄を楽しむために


「ら抜き言葉」は間違いか  82

「正義」の対義語は「悪」?  87

「神」という言葉があらわすものは  92

「愛」という便利で危険な言葉  96

語彙の数だけ世界がつくれる  101

人生でいちばん大切なのは「整理整頓」  103

本の数だけ人生がある  109

嫌いなことをしないために頭を使おう  112

第1部・言葉の罠にはまらないために


言葉は人類最大の発明である


 僕は小説書きですから、文章を書いて、それでお金をもらって生きています。言葉を扱う仕事をしているんですね。ですから、まず言葉の話をいたします。


 言葉というのは、間違いなく人類の最大の発明です。それ以降の全ての発明も、言葉なくしては生まれなかったと言っていいでしょう。印刷機だって、電球だって、言葉がなければ生まれなかったはずです。なぜでしょう。


 私たち人間は動物ですね。人間以外にも、この世界には動物がたくさん生きています。全部生き物です。動物もこの世界に生きている以上、世界を認識しているはずです。ただ、人間と動物の世界の捉え方、世界認識の方法はずいぶんと違っているようです。この中には犬や猫を飼っている方もいらっしゃると思いますけれども、犬や猫は人間ではありませんから、私たちと同じような世界を見ているというわけではないんですね。色がわからないとか、ピントが合わないとか、そういうことを言っているのではありません。


 単純な構造の下等動物から複雑な構造の高等動物まで、それぞれに捉え方は違うのでしょうが、動物には基本的に「今」しかありません。彼らは──彼らと言うのもおかしいんですが、基本的にパターン認識をしています。昨日と今日に区別はありません。昨日と今日の「違い」だけしかわからないのです。なぜなら、昨日と今日という概念がはっきりとわからないからです。


 やや高等な動物になると、サイクルのようなものはわかるんですね。寝て、起きて、また寝て、その間に捕食活動をする。それは決まっています。だから一日というパターンは認識している。どうやったら餌がとれるか、何が危険で、それを回避するにはどうしたら良いか、そういうことなんかも学習します。ただ、時間という概念を持っているとは思えません。だから、そのパターンを繰り返すだけなのです。今しかないのです。昨日はないのです。そして、明日もないのです。動物は、そうやって生きています。それでも別に困りませんから。


 人間はそうではありません。人間は言葉を発明してしまったからです。


 言葉のそもそもの起源は、個体の発信する信号を別の個体が受容して行動する、いわゆる情報交換に求められるでしょう。それは間違いないと思います。


 人間以外の動物でも、情報交換をする動物はいます。たとえば、ミツバチは歩き方、動き方で餌のある場所を伝え合ったりします。そういう、音声や動作、信号による情報交換は動物の間でもある程度行われていることです。高等なものだと、たとえばイルカなんかはパルスでものごとを認識したり、それを発信、受信して、コミュニケーションを取り合っています。極めて言葉に近いですね。


 それ、言葉とどう違うんだという話なんですけれども、違うんです。彼らの間で交わされているのは、情報でしかないんです。危ないぞとか、安心だぞとか、餌があるぞとか。それ以上の複雑なやりとりはできません。


 しかし、人間はそんなことはないですね。


 人間は動物よりも複雑な思考をする能力を獲得しました。そして言葉が生まれました。いや、言葉のおかげで考える力が発達したとも言えます。これはどちらが先ということではないのでしょう。いずれにしても私たちは、言葉によってものを考えることができるようになったと言っても過言ではないと思います。


 言葉は、単なる情報ではないんですね。言葉によるコミュニケーションは、情報をやりとりするだけではないんです。


 この世界はそのままでは実に混沌としています。言葉は、その混沌を秩序に変える力を持っていました。言葉によって、私たちは頭の中を整理整頓することができるようになったんです。これはすごいことなんですよ。動物はそんなことをする必要がないからしないんですけど、人間はそれができるようになっちゃったから、するようになっちゃったんでしょうね。


 受容器官、目や耳や鼻や口、皮膚などから受容された情報に対する単なる反応でしかなかったものが、「意識」というものを形作るようになり、やがて「自我」という面倒くさいものまで明確にしてしまった。それも言葉のおかげです。


「過去」と「未来」は言葉で作られた


 先ほど、動物はパターン認識しかしないから「今」しかないんだと言いました。

 言葉は、「今」ではないものも私たちに与えてくれたんです。過去、そして、未来です。

 過去と未来なんてものは、本当は「ない」んです。


 先ほど僕は、「今しかない」と言いましたが、イ・マ・シ・カの「カ」を発音した時点で、「イ」や「マ」はもう過去ですね。そういう音が発せられたという記憶が頭の中にあるだけ。


 過去なんてものはないんです。「過去の積み重ねが現在をつくる」、なんて言いますが、これは言葉の上でしか成り立たない理屈なんですね。私たちがこの次元に存在している以上、時間の順序は厳密に保護されていると考えられていますから、過去にさかのぼることは今後も──たぶんSF小説以外でできることはないと思われます。過去はないんです。なくなっちゃうんです。そして、未来なんてものも、やっぱりないんです。これから先に起きることなんですから。まだ訪れてないですからね。


 過去も未来も、私たちの頭の中にしかないんです。


 言い換えるなら、頭の中には過去も未来もあるわけです。今日ではない、昨日や明日を認識できるのは、言葉があってこそですね。「えっ? 本当かよ。そんなものなくたって昨日はあっただろう」、と言う人もいるでしょう。でも、ないでしょう。あるというなら持ってこいという話です。ないんです。


 昨日と明日を私たちに与えてくれたのは、時間という概念です。


 時間というのは、非常に説明しにくいものですね。なぜなら今、私たちは、俗に言う三次元に住んでいますね。次元の数え方には諸説あって、四次元と規定するケースもあると聞きますが、縦、横、高さあるいは奥行き、それで認識される世界に私たちは存在しています。ですから、その中のこと、そしてより低い次元のことは理解することができます。しかし、時間はより高い次元に属すると諒解されるものです。ですから、私たちは時間そのものは理解することができないんです。


 ですから私たちが時間を知るには低い次元に置きかえるしかありません。


 私たちは時間を「変化」でしか確認できないんですね。あるいは「運動」と言い換えることもできるかもしれませんが。


 先ほどここに座った時よりも、現在の僕のほうが老いています。肉体は縷々変化していますね。その変化を測るという形でしか、私たちは時間を認識することができないんです。時計だってそうですね。あれは針が動いているだけで、その運動が確認できるだけです。私たちは時間のことをわかったような顔をして平気で暮らしていますが、全くわかってないんですね。説明できないんですから。


「さっき」と「今」の「差異」でしか時間は説明できないんです。


 でも、僕らは時間というものを理解したような気持ちになっています。それは時間という概念をつくり上げることができたからです。概念をつくるのに必要だったのは、もちろん言葉です。「さっき」も「今」も、言葉でしかありません。これを形而下に落とし込んで、まあ時間軸という定規のようなものをつくって、次々になくなってしまう「さっき」を並べてみた。それで、「過去」という概念が生まれた。ついでに、「さっき」があったんだから「これから」もあるだろうということで、定規を延長して「未来」が想定されたんですね。


 言葉は概念なんです。


 たとえば、数字を思い描いてください。「1」、「2」、「3」、これは概念ですね。実際に「1」なんていうものはこの世に存在しないですから。「1」という概念に対して「イチ」という名前、音と記号、つまり言葉が与えられただけです。


 さて、アナログの時計を思い描いてください。「1」と「2」の目盛りの間には余白がありますね。針の先はそこを移動する。一方でデジタル時計に「1」と「2」の間はありません。「1」は「2」に変わるだけです。パッと変わります。


 言葉はデジタルなものなんです。これは、大事なことですね。


 デジタルとアナログの違いというのは、別にコンピューター関連だとか、そうでないとか、そういうこととは本来関係ないんですね。アナログというのは、連続性があるという意味です。デジタルというのは、非連続という意味です。「1」と「2」の間に連続性がないものがデジタルです。そして、言葉はデジタルなんです。


 そのデジタルな言葉によって、私たちは心だとか、意識だとか、あるいは時間だとか、昨日だとか、今日だとか、明日だとか、そういうものを手に入れることができたのです。なぜでしょう。


言葉はデジタル、だから不完全


 ここまで、言葉はすばらしい発明だという話をしてきたわけですが、実は言葉というのは非常に「欠けた」ものなんです。不完全なんです。これからは、言葉は不完全なものだというお話をいたします。

 先ほどの「1」と「2」の間が欠けていたように、私たちが使う言葉も欠けています。多くを捨てているからです。


 自分の気持ちのことを考えてください。何か理不尽なことがあなたの身の上に起きたとして、その時、あなたはいったいどう感じたのでしょうか。「悲しかった」のでしょうか。「悔しかった」のでしょうか。「腹が立った」、「怒った」のでしょうか。それとも「何とも思わなかった」のでしょうか。どれか言葉を選んでしまえば、だいたいそうなってしまうわけですが。


 でも、本当にそうですか。悲しかったり、悔しかったり、ちょっとおかしかったり、いろいろな気持ちが混じりあっていませんか。ありますよね。「悲しい」の一言でスッパリ表現できるような気持ちなんてないですよね。


 でも、気持ちを人に伝えるためには、言葉にしなきゃいけないですね。言葉にする時に、とりあえず何か言わなきゃ通じないから、「私は悲しかった」と言っちゃうんです。その時、悔しい気持ちや、ちょっと面白かったとかいう気持ちは全部捨てられてしまいます。言葉は、この世にあるものの何万分の一、いや、何百万分の一ぐらいしか表現できないものなんです。言葉にした段階で多くは捨てられてしまいます。

 気持ちの問題だけではありません。全ての言葉がそうなんですね。


「そこに犬がいたよ」、通じますね。「そうか、犬がいたんだ」とわかる。でも、どんな犬なのかはわからないですね。その犬がアフガンハウンドなのか、ブルドッグなのか、チワワなのか、狆なのか、全くわかりません。犬種だけじゃありません。かわいかったのか、かわいくなかったのか、太っていたのか、やせていたのか、大きかったのか、小さかったのか、毛並みはどうだったのか、色はどうだったのか、鳴き声はどうだったのか、全部捨てちゃって、「イヌ」でまとめてしまっています。たった二音ですよ。でも、通じるでしょう。「そんな細かいこといちいち言わなくたって、犬がいたんだからそれだけでいいじゃん」という話で。そうなんです。


 それだけでいいんです。いいんですけど、あなたが見た犬は、「犬」一文字であらわせるようなものなんでしょうか。違いますね。犬には犬の事情もいろいろあることでしょう。お腹がすいていたのかもしれないし、眠かったのかもしれない。犬だっていろんな犬がいるわけだし、その犬を見た人の主観もあるはずです。飼いたくなったとか、にくらしかったわとか。いろんな情報を全部捨てて、漢字ならたった一文字ですよ。「犬」、これで済んじゃうんです。多くは捨てられていますよね。


 全ての言葉は多くを捨てて成り立っています。単純化するからこそ整理整頓ができるんです。だからこそ概念となり得たんですね。言葉というのは、世の中をザクザク切って、切り捨てて、単純化してでき上がっています。


 仏教に禅という教えがあります。日本では、大きく分けると曹洞宗、臨済宗、黄檗宗という三つの宗派が禅宗に分類されます。禅には「不立文字」という言葉があります。また、「以心伝心」という言葉もあります。文字では何もあらわせないという意味です。言葉では何も伝わらないということです。


 実際、一番最初に禅の心をお釈迦様から学ばれたお弟子さんは、言葉を一切使わずに教えを受け取ったのだと言われています。お釈迦様は花をキュッと曲げただけ。弟子はそれを見て微笑んだだけ。それで、免許皆伝ですね。いやいやそんなわけはないだろうと、思いますよね。僕もそう思いますよ。だって、禅のことを書いた本は山のようにありますからね。みんな、言葉にしないと、文章にしないと伝わらないと思うから書いたんでしょう。というか、「言葉では伝わらない」ということを言葉で伝えようとしているんですけどね。それは無理というもので。


 禅はひたすら修行するしかない。

 でもそれは別に変わった考え方じゃないんです。ひとつの、いいえ、まさに真理ではあるんです。


 お月様。皆さん、お月様を見たことがないという方はいらっしゃらないのではないでしょうか。視力に障害のある方は見ることができないかもしれませんし、今日は台風だから見えないのかもしれませんけれども、それでも月というものはあります。ありますね。


 月は、地球の周りをぐるぐる回っている天体ですが、あれは月ですか。地球からは満ち欠けして見える、地球の影がかぶって見えなくなったりする、あれは月ですか。


 月だろ、とみなさん言うでしょう。でも月は人類が誕生するずっと前から回っているんです。つまり、月だの何だのという名前は人間が後から勝手につけただけなんですね。「月」という言葉と天体の月は、全く関係ないんです。


 それが証拠に、「月が破裂した」と言ったところで月は破裂はしません。「月」と書いた紙を破ったって、月は二つになりません。言葉と、実際にそこら辺にあるものは何ひとつ関係ないんです。言葉は言葉としてあるだけで、現実と何らリンクしているものではないんですね。


 近頃はよく「言霊」なんて古くさい言葉を耳にしますが、あれが効くのは人間だけですからね。世界が言ったとおりになるなんてことは金輪際ありません。いくら「明日晴れるよ」と言ったところで、晴れるかどうかなんてわからないですよ。天気は勝手に晴れるんです。


 よく「俺は晴れ男だから、だいたい俺が行くと晴れるよ」なんていう人がいますが、それって驕り高ぶった愚かな発言ですよね。天候が人間風情の動向に従うわけがない。天気を自在に操れるなんて、おまえは『天気の子』か(笑)。そんなことはないんですよ。台風を呼べるのは『X-MEN』のストームぐらいですよ。何か言ったところで、そのとおりになることなんか絶対ないんです。


 ただ、人間には効きます。人の心は言葉で左右されるものです。ただし言葉が通じなければどうにもなりませんし、発するほうがきちんと使えればという条件がつきます。もちろん、聞くほうもきちんと聞いてくれなきゃ話にならないんですが。


「健やかな国をつくろう」とか、「元気な学園生活を送ろう」とか、いろんな煽り文句がありますけれども、それをポスターに記しとけばみんな健全になるとか、言い続ければ景気よくなるとか、学校が楽園になるとか、そんなこともありませんね。


 そういうスローガンとかプロパガンダはそれ自体で効力を発揮するものではありません。何人もの人の心に効いて、その人たちがまた別の誰かに影響を与えて、そうして広がってはじめて、多少の変化が出る、そういうものです。


 ですから、「こうなるといいなあ」みたいな希望や、「こうあるべきだ」という理想をまんまスローガンに掲げることは、あんまり意味があることじゃないんですね。不特定、大多数に効き目が出るような、みんなその気になっちゃうような言葉を選ばなくちゃいけません。そういう意味で今、行政に携わっている皆さんなんかは破壊的にセンスが悪い(笑)。というより、言葉の使い方が不適切すぎて頭を抱えてしまうことも多いんですが、まあ、それはそれです。


 いずれにしても言葉で世界は変えられないんです。

 言葉は音と記号の組み合わせにすぎません。そのうえ、不完全なものなんです。多く欠けているんです。そんなもので世界が変えられるわけがないんですよ。


 便利だけれども、すごい発明だけれども、私たちを動物から人間に変えてはくれたけれども、言葉は世界に対して何の影響力も持っていないんです。言葉が影響を与えられるのは、それを受けとめることができる人間だけです。

京極さんとの言葉をめぐる一問一答


Q カオスとは、言葉で切り取らなくてはならないものですか?  

A 切り取るのは、認識するための手段にすぎません。  


Q 「言霊」とはどういうものですか?   

A 「呪う」ことも「祝う」こともできるものです。  


Q 「言葉は不幸である」と思われますか?  

A 言葉は不幸でもあり、幸福でもあります。  


 理不尽な勝負を挑まれたら、どうすればいいですか?  

 勝負を無効化しちゃいましょう。  


 本の収納の仕方を教えてください。  

 本の収納だけは「愛」と執念。  


 なぜ嫌いな小説を書いているのですか。  

 生活のためですね。  

★この続きは『地獄の楽しみ方』京極夏彦(講談社文庫)でお読みください!

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