第78回

文字数 2,778文字

こんなんもう冬だろ。


令和ちゃんが季節のスイッチを切り替えミスった感じですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。


脳内とネットでは饒舌な「ひきこもり」の代弁者・カレー沢薫がお届けする、

困難な時代のサバイブ術!



※トラブルにより今エッセイの公開が遅れてしまいました。読者のみなさま大変申し訳ございません……。

ひきこもりに限らず「自己肯定感」というのは非常に大事である。

むしろこれがなければ、どれだけ才能や容姿に恵まれていても永遠に自分に自信が持てず、他人の顔色ばかり窺って生きることになってしまう。

片や自己肯定感さえあれば、朝、五枚刃で分離させたはずの眉毛が夕方にはつながり、もみあげまであと一歩にキてしまうようなユニークフェイスに生まれたとしても、「ウケる」の一言で解決し、あとは屁をこいて爆睡するだけの明るい人生が送れるのである。


しかし、残念ながら日本人は諸外国の人よりも自己肯定感が低いといわれている。

これは日本が「謙虚」を美徳としている、逆に言えば「自信満々な奴が大嫌い」なお国柄であり、少し大口をたたいた人間が思ったほど結果を残せないと、すぐに「ビッグマウス三選」みたいな動画にまとめられ、さらにそれをパクった動画が10個ぐらい作られて、後世に渡って笑いものにされてしまうのであろう。


そのように、太鼓の達人なら確実に世界新なレベルで叩かれている人間を見れば「決して大口は叩くまい」と胸に和彫りし、「いやいや拙者なんて」という態度を取るようになってしまうのは当然である。

しかし、最初はただの謙遜でも「拙者ごとき」と言い続けていたら、本当に「拙者はごときなのだ」と思うようになってしまい、ごときであれば自分が便所に行っている間に二次会会場に移動されていても仕方がない、と思うようになってしまうのだ。


そしてそのような「ごときムーブ」ばかりかましていると、周囲にも「ははーん、さてはこいつごときだな?」と確信されてしまい、ますますごとき扱いされるようになってしまう。


このようにいわゆる「なめられキャラ」だと周囲に認定されてしまうのは、非常に危険なことである。


昔「誰でも良かった」と言って通りすがりの力士に殴りかかったという、真性の誰でも良かった人がいたらしいが、大体の通り魔は誰でも良かったと言いながら、ちゃんと自分より弱そうな相手を選んでいるのである。

なめられキャラはそういうタイプに、「君に決めた」されやすいのだ。

さらに攻撃対象というだけではなく、「道を聞かれる」など「ちょっと面倒な事」にも巻き込まれやすい。

ちなみになめられキャラはコミュ症にもターゲットにされやすい。コミュ症というのは基本的に人間を恐れているので、専ら絶対怒らない人ばかりに話しかけ、依存してくるのである。

社会性のある人の後ろに、病魔のようなパートナーがいるという現象はそのようにして起こるのだ。

そういう依存コミュ症タイプを「悪霊退散!」と猛ビンタで追い払えればよいのだが、何せ自己肯定感が低いので「こんな自分を頼ってくれるなんてありがたき幸せ!」と共依存になりがちなのである。


このように、自己肯定感が低くて得することはあまりないので、あまり下がり過ぎないようにしなければいけないのだが、ひきこもりというのは割とこれが下がりがちなのである。


先日、二階のベランダに干していた洗濯物を取り込んでいると、風で飛ばされた我が家の洗濯物が隣家の車庫の屋根に落ちていることが判明した。

これは大ピンチである。

落ちていたのが、峰不二子以外着用を許されていないレザーのボンテージだったからというわけではない。

隣家に落ちたということは、隣家とのコミュニケーションの必要が出て来てしまうからだ。

普通であれば、隣家に一言断って取らせてもらえば良いのだろうが、それができないのである。

まず自己肯定感が低いと、もはや「自分が話しかけただけで罪」という感じがするし、罪に対して罰という、ドストエフられる恐怖があるのだ。

よって「気づかれないうちに取る」のが個人的にベストなのだが、もしそれを見られでもしたら「盗人」以外の何者でもないし、最悪隣家の何かを「破壊」という恐れがある。


長考の後、どちらにしても私だけでは取れそうもなく、自分の手に余る案件と判断し「夫が帰ってきてから考える」という「保留」をすることにした。


そして保留ボタンを押したまま忘れてしまい、次の日になってしまった。

すると翌朝隣家の人が我が家を訪れ、「お宅の洗濯物がうちの屋根に落ちてますよ」とわざわざ知らせに来てくれたのだ。


反射的に「えっ!!!??」と「マジ初耳っす」というリアクションを取ったが、ちゃんと装えていたか今でも不安である。

結局、拙者ごときでは取れそうにないので「主人が帰って来てから相談します」と保留ボタンを二度押ししてその場はやり過ごしたが、その日は一日中落ち込んでいた。


おそらくあれが真っ当な社会の一員として普通の行動なのだ。だがそれが自分には出来ないのである。

このようにひきこもりというのは平素社会から断絶して生きているため、たまに他人の社会的行動を見ると凄まじい劣等感を感じてしまうのである。


もちろん社会にいる時も自分の社会性のなさに落ち込むことは多いのだが、それでも社会に物理的に存在できてはいるという自負がまだあるし、社会にいると「自分より社会性のない人」との素敵な出会いもたまにある。


しかし、ひきこもりになると、そんな人生の宝物になるボーイミーツガールがなくなり「自分以外はみんなちゃんとしている」ような気がしてしまい、今回のように本当に社会性がある人に会うとそれが確信に変わってしまうのである。


このように、ひきこもりは心のどこかにひきこもりという生き方を「選択した」ではなく、社会に「追いやられて」ここにいる、という意識があるため、社会と社会性のある人に触れるたびに劣等感を抱き自己肯定感が下がってしまうのである。


だからと言って、ひきこもりながら社会性を上げるというのは難しい。

よって「社会性がないことによる利点」をもっと見つけていくしかない。


というわけで、「社会性があったら即死だった」というエピソードを募集中である。

カレー沢薫

漫画家・コラムニスト。長州出身の維新派。漫画作品に『クレムリン』『アンモラルカスタマイズZ』『ニコニコはんしょくアクマ』『やわらかい。課長 起田総司』『ヤリへん』『猫工船』『きみにかわれるまえに』。エッセイに『負ける技術』『もっと負ける技術』『負ける言葉365』『猥談ひとり旅』『非リア王』など。現在「モーニング」で『ひとりでしにたい』連載中&第1巻発売中。最新刊『きみにかわれるまえに』(日本文芸社)も発売中

★次回更新は10月29日(金)です。

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