〈4月2日〉 西尾維新

文字数 1,297文字

掟上今日子のSTAY HOLMES


2020年4月2日、僕(隠館(かくしだて)厄介(やくすけ))は、忘却探偵・掟上(おきてがみ)今日子(きょうこ)と共に、ある殺人現場にいた。無論、冤罪王――もとい、冤罪体質であるこの僕にかけられたあらぬ容疑を、今日子さんに晴らしてもらうためだ。さすがは『どんな事件も一日で解決する』最速の名探偵、既に意外や意外の真犯人は特定されたのだが、しかしながら、まだ謎は残されていた。
「今日子さん。犯人はなぜ現場の扉を、無作法にも開けっぱなしにしたんでしょう? オートロックですし、それだけで簡単に、密室殺人事件にできたのに……」
「密室だからこそ、ですよ」
 今日子さんはさらりと答えた。そして左手でカーディガンの長袖をまくり上げる――その右腕には太いマーカーで、次のように書かれていた。
『×密閉』。
「嫌ったのでしょう。密閉状態を」
「……では、凶器に槍を使用した理由は? しかも長さ2メートルにもわたる、まさかの長槍を」
「ソーシャル・ディスタンス」
 言って今日子さんは、タイトなロングスカートを上品につまみ上げる――すると、左脚のむこうずねにこう。
『×密接』。
「な、なら、そんな慣れない凶器で、単身犯行に及んだ理由は? あの犯人の人望なら、いくらでも共犯者を募れたはずなのに――」
 名探偵は最早語らず、黙ってブラウスの裾をからげる。くびれた胴体に書かれていた文字は、確かに言うまでもないそれだった。
『×密集』。
「一同を一堂に集めた解決編を自粛することは、探偵としてやや切なくはありますが――殺人犯でも避ける3密を、我々が忘れるわけにはいきませんからねえ」
 眼鏡の奥でウインクし、今日子さんは軽快に踵を返して、殺人現場を後にする――慌ててその背を追いそうになって、僕は辛うじてソーシャル・ディスタンスを保ち、そして「あの……、今日子さんは、これからどうなさるんです?」と尋ねた。謎解きが名残惜しく、反射的に訊いてしまっただけだが、実際、気にせずにはいられなかった。
 今日子さんには、今日しかない。
 だとすれば変わりゆく2020年の、明日からの月日を、いったい彼女はどのように生きていくのだろうか。
「決まっているでしょう」
 去りゆく足を止めることなく、ただ少しだけ振り向いて、白髪の名探偵は飄々と答える――最後に左袖を、大胆にまくり上げながら。
「STAY HOLMES。おうちで推理小説を読みます」


西尾維新(にしお・いしん)
1981年生まれ。『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で第23回メフィスト賞を受賞し、デビュー。同作に始まる戯言シリーズ、アニメ化された『化物語』に始まるシリーズ、TVドラマ化された『掟上今日子の備忘録』に始まる忘却探偵シリーズなど著書多数。漫画原作者としても活躍し、代表作に『めだかボックス』『症年症女』がある。2019年に著作100作目となる『ヴェールドマン仮説』を刊行した。

【近著】

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