『ムーミン谷の十一月』トーベ・ヤンソン/さみしさと仲良くなる(千葉集)

文字数 1,759文字

あけましておめでとうございます!

今年も、次に読む本を教えてくれる書評連載『読書標識』は続きます。

木曜更新担当は作家の千葉集さんです。

愛され続ける名作『ムーミン谷の十一月』について語っていただきました。

書き手:千葉集

作家。はてなブログ『名馬であれば馬のうち』で映画・小説・漫画・ゲームなどについて記事を書く。創元社noteで小説を不定期連載中。

『ムーミン谷の十一月』は、ふしぎななおはなしです。なにせ、ムーミントロールが主役のシリーズの長編で、しかもシリーズ最終巻なのに、ムーミンたちがこれっぽっちも出てきませんもの。


それというのも、ムーミン一家は前作にあたる『ムーミンパパ海へ行く』でちいさな島に移ってしまったのです。この本では、そうとは知らずムーミン一家のあたたかさを求めた孤独な生きものたちがムーミン谷にやってきます。


スナフキンをはじめとした六名は、めいめいの理由からムーミン家を訪れます。ムーミン谷にくれば、作曲がうまくいくんじゃないか、パーティを開いてもらえるんじゃないか、ムーミンママやムーミンパパに会えば生きる理由がわかるんじゃないか……。


そんな、年齢も種族も目的もちがう生きものたちが、からっぽのムーミン家に集まったとき、きみょうな疑似家族関係がたちあがります。かれらは共同生活を通じ、なにが問題なのかもよくわからないけれどムーミンたちに会えばどうにかなるかもしれない、という最初の思惑から外れていきます。


シリーズものにはある種の安心感がありますよね。シリーズのメインキャラクターたちが、いつでも、ともすれば永遠にそこにいて、わたしたちを出迎えてくれる。そんな安心です。

しかし、よりにもよってシリーズのしめくくりで、作者のヤンソンは、その安心の不在をつきつけてきます。そこのあたり、愛する母親を亡くしたヤンソンの事情が絡んでいて、ホムサ・トフトというムーミンママにかぎりない包容力を求めるキャラに反映されているといわれます。


ムーミン一家を欠いた家で、その場にはいないムーミン一家を想ったり、かれらの人物像についてけんけんがくがくの議論を交わす六名の姿には、どこか喪の感覚がついてまわります。


幻想のなかにある他者やいなくなった他者をいくら追いかけまわしても、けしてわたしたちを救ってくれはしません。むしろ、自分自身の問題とは幻想をどうやって折り合うかというところに行き着くのであって、そのために別の他者を必要とするのですね。他人にたよらず自分を救うために他人と関わる。矛盾しているようですが、みずからの孤独をみずからで救わないといけない今の時代への大事なヒントがあるのではないでしょうか。


登場する六名のキャラクターたちはそれぞれに人間くさい魅力があり、ひとりずつ語っていくとなると、ことばはつきませんが、やはりいちばん目が離せないのは、フィリフヨンカでしょうか。



フィリフヨンカといえば、漠然とした終末の予感に切迫する傑作短篇「この世の終わりに怯えるフィリフヨンカ」(『ムーミン谷の仲間たち』所収)ですけれど、ものの本によればフィリフヨンカとは種族名らしいので、このフィリフヨンカが『十一月』のフィリフヨンカと同一なのかは微妙です。


ともあれ、極端にきちょうめんで神経質でうじうじしがちなところは、似ていますね。彼女のオブセッションは「おそうじをしすぎる」こと。きれい好きの域を越えて、強迫観念に近い。それが裏返って、逆におそうじ恐怖症に陥ってしまいます。

(おそうじもお料理もできないなんて、どうやって生きていけばいいのよ? ほかにやりがいのあるものなんて、なにもないのに) 

オブセッションはときに不健全にふくれあがり、ひとを害します。しかし、手放しかたにも知恵がいるもので、自分から切り離すだけではだめだったりもするのです。


フィリフヨンカが執着との関係にどのような結論をつけるのか。去年出たばかりの新訳版でぜひ確認してみてくださいね。

『ムーミン谷の十一月』トーベ・ヤンソン/鈴木徹郎 訳(講談社)
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