第16話

文字数 9,525文字

 
 25 救助

「映画は一度やったらやめられない、って本当ね!」
 と、上機嫌で(ほん)()ルミが言った。
「同感です」
 と、アリサも(うなず)く。
 二人とも、いささか酔っている。──いい仕事をした後の酔いは格別なものだ。
 ()()()は二人の「女優」の話を黙って聞いていた。グラスの中はウーロン茶である。
 いつもなら少しぐらい飲むのだが、明日も撮影は続く。
 順調に進んでいるとはいえ、ラストに向けて、スケジュールが押してくるのはいつものことだ。
「もうこの後、撮休はない」
 と、(まさ)()から言い渡されている。
 もちろん、役者は出番のない日は休める。スタッフはそうはいかない。
「この映画、きっと当るわ。ね、亜矢子さん、そう思わない?」
 ルミが亜矢子の腕に自分の腕を絡めて、ぐっと引き寄せた。
「そう願いたいです」
「願わなくたって、絶対当る! 保証するわ」
「ありがとうございます」
〈坂道の女〉に出資しているルミに向って、
「当るかどうかは時の運ですよ」
 などと言うわけにいかない。
「そうだわ。うちの社員全員に、チケットを百枚ずつ買わせよう」
「本間さん、それは社員の方がお気の毒ですよ」
 と、亜矢子は言った。
 二枚や三枚ならともかく、百枚となると──。
「何言ってるの! 社長が出演して、名演技を見せてるのよ。社員が少なくとも十回は見なくてどうする!」
「はあ……」
 今日(きょう)()欠伸(あくび)をした。──それをきっかけに、亜矢子は、
「私、お先に失礼します」
 と言って、立ち上った。「今日子ちゃんを寝かせないと」
「その後で、(はし)()さんと(あい)()き? いいわね、若い人は!」
 ルミの言葉に、亜矢子は、
「違います!」
 と否定したが、この手の(うわさ)は、とことん広がらないとおさまらない。
 しかし、亜矢子はスターでもアイドルでもない。広まっても、せいぜい半月くらいのものだろう。
「じゃ、お先に」
 亜矢子は、今日子と二人で、バーを出ようとして、
「ここの支払いは……」
 と、バーの受付に()くと、
「本間様から承っております」
「そうですか」
 ここはごちそうになってもいいだろう。
 バーを出てエレベーターへ向うと、ケータイが鳴った。
「──もしもし、ひとみ?」
 長谷(はせ)(くら)ひとみだ。(かのう)と二人で、今日子の祖父、落合(おちあい)()(さく)を捜しているはずだが……。
「亜矢子、助けて!」
 突然そう言われて面食らうと、
「どうしたの? 何かあったの?」
「叶君が……。ともかく、危いの、私も。いつ殺されるか……」
「何ですって?」
「〈ニューNビル〉の裏手に来て! お願いよ!」
「〈ニューNビル〉の裏手ね? 分った。すぐ駆けつけるから──」
 と、言いかけている内に切れてしまった。
「亜矢子さん──」
「今日子ちゃん。一人で帰ってて。帰れるわね?」
「うん。でも──」
「ともかく、私は急いで助けに行かないと!」
 何がどうなっているのか、今の電話での話だけでは分らないが、ともかく、叶とひとみに任せてしまったせいで、二人の身に何かあったら大変だ。
 亜矢子はエレベーターへと駆けて行った。
 残った今日子は、亜矢子がエレベーターに姿を消すのを見ていたが、
「そんな……」
 と、呟くように言って、「──そうだ」
 今日子は今出て来たバーの中へと、駆け込んで行った。
「──あら、どうしたの?」
 と、アリサが今日子に気付いて、「亜矢子さんが何か?」
「危いかもしれないんです」
 と、今日子が言った。
「危いって?」
「お()()ちゃんを捜してる人たちから今、助けに来てくれって電話が」
(ゆく)()が分らなくなってるっていう……」
「ええ。でも──何か良くないことが起るかもしれないんです」
「今日子ちゃん」
 と、ルミが言った。「亜矢子さんはどこへ行ったの?」
「〈ニューNビル〉の裏手、って言ってました」
「そこって、古い団地のあった所じゃないかしら。〈ニューNビル〉なら、そう遠くないわ」
 と、ルミが言った。「いいわ。私たちも行ってみましょう」
「亜矢子さんは大変ね。スクリプターと探偵と両方やってるんじゃ」
 アリサも立ち上って、「今日子ちゃんは──」
「私も行きます」
 と、今日子はきっぱりと言った。「お祖父ちゃんがいるかもしれないから」
「そうよね。じゃ、一緒にいらっしゃい」
 と、ルミが今日子の肩を叩いて言った。
 バーを出ながら、ルミはマネージャーに、
「今から下りるから、車を正面に待機させておいて!」
 と、声をかけた。
「今日子ちゃん……。大丈夫?」
 アリサは、今日子が青ざめて、厳しい表情をしているのを見て言った。
 今日子は返事をしなかった。──何か、ただごとでない気配があった。
 エレベーターの扉が開く。
「行きましょう!」
 と、ルミが言った。

「ただ裏手って言われてもね……」
 タクシーのドライバーはブツブツ言いながら、「この角を曲ると、〈ニューNビル〉の裏手になるけどね」
 と、車を停めた。
「入れないの?」
 と、亜矢子は言った。
「入れないこたあないけど、一度入ると出るのが大変なんだ。一方通行でね。ずーっと遠くを回らないと、元の通りへ出られない」
「分りました。ここでいいです」
 亜矢子は料金を払ってタクシーを降りると、その人気のない道を駆け出した。
〈ニューNビル〉は、モダンなファッションビルだが、一本裏へ入ると、古い都営住宅が並んでいる。
 しかし、今は誰も住んでいないのだろう。どの棟も真暗だ。たぶん、建て直すことになったのが、着工が遅れてそのままになっているのだろう。
「──どこにいるのかしら」
 亜矢子は足早に歩きながら、左右を忙しく見回した。
 ひとみのケータイへかけようかと思ったが、もしひとみたちがどこかに隠れていたら、(かえ)って危い目にあわせることになる。
「──え?」
 足を止めたのは、〈ニューNビル〉と反対側に並んでいる古い団地の真暗な棟の間に、チラッと明りが覗いていたからだった。
 亜矢子は、棟の間へと入って行った。
 誰もいない。でも、確かに……
 周囲を見回していると──。
「ウ……ウ……」
 と、呻く声が聞こえて来た。
「──ひとみ?」
 と、呼びかけてみる。「ひとみなの?」
「ウ……ウ……」
 はっきり聞こえた。
「ひとみ!」
 亜矢子は、その声の方へと足を進めた。
 真暗だ。──亜矢子はポケットからペンシルライトを取り出した。
 夜間の撮影のとき、手もとのシナリオを見るのに必要なのだ。
 カチッとスイッチを押すと、あまり明るくはないが、光の輪が、ぼんやりと目の前を照らす。
「ひとみ! 聞こえる?」
「ウー……」
 声のする方へライトを向けると、ひとみが縛られているのが見えた。
「ひとみ!」
 駆け付けて、「今、ほどくから──」
 ともかく、猿ぐつわを外す。
「亜矢子!」
 と、ひとみは(あえ)ぐように息をついて、「(れん)君が……」
「待って。今、ほどいてあげる」
 ひとみは、団地の建物の窓の柵にロープでゆわえつけられていた。
 亜矢子は、何とかロープを解くと、
「何があったの?」
 と言った。
「私のケータイに、落合さんからかかって来たのよ」
「喜作さんから?」
「うん。『怪しい連中に捕まってる、助けに来てくれ』って」
「それでここへ? 私に知らせればいいのに」
「そう思ったんだけど──。私たち、たまたまこのすぐ近くにいたの。そこの〈ニューNビル〉のカフェに」
「それで、二人で──」
「うん。この団地のどこかだって言われたんで、駆けつけたんだけど──」
「叶君はどこに?」
「分んない。この辺で、いきなり四、五人の男に取り囲まれて、私は縛られて、連ちゃんはポカポカ殴られてのびてた」
 どういうことだろう? 喜作が狙われる理由が分らない。それに、叶連之介だけを連れて行ったとしたら……。
「ともかく、この近くを捜してみよう。ひとみ、大丈夫?」
「怖いけど……。連ちゃんに何かあったら……」
 そのときだった。棟の間の暗がりの奥で、何か明るく光る物がある。
「何かあるわ」
 と、亜矢子は駆け出した。
「待って!」
 と、ひとみがあわてて後を追う。
「火事だ!」
 と、亜矢子が足を止めた。
 行き止りになった所に、プレハブの小屋のようなものが建っている。物置なのだろうが、それが燃えているのだった。
「どうしよう! あの中に、もし──」
 と、ひとみが泣き出しそうになる。
 といって、その小屋は大方ベニヤ板か何かなのだろう。すぐに火に包まれてしまう。
 火を消そうにも、何もない。
 しかし、もし、中に叶や喜作がいるとしたら──。
 亜矢子は、倒れたまま放置されていた、錆びた自転車を見付けると、「ヤッ!」というかけ声と共に両手で持ち上げ、燃えている小屋へと突進した。
「エイッ!」
 と、小屋へ自転車を叩きつけると、燃え始めていた引き戸が外れて外側へ倒れて来た。
 あわてて飛びのくと、戸が音をたてて倒れ、中で段ボールが燃えているのが見えた。
「──ひとみ、中には誰もいないよ」
「良かった!」
 小屋はたちまち燃え尽きてしまった。
 それにしても、どうしてこんな物を燃やしたのだろう?
「──そうか。注意をここへ引きつけるためだわ」
 と、亜矢子は言った。
 この間に、ひとみたちを襲った連中は逃げてしまっただろう。
「連ちゃんは……」
「しっかりして! まだ遠くには行ってないわ、きっと」
 と、ひとみの肩を叩いて、「ともかく、通りへ出よう」
 と促した。
 すると、表の道に車のライトが見えた。
 亜矢子が駆けて行くと──何と、本間ルミの大型の外車だ!
 亜矢子たちを見付けて停った車から、今日子が飛び出して来た。
「今日子ちゃん、来たの」
 と、亜矢子が言った。
 アリサとルミも車から降りて来た。
「おじいちゃんは?」
 と、今日子が訊く。
「分らないわ。この団地のどこかにいるのかも……。でも、こんなに真暗な中じゃね。それに、叶君を連れて、どこかへ逃げたらしいのよ」
 そのとき、ひとみのケータイが鳴って、
「──連ちゃんだ! ──もしもし?」
「ひとみか……。無事だったか?」
「亜矢子が助けに来てくれた。今、どこにいるの?」
「車から……飛び下りたんだ。ここ……どこだろ? 迎えに来てくれるか?」
「行くわ。車があるの。でも場所が──」
「〈S公園〉の裏手だ」
「〈S公園〉の裏?」
 それを聞いて、ルミが、
「車で十分だわ。早く乗って!」
 と言った。
〈S公園〉の裏手で、ガードレールに腰をかけてぐったりしている叶を見付けると、亜矢子はホッとした。
 殺されていたりしたら、責任を感じてしまう。
「連ちゃん!」
 車を降りて、ひとみが駆け寄る。
「大丈夫だよ……。肘とか打って痛いけどな……」
 と、叶がふらつきながら立ち上って、
「凄い車で来たんだな」
「それどころじゃないでしょ」
 と、ひとみは苦笑して、「けがの手当しないと。殴られてたじゃない」
「このそばに大学病院があるわ。そこへ連れて行きましょう」
 と、ルミが言った。
「──連中のこと、何か憶えてる?」
 車の中で、亜矢子は訊いた。
「何だか……殴られてボーッとしてたから……」
 と、叶は言ってから、「ただ……。うん、誰かが言ってたな。『(あい)(ざわ)に言わないと』とか……」
「相沢?」
 と、今日子がハッとした。「もしかして、お父さんのこと?」
「相沢さんが係ってるのかも……」
 と、亜矢子は言った。「今日子ちゃんのお母さんが殺された事件に、夫の相沢さんが係っていてもおかしくないわね」
「おじいちゃんが何か知ってたのかも」
「相沢さんに連絡してみようね、後で」
 ともかく今は叶を病院へ送り届けることだ。
 ルミの車は十分足らずで病院に着いた。亜矢子は、叶のことをひとみに任せて、
「後のことは私が。今日子ちゃん、帰って寝るのよ」
「うん……。疲れた」
 さすがに今日子もくたびれた様子だった。結局、ルミの車でマンションに送ってもらうと、亜矢子と今日子は、風呂にも入らず眠り込んでしまった。
 明日も撮影がある。──眠りに落ちる一瞬、亜矢子が考えたのは、翌日のスケジュールだった……。

 26 秘めごと

「大分くたびれてるようだな」
 と、正木が亜矢子を見て言った。「夜遊びは、クランクアップしてからにしてくれよ」
「それ以上言わないで下さい」
 と、亜矢子は欠伸しながら、「監督のことを殴りたくないので」
「何で俺を殴るんだ?」
「くたびれてるって、自分でよく分ってることを人から言われると、苛々するんです」
 ──あのクランクインの日に夕陽の中で撮った坂道でのロケだった。
「うまく行ってるな」
 と、正木は上機嫌である。「もう少しだ」
「ええ……」
 亜矢子はまた大欠伸をした。
 正木が上機嫌なのは結構なことだ。確かに、途中で大きな問題が起ったりしていないし、スケジュールも、若干遅れているものの、いつもに比べれば順調である。
「そういえば──」
 と言ったのは、カメラのそばにいた葛西(かさい)で、「五十嵐(いがらし)()()さんと()(ばた)()()()さんがセットで取材されてるようです。別にそう頼んでるわけじゃないんですが」
「それはいいな。佳世子も光って来てるぞ」
 そう。シナリオの戸畑弥生(やよい)の娘、佳世子は新人としてこのところ目立って来ている。素質があったのかもしれない。
 もっとも、当人はそんな状況を一向に分っていなくて、
「真愛さんの引き立て役」
 と、本気で思っているようだったが……。
「よし、そろそろ動きを確かめよう」
 カメラのポジションが決ると、正木が言った。
 すると、そこへ──。
「あの、亜矢子さん」
 と、若手の助監督が小走りにやって来た。
「どうかした?」
「週刊誌の人が取材に」
「取材だったら、私じゃなくて広報の担当に言ってよ」
「いえ、そうじゃないんです」
「──どういうこと?」
「映画についての取材じゃなくて──」
 そこへ、カメラマンと一緒の記者がやって来て、
(ひがし)(かぜ)亜矢子さんですね?」
「は?」
「そうじゃないわよ!」
 と、女性記者が続けてやって来ると、「(とう)(ふう)亜矢子って読むのよ。ねえ、そうでしょ?」
「どっちも違います!」
 と、亜矢子はムッとして、「()()亜矢子です! それぐらい読めないんですか?」
「へえ! 〈こち〉ですか! 今の首相は絶対読めないだろうな」
 と、メモして、「それで──。おい、写真だ!」
 カシャカシャとシャッターが切られて、レンズはどう見ても亜矢子を向いている。
「待って下さい! 何ですか、勝手に写真撮ったりして」
「事実ですか?」
「何が?」
「あ、いけね。言ってなかった。あなたと、橋田浩(こう)(きち)さんです。二人で毎日のようにホテルに泊ってると……」
 亜矢子が目を丸くして、
「どこからそんな話──」
「じゃ、本当なんですね? いつごろからの仲ですか?」
「ちょっと待って下さいよ! そんなのでたらめです! どうして私が……」
「明確な否定はしなかった、と」
「否定したでしょ、今」
「毎日ホテルに泊っている、というのは事実でなくても、関係があることは否定していませんよね」
「あのですね、橋田さんに訊いて下さい。もうすぐここへ来ますよ」
 と、亜矢子は呆れて言った。
 すると女性記者が、
「橋田さんのどんなところにひかれたんですか? というか──橋田さんはあなたのどんなところが良かったんでしょうね」
 と、ふしぎそうに言うので、
「それって失礼じゃないですか」
 と、言い返す。
「怖いスクリプターとして有名だそうですね。その怖さの内に秘めた女らしいやさしさにひかれたんでしょうかね」
「勝手に話を作らないで下さい!」
 と、亜矢子が腹を立てて言うと、
「その苛立ちは妊娠中のせいですね? よく分ります」
「誰が妊娠中だなんて……。ともかく──」
 と言いかけると、ちょうど橋田がやって来るのが見えた。「良かった! 橋田さん!」
「やあ、どうしたんだ?」
「週刊誌の人が──」
「お二人、肩を組んで下さい! 抱き合っていただけばもっといいんですけど」
 と、注文が飛ぶ。
 しかも、そこへTVカメラをかついで、TVのワイドショーまでやって来たのである……。

「よし、テスト行くぞ!」
 と、正木が声を出す。「真愛、ファーストシーンと同じようなカットだが──」
「はい、分ります。嵐を経験して、私は強くなったんですね」
 真愛の言葉を、意外と受け止めた者が多かっただろう。命がけの恋を失って、一人坂を上って行くカットなのだ。しかし、正木はそれを聞くと、
「そうだ! それでいい」
 と、嬉しそうに肯いた。「悲しみに押し流されるのがメロドラマではない。生きる力を失った恋から得るのがメロドラマなんだ」
 なるほど、と亜矢子は思った。
 失恋して泣くだけでは、単なる感傷だ。生きることの厳しさを描いてこそ、平凡なメロドラマを超えたメロドラマなのだ。
 その正木の狙いを、真愛はちゃんと読み解いていた。
 真愛が坂道を上って行くカット。──正木は満足そうだった。
「──少し雲があるな。日が射すまで待とう」
 と、正木が言った。
 亜矢子は記録の手を止めると、カメラから少し離れて立っている橋田の所へ行って、
「橋田さん、どういうことですか?」
 と、問いかけた。
「何だい?」
「さっきの取材ですよ! 私が何もないって言ってるのに、橋田さんが『想像にお任せします』なんて……。あれじゃ認めたのも同じじゃないですか」
「しかし、認めちゃいない」
「そりゃそうですけど……」
「ワイドショーの話題になるとはな! この()()で。──亜矢子君のおかげだよ」
「そんなことで喜ばないで下さいよ」
「なに、みんなすぐ忘れるさ」
 と、橋田は亜矢子の肩をポンと叩いた。
 しかし──今はそんなこと、考えちゃいられないのだが──亜矢子の心は微妙に揺れていた。
 あの動物園でのキス。そのひき起こした波はまだおさまっていなかった……。
「よし! この感じだ!」
 と、正木が張り切った声を上げた。
 亜矢子があわてて正木のそばへと戻る。
 明るい昼の光が坂道を照らす。
「真愛、いいな? ──用意、スタート!」
 カメラが回り、カチンコが鳴る。
 真愛の坂道を上って行く後ろ姿。
 そこには、生活の疲れも、人生の重荷を背負った辛さもなかった。力強く、一歩一歩、自分を待つ運命に立ち向って行く「女の強さ」が表現されていた。
 もしかすると、手術した()(さき)に付き添った日々の満足感が、真愛に力を与えたのかもしれないと思えた……。
「──カット! OK!」
 正木が声をかけたが、真愛は歩みを止めなかった。そして坂道を上り切ると、そこで足を止め、正木の方を振り向いて、深々と頭を下げたのである……。

 撤収の準備に入り、亜矢子がケータイの電源を入れると、すぐにかかって来た。
「もしもし、ひとみ?」
「亜矢子! (くら)()刑事さんから連絡があったの」
 と、ひとみが言った。「連ちゃんを連れ去ろうとした車が見付かったって」
「どこで?」
「郊外のホテルの駐車場にそっくりな車があって、ナンバーの半分を連ちゃんが憶えてたんで。そのホテルに、連中もまだいるらしいよ」
「すぐ行くわ!」
 亜矢子は場所を聞くと、急いで自分のバッグをつかんだ。そこへ、
「あの……」
 と、声をかけて来た人がいる。
「は?」
「ちょっとお伺いしたいことが……」
 どこかくたびれた感じの中年女性だった。髪は半ば白くなっているが、たぶんそう年令でもないだろう。
「私、急ぐので」
 と、亜矢子は言った。「ご用でしたら、誰かその辺の人間に」
 そしてそのまま行きかけたが、
「こちさんですよね」
 と、その女性が言った。
「え?」
 亜矢子は振り返った。
「もし違ってたらごめんなさい。亜矢子さんじゃ……」
「ええ、私ですが。──どちら様ですか?」
 と、亜矢子は訊いた。

 そこは、一部屋ずつがコテージ風になっている、いわゆるモーテルだった。
「大分古そうね」
 と、亜矢子は言った。
「あの車、停ってるやつ」
 と、ひとみが言った。
「何を待ってるの?」
「勝手に踏み込むわけにいかないんですよ」
 と言ったのは倉田刑事だった。「こうして監視してるのは構わないんですが」
 それはそうかもしれない。
 亜矢子が三十分ほどかけてやって来たとき、倉田刑事の車の中で、ひとみが待っていた。
「──亜矢子さん」
 と、車の方へ駆けて来たのは今日子だった。
「今日子ちゃん、早かったね」
「タクシーで来ちゃった」
 今日のロケには来ていなかったので、亜矢子は今日子へ連絡したのである。
「あそこに、おじいちゃんが?」
「それは分らないけど、ともかく事件に係った人間がいることは確かだと思うわ」
「でも、このままじゃ……」
 と、ひとみが言った。「いつ出て来るか分らないのに」
「待って」
 と、亜矢子は、そのモーテルの敷地に、ピザの宅配のバイクが入って行くのを見た。
「──亜矢子さん」
 と、倉田は言った。「危いことはやめて下さいね」
「他に手があります? 部屋を間違えたふりをすれば……」
「しかし──」
「あそこにピザ屋があるわね。倉田さん、あそこの制服を借りましょう。頼んで下さいよ」
「もしものことがあったら……」
「一切、あなたの責任は問いません、約束します」
「そう言われても……」
 倉田はため息をついたが、「やるとなったら、決して諦めない人ですからね」
 と言った。

 白いブラウスに、ピンクの帽子をかぶって、亜矢子はピザの入った紙箱を手に、モーテルの敷地へ入って行った。
 倉田が少し離れてついて行く。
 その車を横目に見て、亜矢子は部屋のドアの前で、ちょっと息をついた。
 倉田は、ドアが開いても見られないようにドアの脇の壁に背をつけて立つと、亜矢子に肯いて見せた。
 亜矢子が部屋のチャイムを鳴らす。
 そのとたん、室内で銃声がして、物の壊れる音がした。
「危いぞ! どいて!」
 倉田が亜矢子を押しやって、ドアを激しく叩いた。
「開けろ! 警察だ!」
 と怒鳴って、倉田はドアに肩からぶつかって行った。
 車から、今日子とひとみが飛び出して来た。
「危い! 来ないで!」
 と、亜矢子は叫んだ。
 銃を持っているとしたら、何が起るか分らない。
 倉田がもう一度ドアに体当りすると、ドアが開いた。

 (つづく)

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